第22話 封印王の朝食会
朝食会、という名前にしては、運ばれてきたものはひどく現実的だった。
白いトレー。温かい粥。味噌汁。焼き魚。小鉢。湯気の立つほうじ茶。病室のベッド脇に並べられたそれは、封印王だの王権だの地下封書庫だのという言葉とは、まるで別世界のものに見えた。
「……普通だな」
黎夜がぽつりと漏らすと、真昼がすぐに返した。
「普通でいいでしょ。今のあんたに変なもの食べさせたら倒れそうだし」
「いや、倒れた後なんだけど」
「だからでしょ!」
真昼はそう言いながら、粥の器を手に取った。
当然のように匙を持ち、当然のように冷まし始める。
「……待て」
「何」
「まさか食べさせる気か」
「手、震えてるじゃん」
「震えてない」
「震えてる」
「ほんの少しだ」
「それを震えてるって言うの」
容赦がない。
確かに、右手はまだ少し重かった。黒鎖の反動なのか、最深部での記憶の混濁なのか、指先に力が入りきらない。粥の匙くらい持てるとは思う。思うが、真昼の目が完全に許していない。
「……自分で食える」
「却下」
「何でお前が決めるんだよ」
「昨日から無茶した罰」
「それ罰なのか?」
「罰」
真昼はきっぱり言った。
刃更が横から静かに頷く。
「栄養摂取は優先事項です」
「お前まで乗るな」
「監視対象の身体状態を安定させる必要があります」
「便利すぎるだろ、その監視」
詩乃が椅子に腰掛けながら、涼しい顔で微笑んだ。
「よろしいではありませんか。幼馴染に看病される封印王。なかなか絵になりますわ」
「変な題名つけないでください」
「では、監視役と詠唱魔術師に見守られながら粥を食べさせられる封印王」
「悪化してます」
真昼が少しだけ頬を赤くしながらも、匙を差し出してくる。
「ほら」
「……本当にやるのか」
「やる」
「この空気で?」
「この空気だから」
逃げ場はなかった。
黎夜は観念して口を開ける。真昼が慎重に粥を運ぶ。熱すぎない。むしろちょうどいい。こういう細かいところが、昔から彼女は妙に上手い。
「……うまい」
「それ、私が作ったわけじゃないけど」
「冷まし方はうまい」
「何その褒め方」
真昼は呆れながらも、少しだけ笑った。
その笑顔に、胸の奥のこわばりがわずかに解ける。
地下で見た玉座の気配。ゼクスの笑み。最深部の扉。自分の中から溢れかけた黒鎖。それらはまだ消えていない。けれど、こうして朝食を食べる時間だけは、それらから少し距離を置ける。
刃更は病室の窓際に立ち、外を見ていた。
白銀の髪が朝の光に透けている。包帯を巻いた肩は痛々しいが、彼女の姿勢は崩れていない。
「天城」
「何ですか」
「お前も食べたのか」
「後で」
「後でって、昨日からまともに食ってないだろ」
「問題ありません」
「あるだろ」
真昼がすぐに乗った。
「そうだよ。天城さんも座って食べなよ」
「私は監視を――」
「それ、ご飯食べながらでもできるでしょ」
「……」
刃更が珍しく黙った。
詩乃が面白そうに目を細める。
「柊さんに一理ありますわね」
「詩乃先輩まで」
「私もいただきますもの。魔力回路が焼けた身に朝食は大切ですわ」
「焼けたってさらっと言わないでください」
結局、刃更もトレーを受け取ることになった。
彼女が椅子へ座ると、真昼は満足げに頷く。妙な構図だった。監視役を幼馴染が生活指導している。
だが、悪くない。
刃更は箸を取り、焼き魚を一口食べた。
「……おいしいです」
小さな声だった。
あまりにも素直だったので、黎夜も真昼も一瞬固まった。
「何ですか」
刃更が不審そうに見る。
「いや」
「別に」
二人で同時に誤魔化した。
詩乃だけがくすりと笑う。
「天城さん、そういうところは可愛らしいですわね」
「意味が分かりません」
「分からないままでいいと思いますわ」
刃更は少しだけ眉を寄せたが、それ以上は言い返さなかった。
朝食が半分ほど進んだ頃、詩乃が表情を改めた。
「さて」
その一言で、病室の空気が少しだけ引き締まる。
「食べながらで構いません。昨夜の整理をしておきましょう」
「やっぱり来るか」
黎夜は匙を置いた。
真昼がすぐに器を戻し、隣に座り直す。刃更も箸を置いた。
詩乃は端末を開き、淡い光の画面を空中へ展開する。そこには地下封書庫の簡略図が表示されていた。上層、中層、広間、そしてその下へ伸びる赤い線。
「《夜喰の心臓》は一時的に再封印。中層広間は封鎖。最深部連結路も現在は遮断状態ですわ」
「現在は、か」
「ええ。長くは持ちません」
詩乃は淡々と言った。
「おそらく、数日から長くて一週間。向こう側が再接続を試みれば、もっと早い」
「向こう側って、ゼクス?」
「ゼクス個人だけではありません」
刃更が答えた。
「彼の背後に組織があります」
「王権を神格化する組織、だったか」
「ええ。正式名称はまだ不明ですが、封印王権に関する情報を持ち、封書庫の構造も把握している。内部協力者がいる可能性もあります」
真昼が顔をこわばらせた。
「内部って、この学校の中に?」
「可能性の話です」
「それ、十分怖いんだけど」
「怖がるのは正しい判断ですわ」
詩乃が静かに言う。
「ただし、恐怖で動けなくなるのは危険です」
「……分かってる」
真昼は膝の上で手を握った。
昨夜の彼女は、ただ守られるだけではなかった。護身具で刃更を援護した。小さな一撃だったかもしれないが、あれがなければ刃更の傷はもっと深かった。
それを本人も覚えているのだろう。
「真昼」
黎夜が呼ぶ。
「何」
「昨日の援護、助かった」
真昼は目を瞬かせた。
それから、少し照れたように目を逸らす。
「……別に。足手まといになりたくなかっただけ」
「それでも助かった」
「うん」
真昼は小さく頷いた。
刃更も静かに言う。
「私からも礼を言います。あの一撃がなければ、負傷はさらに深かった」
「えっ」
真昼は今度こそ分かりやすく動揺した。
「い、いや、そんな、たまたまだし」
「たまたまでも有効でした」
「天城さんにそう言われると、なんか変な感じ……」
「変?」
「いや、嬉しいけど」
「そうですか」
刃更はそれだけ言って、また表情を戻した。
だが真昼は少しだけ嬉しそうだった。
詩乃はそのやり取りを見届けてから、話を戻す。
「問題は三つあります」
空中画面に三つの項目が並ぶ。
第一、ゼクスの逃亡。
第二、《夜喰の心臓》と最深部の再接続。
第三、黎夜の王権反応。
「一番危険なのは三つ目か?」
黎夜が問うと、詩乃は首を振った。
「全部ですわ」
「救いがない」
「ただし、三つ目は対策可能です」
詩乃はそう言って、黎夜を見る。
「あなたは昨日、黒鎖の性質を変えました」
「性質?」
「喰うのではなく、封じる方向へ。最後の核を貫いた黒鎖、覚えていますか?」
思い出す。
複合封骸の盾を、鎖ではなく杭のように変えた瞬間。あれは確かに、ただの暴発とは違った。
「……少しだけ」
「あれは重要です」
詩乃の声に熱が入る。
「封印王権は、喰らう力として恐れられている。けれど本質が“封じる”側にあるなら、あなたは災害ではなく制御者になれる可能性があります」
制御者。
災害ではなく。
その言葉を、黎夜はすぐには受け止められなかった。
刃更が静かに続ける。
「だから訓練します」
「やっぱりそこに戻るんだな」
「必要です」
「だろうな」
今回は反論しなかった。
いや、できなかった。
昨日の最深部手前で、もし完全に呑まれていたら何が起きたのか。考えたくない。だが考えないわけにもいかない。
真昼が不安そうに言う。
「訓練って、危なくないの?」
「危険ですわ」
詩乃は即答した。
「でも、訓練しない方がもっと危険です」
「……そればっかりだね」
「ええ。この物語、だいたいその二択ですわ」
「物語って言わないでください」
黎夜が突っ込むと、詩乃は涼しく笑った。
その時、病室の扉がノックされた。
入ってきたのは、昨日も見た女性教員だった。刃更を別室へ呼び出した、あの役人めいた雰囲気の人だ。
病室の空気が一段冷える。
「失礼する」
女性教員は中へ入り、黎夜を見た。
「霧生黎夜。意識が戻ったようだな」
「おかげさまで」
「皮肉を言う余裕があるなら十分だ」
真顔で返される。
この人も手強そうだ。
刃更が立ち上がる。
「橘管理官」
管理官。
教師ではないらしい。
「報告は後ほど提出します」
「それも必要だが、今は別件だ」
橘管理官と呼ばれた女性は、端末を操作し、一枚の許可証のような画面を投影した。
「本日より、霧生黎夜には特別管理訓練が義務付けられる」
「義務って」
「拒否権はない」
「でしょうね」
思わず苦笑する。
橘管理官は表情を変えず続けた。
「監視責任者、天城刃更。解析責任者、綾辻詩乃。日常接触補助、柊真昼」
「え、私も正式に入ってるの!?」
真昼が目を丸くした。
「あなたは対象者の日常安定に寄与すると判断された」
「日常安定……」
真昼が複雑そうな顔をする。
「つまり、ご飯食べさせたり怒ったりする役?」
「大きく外れてはいない」
「外れてないんだ……」
黎夜は思わず笑いそうになった。
だが橘管理官の次の言葉で、その笑いは引っ込む。
「ただし、今後一度でも暴走兆候が一定値を超えた場合、隔離判断は即時再開される」
病室が静まり返った。
隔離。
やはりその言葉は消えていない。
刃更が表情を硬くする。
「承知しています」
「天城刃更。あなたの判断も監査対象だ」
「はい」
「私情で誤れば、あなたも外す」
「……はい」
真昼が何か言いかけたが、黎夜は目で止めた。
ここで噛みついても、たぶん状況は悪くなるだけだ。
橘管理官は最後に黎夜を見る。
「霧生黎夜。あなたが人間として扱われる時間は、あなた自身の制御にかかっている」
「ずいぶんな言い方ですね」
「事実だ」
「最近そればっかり聞きます」
「なら慣れろ」
容赦がない。
だが、不思議と腹は立たなかった。
たぶん、この人は敵ではない。ただ、冷酷なほど管理側の人間なのだ。
「分かりました」
黎夜は静かに答えた。
「制御します」
橘管理官の目が少しだけ細くなる。
「言葉では足りない」
「でしょうね」
「証明しろ」
「はい」
短い返事。
けれど、その一言で自分の中の何かが少し決まった気がした。
橘管理官が去ると、病室には再び静けさが戻った。
真昼が深く息を吐く。
「……感じ悪い」
「まあな」
「でも、嘘は言ってなかった」
刃更が言う。
真昼は不満そうに唇を尖らせた。
「それが余計に嫌なの」
「同感ですわ」
詩乃が珍しく同意した。
黎夜は窓の外を見る。
朝の光はもう少し高くなっていた。学園都市は、何事もなかったように動き始めている。校舎へ向かう生徒たち、遠くのグラウンド、風に揺れる街路樹。
その地下で、封印が軋んでいる。
その中心に、自分がいる。
逃げられないのなら、せめて制御するしかない。
喰うためではなく。
封じるために。
「……なあ」
黎夜が口を開くと、三人がこちらを見た。
「訓練、いつからだ」
刃更が答える。
「あなたの身体が回復次第です」
詩乃が微笑む。
「早ければ明日ですわね」
真昼が呆れたように言う。
「もう少し休みなよ」
「休む。けど、逃げない」
そう言うと、真昼は少しだけ目を丸くした。
刃更は静かに頷き、詩乃は満足そうに笑った。
そして黎夜は、もう一度だけ右手を握った。
黒鎖はまだそこにいる。
けれど今は、昨日より少しだけ、その冷たさを自分のものとして感じられた。




