第20話 紅月の転校生
霧生黎夜が次に目を覚ました時、最初に見えたのは医務室の白い天井だった。
昨日も見た。
一昨日も見た気がする。
短期間で見慣れすぎて、もはや自室の天井より馴染みつつあるのが嫌だった。
「……またここか」
掠れた声で呟くと、すぐ横から淡々とした声が返ってくる。
「またここです」
視線だけを動かすと、椅子に座った天城刃更がいた。
白銀の髪を肩へ流し、制服姿のまま、背筋を伸ばして座っている。昨夜は脇腹を負傷していたはずだが、今は制服の上からでは分からない。ただ、動きが普段よりわずかに硬い。
「……お前、寝たのか」
「二時間ほど」
「少なすぎる」
「あなたは十一時間眠っていました」
「多すぎる」
「王権解放の反動としては妥当です」
「朝から聞きたくない単語だな」
黎夜は右腕を持ち上げようとして、途中で止めた。
重い。
いや、重いというより、身体の奥に鉛が流し込まれているような感覚だった。右腕には、昨日巻かれた術式包帯がまだある。青白い細い光が、脈に合わせてゆっくり流れていた。
その包帯の下に、黒鎖の気配はまだある。
眠っている。
けれど、消えてはいない。
地下神殿で自分が言った言葉が、頭の奥に蘇る。
――ここから先は、俺が相手だ。
――王権解放、《黒鎖封界》。
あれは、思い出した言葉なのか。
それとも、その場で自分が作った言葉なのか。
分からない。
ただ一つ言えるのは、あの瞬間、自分は確かに“封印王”の力を使ったということだった。
「気分は?」
刃更が問う。
「最悪より少し上」
「なら、上等です」
「基準が低すぎないか」
「本来なら一週間は隔離治療でもおかしくありません」
「……冗談?」
「事実です」
「そうかよ」
天井へ視線を戻す。
隔離。
その言葉を聞いても、もう驚きはしなかった。
昨日、上層で管理班の視線を見た時点で分かっていた。自分はこの学園にとって、ただの生徒ではない。危険物であり、観測対象であり、必要なら封じるべき存在なのだ。
だが、今このベッドにいる。
拘束室ではなく、医務室に。
それはきっと、刃更や詩乃が報告を整え、真昼が自分の袖を離さず、こちら側に引き戻してくれたからだ。
「……ありがとな」
ぽつりと言うと、刃更の目がわずかに揺れた。
「何に対してですか」
「いろいろ」
「曖昧ですね」
「細かく言うと長くなる」
「では記録には残せません」
「記録する気だったのかよ」
「少し」
「やめろ」
刃更はそこで、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「私も、あなたに礼を言うべきなのでしょう」
「何で」
「あなたが番人を止めなければ、私は死んでいた可能性が高い」
「……その言い方、重いな」
「軽く言うことではありません」
「それもそうか」
短い沈黙。
医務室の外から、遠く生徒たちの声が聞こえた。授業の合間だろうか。笑い声、足音、どこかの教師の注意する声。
日常の音だった。
地下で聞いた鎖の音とは違う。
それだけで、少しだけ息がしやすくなる。
「霧生黎夜」
刃更が改まった声で呼んだ。
「昨日の件について、正式な処分と今後の方針が出ました」
「もう?」
「仮決定です」
「聞きたくないけど、聞かないと駄目なんだろうな」
「はい」
刃更は膝の上に置いていた薄い端末を開いた。
「第一。あなたの隔離措置は保留」
「そこは昨日聞いた」
「第二。王権反応については、綾辻詩乃の観測下で定期検査」
「嫌な定期検査だな」
「第三。天城刃更による監視継続」
「それも聞いた」
「第四。学園生活は原則継続。ただし、単独行動の制限が強化されます」
「つまり?」
「当面、登下校、放課後、夜間外出には私か詩乃先輩、あるいは指定監視者の同行が必要です」
「人権……」
「あります」
「その返し、もう信用度低いぞ」
刃更は表情を変えずに続けた。
「第五。柊真昼については、制限付き情報保持者として登録されました」
黎夜は顔を向けた。
「真昼が?」
「はい。昨日の封書庫上層同行と、既に複数事案を目撃していることから、完全な記憶処理や隔離は不適当と判断されています」
「記憶処理って単語をさらっと出すな」
「却下されたので安心してください」
「安心の前に怖さが来るんだよ」
だが、真昼が“こちら側”に残ることが許されたのは、少しだけ安心した。
もちろん危険は増える。
けれど何も知らずに巻き込まれるよりはいい。
そう思う自分に、少しだけ申し訳なさもあった。
「真昼は?」
「先ほどまでいました。授業に戻るよう説得されました」
「真昼が素直に?」
「かなり抵抗しました」
「だろうな」
「あなたが起きたら必ず連絡するよう、強く言われています」
「強く、か」
「かなり強く」
想像できてしまう。
その時、医務室の扉が勢いよく開いた。
「黎夜、起きたってほんと!?」
柊真昼だった。
説得されて授業に戻ったはずでは、という疑問は一瞬で消えた。戻ったうえで、何かしら情報を掴んで飛んできたのだろう。そういう行動力だけは本当にある。
「授業は」
「休み時間!」
「今?」
「たぶん!」
「たぶんで抜けてくるなよ」
真昼はベッドの横まで来ると、黎夜の顔をまじまじと見た。
そして、ほっとしたように息を吐く。
「……顔色、昨日よりはまし」
「最悪より少し上らしい」
「何それ」
「天城評価」
「分かりにくい」
真昼はそう言いつつ、椅子に座るでもなく、ベッド脇へ立ったままだった。
何か言いたそうにしている。
だが言葉が出てこない。
珍しい。
「……悪かった」
黎夜が先に言うと、真昼の眉が跳ねた。
「何が」
「昨日、心配かけた」
「心配どころじゃないから」
「だろうな」
「本当に、ほんとに、もう……」
真昼は言葉を探すように口を開閉し、結局、深く息を吐いた。
「とりあえず、生きてるから許す」
「基準が極端だな」
「昨日の後なら当然でしょ」
真昼の目は少し赤かった。
また泣かせたのかもしれない。
そう思うと、言葉が少し詰まる。
「それで」
真昼は気を取り直すように言った。
「私も、これから説明受けることになった」
「ああ、聞いた」
「情報保持者、だって」
「大層な名前だな」
「ほんとにね。普通の幼馴染だったはずなんだけど」
「巻き込んだ」
「そこは否定しない」
真昼は少しだけ笑った。
「でも、何も知らないで外にいるよりはいい」
その言葉は、昨日と同じだった。
彼女の中でもう覚悟が固まっている。
それが嬉しいような、怖いような、複雑な気分だった。
「ただし」
真昼は急に真面目な顔になる。
「私がこっち側に入るなら、黎夜もちゃんと話して。危ない時に勝手に黙って突っ込むの禁止」
「みんなそれ言うな」
「みんなが言うってことは、あんたが悪いってこと」
「反論できない」
刃更が隣で小さく頷いた。
「同感です」
「天城さんも、無茶したら駄目だからね」
「私は任務上必要な判断を――」
「駄目だからね」
「……善処します」
「今、黎夜みたいな返事した」
真昼がじとっと見ると、刃更が少しだけ目を逸らした。
その小さなやり取りに、黎夜は思わず笑ってしまった。
笑うと身体の奥が痛んだ。
「いってぇ……」
「笑うからです」
「笑わせたのはそっちだろ」
「責任転嫁です」
刃更が淡々と返す。
真昼も少しだけ笑った。
その時、扉が軽くノックされた。
「賑やかですわね」
入ってきたのは綾辻詩乃だった。
彼女は昨日の消耗がまだ残っているらしく、普段より顔色は少し白い。それでも背筋は伸び、髪も整っている。こういうところが本当に隙がない。
「詩乃先輩も無事そうでよかった」
黎夜が言うと、詩乃は薄く笑った。
「無事というより、動ける状態に戻しただけですわ」
「それ無事じゃないですよね」
「似たようなものです」
「この人たち、基準が全部おかしい……」
真昼の呟きは正しい。
詩乃は端末を取り出し、軽く操作した。
「昨日の最深部について、現時点で分かったことを共有します」
「もう?」
「急がないと、上が情報を封じますもの」
「上って便利に不穏ですね」
「ええ、とても」
詩乃は画面に地下神殿の簡易図面を表示した。
玉座。
巨大扉。
円環紋様。
主封印。
そして第四閂。
「まず、昨日解除された第四閂ですが、即時の完全開放には至っていません。残存する封印鎖がまだ機能しています」
「残りはいくつあるんですか」
真昼が訊く。
「不明ですわ」
「不明!?」
「記録上は七重封鎖。ただし、昨日の反応を見る限り、形式上の七重と実際の防壁数が一致するとは限りません」
「また嫌なこと言う……」
詩乃は続ける。
「次に、主封印の番人。あれは封書庫の防衛機構ではなく、扉の内外を縫い留めるための楔でした」
「つまり、倒したのはまずかった?」
黎夜の問いに、詩乃は少しだけ間を置いた。
「結果だけ見れば、解除条件の一つでした」
「……」
「けれど、倒さなければ私たちが死んでいました。だから判断自体は間違いではありません」
そう言い切ってくれることに、少しだけ救われる。
だが罪悪感は消えない。
自分が《黒鎖封界》を使ったから、番人は砕けた。
番人が砕けたから、第四閂は外れた。
その因果は残る。
「最後に」
詩乃の表情が少しだけ険しくなった。
「灰堂ゼクスの目的ですが、どうやら単純な封印破壊ではありません」
「じゃあ何だ」
黎夜が問う。
「あなたの覚醒確認」
その言葉に、部屋の空気が沈んだ。
「《夜喰の心臓》、影兵、番人、玉座。すべて、霧生くんの王権を段階的に引き出す配置になっていました」
「……試されたってことか」
「ええ。そして、ゼクスは目的の大部分を達成した」
刃更の手が、膝の上でわずかに握られる。
「つまり、次がある」
「間違いなく」
詩乃は頷いた。
「しかも次は、こちらが対応する前に仕掛けてくるでしょう」
嫌な沈黙が落ちる。
だが、その沈黙を破ったのは真昼だった。
「じゃあ、こっちも準備しないとね」
その声は震えていなかった。
怖がっていないわけではない。
怖がって、それでも言っている。
「黎夜は制御の練習。天城さんは怪我を治す。詩乃先輩は調べる。私は……できること探す」
「真昼」
「何もできないまま待つの、嫌だから」
真昼はまっすぐこちらを見る。
「だから、ちゃんと役割ちょうだい」
黎夜は少し驚き、それから頷いた。
「分かった」
「今度は善処じゃないね」
「さすがに学んだ」
「よし」
真昼は満足そうに頷いた。
刃更も静かに言う。
「情報保持者としての基礎講習があります。柊真昼には、まず危険時の退避手順と連絡系統を覚えてもらいます」
「本格的……」
「必要です」
「はいはい、便利な言葉」
真昼がそう返すと、刃更は一瞬だけ言葉に詰まり、詩乃が小さく笑った。
その空気は、不思議と悪くなかった。
問題は山積みだ。
地下の扉。
ゼクス。
ルクレツィア。
王権。
そして、自分自身の過去。
けれど、今ここには一人ではない空気があった。
それだけで、昨日より少しだけ前を向ける気がした。
医務室での検査後、黎夜は昼過ぎに教室へ戻る許可を得た。
もちろん条件付きだった。
刃更同行。
激しい運動禁止。
王権反応があれば即報告。
放課後は詩乃の研究室で定期検査。
自由とは何か、哲学的に考えたくなる条件だった。
だが、教室へ戻る廊下を歩いていると、意外なほど気持ちは軽かった。
表側の生徒たちは、昨日の事件を完全には知らない。けれど校内にはまだ噂が残っていて、視線は多い。黎夜、刃更、真昼、詩乃の組み合わせはどう見ても目立つ。
それでも、昨日までほど嫌ではなかった。
隠すべきものは増えた。
背負うべきものも増えた。
けれど、戻る場所もまた、ここにある。
教室の扉を開けると、クラスメイトたちの視線が一斉に集まった。
「霧生、大丈夫だったのか?」
「昨日の避難騒ぎ、やばかったよな」
「天城さんも一緒?」
「柊さん、朝からめっちゃ探してたよね」
騒がしい。
普通だ。
少しだけ、泣きたくなるくらいに。
「大丈夫だよ」
黎夜はそう答えた。
「ちょっと倒れただけ」
「それ大丈夫じゃないだろ!」
誰かが突っ込み、教室に笑いが広がる。
真昼が隣で小さくため息を吐いた。
「ほんと、心配させる言い方するよね」
「軽く言ったつもりなんだけど」
「軽くない」
刃更は黎夜の隣の席へ当然のように座る。
その光景にも、クラスはもう少しずつ慣れ始めていた。怖い慣れ方だ。
そして、午後のホームルーム。
担任が教室へ入ってきた瞬間、黎夜は嫌な予感を覚えた。
なぜなら、担任の後ろにもう一人いたからだ。
銀色の長い髪。
透き通るような白い肌。
黒と深紅を思わせる、不思議な色合いの瞳。
月蝕学園の制服を着ているのに、どこか制服の方が彼女に合わせているようにさえ見える少女。
黒栖ルクレツィア。
教室の空気が、一瞬で凍った。
刃更の手が机の下で剣の柄へ伸びる。
真昼が小さく「え」と声を漏らす。
詩乃は教室にはいない。だが、いたらきっと頭を抱えていたに違いない。
担任は何も知らない顔で言った。
「えー、急だが、今日から転校生が来る」
急すぎる。
あまりにも急すぎる。
ルクレツィアは教壇の横へ立ち、優雅に微笑んだ。
「黒栖ルクレツィアです」
その声は、昨夜の屋上で聞いたものと同じ甘さを持っていた。
彼女はクラス全体へ視線を向け、それから最後に黎夜だけを見た。
「色々と不慣れなこともあるけれど、仲良くしてくれると嬉しいわ」
男子たちがどよめく。
女子たちも、その異様な美貌に息を呑んでいる。
だが黎夜には、それどころではなかった。
ルクレツィアは微笑んだまま、誰にも聞こえないほど小さく唇だけを動かした。
――次は、もっと近くで。
昨日、彼女が去り際に言った言葉。
それを本当に実行してきたのだ。
刃更が低く囁く。
「霧生黎夜」
「何だ」
「今すぐ退学してもらいたいのですが」
「俺に言うな」
真昼が逆側から小声で言う。
「ねえ、あの人、昨日の……?」
「ああ」
「何で転校してきてるの!?」
「俺が聞きたい」
担任は当然のように席を決めた。
「黒栖の席は……霧生の後ろが空いてるな」
教室が爆発した。
黎夜は天井を仰いだ。
神様がいるなら、かなり性格が悪い。
ルクレツィアは楽しげに歩いてきて、黎夜の後ろの席へ腰を下ろした。
そして、耳元へ届くくらいの小さな声で囁く。
「よろしくね、封印王」
その瞬間、黎夜は確信した。
平穏は戻ってきたのではない。
ただ、さらに面倒な形へ姿を変えただけだ。
白銀の監視役が隣にいる。
幼馴染が前にいる。
紅月の転校生が後ろにいる。
そして自分の中には、まだ黒い鎖が眠っている。
月蝕学園の新しい日常は、こうして最悪に騒がしく幕を開けた。




