第18話 月蝕の向こう側
主封印の番人。
灰堂ゼクスがそう呼んだ無貌の影は、玉座の前でゆっくりと立ち上がった。
人の形をしている。
だが、人ではない。
黒い法衣のようなものを纏い、顔には王冠と黒鎖の紋様が刻まれた仮面めいた面がある。目も口も鼻もない。なのに、こちらを見ていると分かる。視線のない視線。感情のない観察。そこに立っているだけで、地下神殿全体の鎖が軋むように鳴った。
じゃら、じゃら、と。
柱に巻かれた封印鎖が震える。
天井から垂れる黒い鎖が揺れる。
床に刻まれた巨大な円環紋様が、薄く赤く灯り始める。
「……これが、番人?」
綾辻詩乃の声が低く落ちる。
彼女はすでに術式を展開していた。両手の指先に玻璃色の光が宿り、足元には防御用の小型円陣が三重に浮かんでいる。だがその声には、普段の余裕がない。
「封書庫の記録には、こんな存在はありませんわ」
「記録に残せるなら、主封印とは呼ばないだろ」
ゼクスが楽しげに言う。
彼は玉座の横に立ち、傷ついた胸元を片手で押さえていた。刃更に斬られた傷は浅くはないはずなのに、その口元にはまだ笑みがある。痛みを感じていないわけではない。ただ、痛みよりも目的が勝っている顔だった。
「こいつは守るための番人じゃない。封じたものが勝手に外へ出ないように、内側から世界を縫い留めるための楔だ」
「それを起こしたのですか」
刃更が白銀の剣を構える。
彼女の脇腹にはまだ包帯が巻かれたばかりだ。呼吸も完全ではない。それでも、剣先はぶれない。白銀の瞳はゼクスではなく、番人の中心をまっすぐ捉えている。
「起こした、というより」
ゼクスは笑った。
「封印王が来たから、向こうが起きたんだ」
その言葉に、黎夜の右腕が鈍く疼いた。
まただ。
この場所へ来てから、黒鎖の反応が強くなっている。腕の奥ではなく、胸の奥、骨の内側、記憶の底まで鎖が食い込んでいるような感覚がある。
ここを知っている。
そんなはずはないのに、身体だけがそう告げている。
夢で見た石の神殿。
柱。
玉座。
封印扉。
そして――座れ、という声。
あれは夢ではなかった。
少なくとも、ただの夢ではなかった。
「霧生くん」
詩乃が鋭く囁く。
「玉座を見ないで」
「……見てる場合じゃないっての」
「そうではありません」
詩乃の声が珍しく切迫していた。
「視線を合わせるだけでも、引かれる可能性がありますわ」
言われた瞬間、黎夜は無意識に玉座へ向けかけていた目を逸らした。
石の玉座。
黒鎖と王冠の紋章。
そこに座るべき誰かがいない空席。
見てはいけない、と分かっているのに、視線が吸われる。
ルクレツィアの声が脳裏をよぎる。
――玉座を見ても、絶対に座らないで。
「……くそ」
黎夜は奥歯を噛む。
「本当に、嫌な忠告ばっかり当たるな」
「ルクレツィアか」
ゼクスがその名に反応した。
「あいつ、余計なことを言ったんだな」
「知り合いか」
「古い知り合い、って言うほど綺麗な関係じゃない」
ゼクスの声に、初めて微かな苛立ちが混じる。
「だがまあ、あいつが警告したのなら正しい。そこに座れば、お前は本当に“戻る”」
「どこに」
「王座だよ」
ゼクスは玉座へ顎をしゃくった。
「お前が一度、座らされた場所だ」
頭の奥に、痛みが走った。
座らされた。
その言葉が、記憶の蓋を爪で引っ掻く。
暗い地下。
誰かの声。
小さな手。
冷たい鎖。
泣くな、と言ったのは誰だったのか。
泣いていたのは、誰だったのか。
「霧生黎夜!」
刃更の声が、鋭く飛んできた。
意識が戻る。
目の前では、主封印の番人が一歩を踏み出していた。
それだけだった。
本当に、ただ一歩。
だがその一歩で、石床の円環紋様が一斉に黒く染まり、柱の鎖が鞭のように跳ねた。
「来ます!」
刃更が前へ出る。
番人の右腕が持ち上がった。
その腕には武器らしいものはない。ただ、袖の内側から黒鎖が何本も伸び、槍のように束ねられていく。
黎夜は息を呑んだ。
自分の黒鎖と似ている。
だが違う。
あれは冷たい。乾いている。守るためでも、喰らうためでもない。ただ“縛る”ためだけにある鎖だ。
番人の腕が振り下ろされた。
黒鎖の槍が三人へ向けて降る。
「散って!」
詩乃の声。
黎夜は左へ跳んだ。刃更は真正面へ踏み込み、詩乃は後方へ下がりながら玻璃障壁を展開する。次の瞬間、黒鎖の槍が石床へ突き刺さり、床を砕いた。
衝撃だけで身体が吹き飛びそうになる。
「っ、重っ……!」
黎夜は床を転がりながら体勢を立て直す。
刃更はすでに斬り込んでいた。
「斬ります!」
白銀の刃が番人の胴へ走る。
だが、通らない。
刃は黒い法衣の表面に触れた瞬間、無数の鎖に受け止められた。金属音ではなく、低い鐘のような音が鳴る。刃更の剣筋が弾かれ、彼女の体勢がわずかに崩れる。
その瞬間、番人の左腕が伸びた。
速い。
刃更の脇腹へ向かって、黒鎖の爪が迫る。
「天城!」
黎夜の影から黒鎖が伸びる。
二本だけ。
番人の左腕へ絡みつき、軌道を逸らす。爪は刃更の肩を掠め、制服の布だけを裂いた。
「助かりました」
「まだ終わってない!」
番人の仮面が、ゆっくり黎夜へ向いた。
目はない。
なのに、確かにこちらを見た。
次の瞬間、黎夜の黒鎖が震えた。
番人へ絡みついていたはずの鎖が、逆に引っ張られる。まるで相手がこちらの王権の根元を掴んだみたいに。
「っ、が……!」
右腕に激痛が走る。
黒鎖が、番人の鎖と共鳴している。
いや、奪われかけている。
「霧生くん、繋ぎっぱなしは駄目!」
詩乃が叫ぶ。
「主封印側の鎖は、封印王権と同系統ですわ! 引き戻されます!」
「先に言ってくれ!」
「今分かったのです!」
もっともだが、最悪のタイミングだ。
黎夜は歯を食いしばり、黒鎖を切ろうとする。だが、番人の鎖が絡みついて離さない。右腕の感覚がじわじわと冷えていく。身体の内側から、“そこへ戻れ”と命令されているようだった。
玉座。
座れ。
戻れ。
王よ。
「……うるさい」
黎夜は低く呟く。
「うるせえんだよ……!」
黒鎖を自分の意思で引き千切る。
ぶちん、と鈍い音がした。
右腕へ焼けるような痛みが返ってくる。視界が一瞬白くなる。だが鎖は切れた。
番人は一歩も動じない。
ただ、仮面の紋様が赤く光った。
その瞬間、地下神殿全体の鎖が動いた。
「上!」
刃更が叫ぶ。
天井から、柱から、床から、無数の黒鎖が三人へ襲いかかる。
詩乃が前へ出た。
「玻璃天蓋、簡易展開!」
透明な半球結界が三人の頭上へ広がる。黒鎖がそこへ叩きつけられ、凄まじい衝撃が走った。結界にひびが入る。詩乃の顔が苦痛に歪む。
「長くは持ちませんわ!」
「十分です!」
刃更が叫び、結界の隙間から飛び出す。
白銀の剣が、番人へ向かって一直線に走った。
「その罪、剣で答えなさい!」
刃更の決め台詞とともに、剣が白く燃える。
神装兵具《雪華断剣・白磁》。
その刀身がいくつもの白い花弁のように分裂し、番人の周囲へ展開した。多段変形剣。無数の小刃が一斉に軌道を変え、番人の鎖を削る。
初めて、番人の防御が揺らいだ。
「いける!」
黎夜が叫ぶ。
しかしゼクスが、いつの間にか玉座の横から手を上げていた。
「それは困る」
ゼクスの影が刃更の足元へ走る。
黒い刃が床から突き上がった。
「っ――!」
刃更は咄嗟に避ける。だが完全には避けきれない。黒刃が脇腹の傷口付近をさらに裂いた。
血が散る。
「天城!」
黎夜の声が神殿に響く。
刃更の身体が崩れかける。
それでも、彼女は倒れなかった。
片膝をつきながら、剣を床へ突き立てて踏みとどまる。
「……まだ、です」
白銀の髪が、汗と血で頬に張りついている。
それでも彼女の目は死んでいない。
「監視対象の前で……倒れるわけには、いきません」
「馬鹿か、お前!」
「ええ」
刃更は薄く息を吐いた。
「たぶん、少し」
その返答が妙に人間らしくて、胸の奥が焼けるように熱くなった。
ゼクスが笑う。
「いい顔だな、封印王」
「……お前」
「怒れ。もっと怒れ。その方が扉は開きやすい」
それを聞いた瞬間、黎夜は悟った。
こいつは、最初からそれが狙いだ。
刃更を傷つけることも、詩乃を追い込むことも、真昼を危険に晒すことも。全部、黎夜の感情を揺らし、王権を深く引きずり出すための手段。
怒れば、鎖が出る。
鎖が出れば、番人と共鳴する。
そして、玉座へ引かれる。
「……最低だな」
「効率的と言ってほしい」
「言うわけないだろ」
黎夜は一歩前へ出た。
右腕が疼く。
だが今度は、怒りだけではない。
恐怖もある。
痛みもある。
それでも、目の前で傷ついた刃更を見て、詩乃が詠唱のために歯を食いしばっているのを見て、上で待つ真昼の顔を思い出して、ようやく分かった。
逃げたかった。
ずっと、自分が何なのかを知りたくなかった。
でも、それで守れるものなどなかった。
「詩乃先輩」
黎夜は番人を見据えたまま言う。
「もう一回、封じられますか」
「条件次第ですわ」
詩乃の返答は即座だった。
「俺が番人を止める」
「危険です」
「知ってます」
「呑まれる可能性があります」
「分かってます」
「なら――」
「でも、止めないと刃更が死ぬ」
その一言で、詩乃は黙った。
刃更が顔を上げる。
「霧生黎夜、やめなさい」
「命令か?」
「命令です」
「悪い」
黎夜は息を吸った。
「今回は聞けない」
刃更の瞳が揺れた。
その表情を見て、胸が痛んだ。たぶん彼女は怒るだろう。あとで本気で叱られるかもしれない。だが、あとで叱られる未来があるなら、それで十分だ。
黎夜は右腕を前へ出す。
黒鎖が噴き上がる。
一本、二本、三本。
今度は抑えない。
ただし、喰わせない。
封じるためだけに使う。
「封じる。喰らう。終わらせる」
言葉が自然に口から出た。
それは知っていた言葉ではない。
思い出した言葉でもない。
けれど、自分の奥底に最初から刻まれていたような響きがあった。
「――王権解放、《黒鎖封界》」
地下神殿の空気が、反転した。
黎夜の足元から、漆黒の円環が広がる。
黒鎖が床へ、柱へ、空間そのものへ突き刺さり、番人の鎖と正面から噛み合う。音が消えた。いや、鎖の音だけが世界の中心へ置かれた。
番人の仮面が赤く光る。
向こうもまた、無数の封印鎖を解き放った。
黒と黒がぶつかる。
黎夜の鎖は、番人の鎖を喰おうとする。
番人の鎖は、黎夜を玉座へ引き戻そうとする。
互いに同系統の力。
だが、意志が違う。
番人は縛る。
黎夜は、守るために封じる。
「ぐ、っ……!」
全身に負荷がかかる。
骨が軋む。血が逆流する。頭の中で“座れ”という声が何度も響く。
玉座が視界の端で揺れる。
そこに座れば楽になる。
すべての鎖が自分のものになる。
そう囁く。
「うるさい……!」
黎夜は歯を食いしばる。
「俺は、そこに座りに来たんじゃない……!」
その声に、黒鎖が応えた。
番人の足元へ鎖が絡みつき、無貌の身体を床へ縫い止める。番人は初めて明確に動きを止めた。
「詩乃先輩!」
「ええ!」
詩乃が両手を掲げる。
彼女の周囲に、今までで最も複雑な術式輪が展開した。
「天に眠る玻璃の秩序よ、地に沈む黄昏の記憶よ。星辰の巡礼は破綻なく、言霊の律は欠損なく――」
長文詠唱。
だが今度の詠唱は、先ほどの《グラン・アルカ=セフィラ》よりさらに深い。地下神殿そのものに向けて、言葉を打ち込んでいる。
ゼクスが動こうとする。
「させるかよ!」
黎夜の黒鎖がゼクスの進路を塞ぐ。
ゼクスは黒刃でそれを斬る。だがすぐに別の鎖が伸びる。完全には止められない。それでも、一歩を奪うだけでいい。
刃更が、そこへ立ち上がった。
「……まだ、動けます」
「お前、本当に馬鹿だろ!」
「あなたに言われたくありません」
白銀の剣が再び光を帯びる。
刃更は傷ついた身体を引きずるようにして、それでもゼクスの前へ立った。
「ここは、私が」
「どいつもこいつも」
ゼクスが初めて苛立ったように笑った。
「封印王の周りは面倒な奴ばかりだな」
「それは」
刃更が剣を構える。
「褒め言葉として受け取ります」
白銀の一閃。
黒刃と白刃が激突する。
その間に、詩乃の詠唱は頂点へ達した。
「虚数に堕ちし災いを、因果の外にて断絶し、我が名のもとに封は解かれ、我が声のもとに終焉は定義される!」
地下神殿全体に、玻璃色の光が満ちる。
「七重封界術式――《グラン・アルカ=セフィラ》!」
今度の光は、天から降るのではない。
地の底から立ち上がった。
黎夜の黒鎖を芯にして、詩乃の玻璃結界が番人の身体を包み込む。黒と玻璃の二重封印。番人の仮面が激しく赤く点滅し、無数の鎖が暴れ狂う。
「まだだ!」
黎夜はさらに一歩踏み込む。
玉座が近づく。
座れ、と声が響く。
だが今、彼はその声を聞きながら、初めてはっきり拒絶した。
「お前はもう、誰も傷つけられない」
黒鎖が番人の胸元を貫く。
喰らうのではない。
封じる。
その意志だけを乗せる。
番人の身体に亀裂が走った。
仮面の紋様が砕け、王冠と黒鎖の印が割れる。中から漏れたのは悲鳴ではなく、長く古い息のような音だった。
次の瞬間、番人は無数の黒い破片となって崩れた。
地下神殿に沈黙が落ちる。
主封印の番人は、消えた。
だが勝利の余韻はなかった。
番人が消えた途端、背後の巨大扉に刻まれた紋章が、赤く輝いたからだ。
『最深部主封印、第四閂解除』
アナウンスではなかった。
今度は、扉そのものがそう告げた。
ゼクスは白銀の剣に押されながらも、血を吐くように笑っていた。
「成功だ」
「何が……!」
刃更が叫ぶ。
「番人を倒したな」
ゼクスの笑みが深くなる。
「つまり、お前たちが自分で、主封印の守りをひとつ外した」
黎夜の血の気が引く。
番人を倒したことが、封印解除の条件だった。
こちらは罠に踏み込んだ。
ゼクスはよろめきながら後退し、玉座の影へ溶けるように消えていく。
「また会おう、封印王。次は扉の向こうだ」
「待て!」
黒鎖を伸ばそうとした瞬間、黎夜の膝が崩れた。
限界だった。
王権解放の反動が、一気に身体を潰しにくる。視界がぐらりと歪み、足元の石床が遠くなる。
「黎夜!」
遠くで真昼の声がした気がした。
いや、ここにはいないはずだ。
聞こえるはずがない。
それでも、声がした。
次に聞こえたのは、刃更の声だった。
「霧生黎夜!」
誰かの腕が支える。
白銀の髪が視界に入る。
「……わり」
かすれた声で言う。
「また、無茶した」
刃更は怒った顔をしていた。
今まで見た中で、一番。
「あとで説教します」
「……それ、帰れるってことだよな」
「帰ります」
彼女の声は震えていなかった。
「絶対に」
その言葉を聞いて、黎夜は少しだけ笑った。
地下の扉はまだ赤く光っている。
第四閂は解除された。
だが今は、まだ倒れるわけにはいかなかった。
遠く、黒い玉座がこちらを見ている。
その座面には、まだ誰も座っていない。
そして黎夜は、意識が沈みかける直前、確かに思った。
あそこには座らない。
たとえ自分が何者だったとしても。
今の自分は、そこへ戻るためにここへ来たわけではないのだから。




