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『月蝕学園の封印王――監視役の剣姫も、詠唱魔術の才媛も、俺の日常を壊しにくる』  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第16話 ここから先は、俺が相手だ

 地下封書庫の中層広間は、ようやく一時的な静けさを取り戻していた。


 ほんの数分前まで影兵の群れと術式の轟音に満ちていた空間が、今は逆に耳鳴りがしそうなほど静かだ。残っているのは赤い警報灯の明滅と、《玻璃天蓋結界》の内側でかすかに脈打つ《夜喰の心臓》、そして全員の荒い呼吸だけ。


 詩乃は《夜喰の心臓》の前へ膝をつき、追加の固定封印を重ねていた。


 長文詠唱の直後だというのに、指先の動きはまだ精密だ。だが、その背中がさっきより僅かに細く見える。あれだけの術式を連続で展開したのだ。無理をしていないわけがない。


 刃更は壁際へ腰を下ろしたまま、脇腹の裂傷へ簡易止血だけ施していた。血の勢いはもう収まりつつあるが、制服の白いシャツに滲んだ赤が痛々しい。


 真昼は第二隔壁の手前に留めてある。近づくなと言われれば一応従う。だが視線だけはずっとこちらから離れていない。今にも駆け寄りそうな気配を押し殺しているのが分かる。


 そして黎夜は、広間の中央から少し離れた場所で、自分の右手を見下ろしていた。


 さっき増やした黒鎖の反動なのか、指先にまだ痺れが残っている。


 冷たいような、焼けるような、奇妙な感覚。


 制御できた、という実感は確かにあった。けれど同時に、“あちら側”へ一歩踏み込みすぎた感触もあった。もっと伸ばせる。もっと喰える。そう囁くものが、まだ腕の奥で息をしている。


「霧生くん」


 詩乃がこちらを振り向かずに言う。


「今のうちに、聞いておきたいことがありますの」


「何ですか」


「《夜喰の心臓》へ鎖が触れた時、何が見えた?」


 黎夜は少し黙った。


 見えた、というより流れ込んだに近い。


 赤。鎖。扉。玉座。階段。呼ぶ声。座れ、という命令めいた囁き。


「夢の続きみたいなものです」


「具体的には?」


「地下。玉座。扉。あと……」


 そこで一瞬、喉が詰まる。


「“もっと喰え”って感じの衝動」


 詩乃が止まった。


 刃更も顔を上げる。


 真昼だけはその意味が半分も分かっていない顔で、それでも不安そうに眉を寄せた。


「それ、かなりまずいんじゃないの?」


 率直な問いだった。


 詩乃が低く息を吐く。


「ええ。かなり」


「言い切るんだ……」


「でも想定外ではありませんわ」


 詩乃は再び術式を重ねながら続けた。


「《夜喰の心臓》は“夜を喰う”側の遺産。封印王権と相性が悪いどころか、最悪に近い。触れた時点で喰うか喰われるかの回路が成立しても不思議ではない」


「最悪って言葉、今日何回目だろうな」


 黎夜がぼやくと、刃更が壁にもたれたまま言った。


「更新され続けていますので」


「そんな冷静に言うなよ」


「冷静でないと、次に対応できません」


 もっともだが、もっと慰めのある返しはできないものか。


 その時、広間の床が小さく震えた。


 全員の視線が一斉に下を向く。


 どくん、と。


 今度は《夜喰の心臓》ではない。もっと遠く、もっと下から響いてくる脈動だ。石床の下、さらにその奥に、別の“心臓”があるみたいに広間全体が一拍だけ揺れた。


『最深部主封印、第二閂解除』


 無機質なアナウンスが続ける。


 空気がまた一段重くなる。


「第二閂……」


 真昼が思わず声を漏らした。


「まだ増えるの?」


「増えます」


 詩乃が短く言う。


「主封印が段階式なら、当然ですわ」


「当然、って何だよもう……」


 黎夜が顔をしかめる。


 階段を一段ずつ降りるように、最深部の封印が外されていく。そんな構造を設計した誰かの正気を疑いたくなる。


 刃更が立ち上がろうとしたが、傷の痛みで僅かに動きが鈍る。


「っ……」


「無理するな」


 黎夜が反射的に言うと、彼女は即座に睨んだ。


「無理はしていません」


「その脇腹で言っても説得力ないぞ」


「行動不能ではない」


「それも今は問題じゃないだろ」


「問題です」


 言い返しながらも、刃更はほんの一瞬だけ目を伏せた。


 自分でも本調子ではないと分かっているのだろう。だが認めたくない、という色がある。


「天城さん」


 詩乃が振り向く。


「あなた、その状態で最深部へ先行するつもりではありませんわよね」


「必要なら」


「却下です」


 即答だった。


「あなたが先で、私が封印維持。霧生くんが中間。そういう形を取るつもりなら、逆に崩れますわ」


「ではどうしろと」


「役割を変えるしかありません」


 詩乃の視線が黎夜へ向く。


「霧生くん」


「嫌な予感しかしない」


「して当然です」


 全然慰めてくれない。


「最深部へ降りた場合、向こうはもう“あなたを見ている”前提で来ますわ」


「だろうな」


「なら、相手の主軸をあなたが引き受けるしかない」


 真昼がはっと顔を上げた。


「ちょっと待って、それって一番危ない役じゃないの?」


「ええ」


 詩乃はまるで天気の話でもするように答える。


「ですが最も適しています」


「適してるからって、やらせていいの!?」


「やらせたくはありませんわ。でも、最深部で王権へ最も強く反応されるのは、間違いなく彼です」


 理屈は分かる。


 分かるからこそ、真昼の顔が歪んだ。


 黎夜自身も嫌だった。だが、それ以上に腹が立つのは、詩乃のその分析が正しすぎることだ。


「お前はどう思う」


 黎夜は刃更へ問うた。


 刃更は数秒だけ黙り、それから低く答える。


「反対したいです」


 珍しい言い方だった。


「でも?」


「反対しても、最善ではない」


 白銀の瞳が、まっすぐこちらを見る。


「あなたが前に出るのが、一番全体の生存率を上げます」


 遠回しな言い方をしない。そこが刃更らしい。


「ただし」


 そこで彼女は一歩だけ近づいた。


「あなた一人で背負わせるつもりはありません」


 その一言に、胸のどこかが少しだけ軽くなる。


 真昼はまだ納得していない顔だった。


「でも、黎夜ってそういう役を自分からやっちゃうじゃん」


「やってるつもりはない」


「結果的にそうなってるの!」


 その指摘が痛い。


 今までだって何度も、気づけば前へ出ていた。誰かを庇うとか、危ない方へ足が向くとか、そういう動きは、理屈より先に身体がやってしまう。


「だからこそ、条件を付けますわ」


 詩乃が言った。


「霧生くん、最深部では“あなたが一人で全部受ける”形は許しません」


「どういう意味だ」


「詠唱の時間を作るための前衛にはなってもらいます。ですが、あなた自身が王権へ呑まれそうなら、私たちはその時点で退く」


「退く?」


「ええ」


 詩乃の声は冷静だった。


「《夜喰の心臓》に触れた時、あなたはぎりぎりで止まれた。でも次も同じとは限らない」


「……」


「ですから、“ここから先は一人で背負う”は禁止です」


 その言い方に、少しだけ違和感を覚えた。


 禁止。


 命令に近い。だがその内容は、どこか自分を守る方向を向いている。


「それを守れますか」


 詩乃の問いに、黎夜は返事を少し迷った。


 守れるかどうかなんて、自分でも分からない。いざという時、身体が勝手に動く可能性は高い。


 けれど今ここで黙れば、もっと別の形で足を縛られる気がした。


「……努力はする」


 ようやく絞り出した返答に、真昼がすぐさま突っ込む。


「努力じゃ弱い!」


「だろうな」


「だろうなじゃない!」


 そのやり取りを聞いて、刃更がほんの少しだけ目を細めた。


「では、私も条件を出します」


「何だよ」


「今から最深部へ降りるまで、私の指示には即答で従ってください」


「えらく強気だな」


「脇腹を裂かれても立っている人間の発言です」


「その言い方、ちょっと格好いいの悔しいな」


「褒めていません」


「分かってる」


 その軽口の直後だった。


 広間の奥、《玻璃天蓋結界》に封じた《夜喰の心臓》が、今までで最も大きく脈打った。


 どくんっ、と。


 空気そのものが強く引きつる。


「なっ――」


 詩乃が振り返る。


 結界の内側で、心臓の表面に赤い亀裂が走っていた。封じたはずなのに、内部から何かが押し返している。


「固定封印が……」


「破られるのか!?」


 黎夜が叫ぶ。


「いいえ、完全には――」


 詩乃が言い終わる前に、心臓の亀裂から一本の黒い腕が伸びた。


 腕、というより、人の形をした何かが無理やり這い出ようとしているように見えた。細い指。長い爪。黒い影と赤い脈が混じったような、気味の悪い手。


「……っ!」


 真昼が息を呑む。


 刃更は傷を忘れたように前へ出た。


「詩乃先輩!」


「分かっています!」


 詩乃が追加の封環を重ねる。だが今度の侵食は早い。心臓の亀裂はさらに広がり、中から“手”ではなく“人型の上半身”めいた影が覗き始める。


 ゼクスの残した仕掛けか。


 それとも《夜喰の心臓》自体が、封印の外へ身体を持とうとしているのか。


「まずい!」


 刃更が剣を振るう。白銀の斬線が《玻璃天蓋結界》越しに中の影へ叩きつけられる。だが結界を維持している都合上、威力が十全ではない。影は身体を捻るようにしてそれを受け流した。


 次の瞬間、その影の顔がこちらを向いた。


 人に似ていた。


 だが目の位置には深い穴が二つ開いているだけで、口元だけが異様に笑っていた。


「……来るな」


 黎夜は本能的にそう呟いた。


 だが向こうは止まらない。


 《玻璃天蓋結界》を内側から食い破ろうと、腕が、肩が、黒い上半身が押し出される。


 詩乃の顔色がさらに悪くなる。


「《夜喰の心臓》単体じゃありません……! これは、下層の何かと接続を始めている!」


「つまり!?」


「最深部から“手”が伸びてきている可能性があります!」


 最悪だ。


 ここで止められなければ、まだ降りてもいない最深部の何かが、中層へ顔を出す。


「天城、下がれ!」


 黎夜が叫ぶ。


 刃更は一瞬こちらを見た。


「何をする気ですか」


「触る」


「却下!」


「でもこのままだと!」


 言い争っている暇はない。


 《玻璃天蓋結界》の亀裂はもう限界に近い。詩乃の術式だけでは押し返しきれない。なら、王権で噛みつくしかない。


 危険なのは分かっている。


 《夜喰の心臓》に触れた時、呑まれかけたのも覚えている。


 それでも。


「ここから先は――」


 気づけば、その言葉が口をついていた。


 自分でも驚くほど自然に。


 刃更が目を見開く。


 真昼が硬直する。


 詩乃でさえ一瞬だけ詠唱を止めそうになる。


 黎夜は一歩前へ出た。


 右腕の奥で黒鎖が目を覚ます。今度は怯えない。飲まれたくはないが、使うこと自体からも逃げない。


「ここから先は、俺が相手だ」


 広間の空気がぴんと張りつめる。


 その瞬間、黒鎖が一斉に噴き上がった。


 一本、二本ではない。


 十本近い黒鎖が床の紋様を割って現れ、《玻璃天蓋結界》の亀裂へ一直線に突き刺さる。内側から這い出ようとしていた黒い上半身へ絡みつき、そのまま逆方向へ引き戻す。


 ぐしゃり、と嫌な音。


 影が初めて明確な悲鳴を上げた。


 それは人間の声に近いのに、人間ではありえない響きを持っていた。耳ではなく頭蓋の内側へ直接擦り込まれるような不快音。


 黎夜は歯を食いしばる。


 引け。


 戻れ。


 喰うな、封じろ。


 黒鎖へそう命じるたび、自分の内側からも何かが引きずり出される感覚がある。だが今はそれでもいい。押し返せるなら。


「……っ、まだ、足りない!」


 詩乃が即座に乗る。


「なら私が上から蓋をする!」


 彼女の指先が踊り、《玻璃天蓋結界》へ新たな封印線が走る。黒鎖が押し戻し、詩乃の玻璃が上から蓋をし、刃更の白銀が横から裂く。


 三方向からの圧。


 その瞬間だけ、自分たちの役割が完璧に噛み合った気がした。


「これが終端ですわ――一節残らず、灰になりなさい!」


 詩乃の追加術式が結界内へ落ちる。


 白と黒と赤が、狭い結界の内側でぶつかり合い、そして最後に、内側から這い出ていた影の上半身が完全に砕けた。


 《夜喰の心臓》の亀裂が閉じる。


 赤い脈動が鈍り、結界が安定する。


 広間へ、また静寂が戻った。


 だが今度は、誰もすぐには動かなかった。


 黎夜はその場で片膝をついた。


 黒鎖を一気に出しすぎた。息がうまく入らない。視界の端が少し暗くなる。


「黎夜!」


 真昼の叫び。


 同時に、刃更がすぐ目の前へしゃがみ込んでいた。


「霧生黎夜、聞こえますか」


「……聞こえてる」


「立てますか」


「微妙」


「なら無理に立たないで」


 その声は、驚くほど柔らかかった。


 普段の監視役の硬さではなく、もっと素直な響き。


 黎夜が顔を上げると、刃更は少しだけ眉を寄せていた。怒っているようにも、困っているようにも、どちらにも見える。


「……無茶しすぎです」


「だろうな」


「分かっていてやるのが、一番質が悪い」


「それは、まあ……」


 反論しにくい。


 詩乃も結界を維持したまま、息を整えながらこちらを見る。


「ですが、助かりましたわ」


「珍しく素直だな」


「本音ですもの」


 真昼は第二隔壁のところから動けないまま、今にも泣きそうな顔でこちらを見ていた。


 その視線に気づいて、黎夜は無理やり片手を上げる。


「生きてる」


「それ、今日二回目!」


「便利だからな」


「便利に使うな!」


 怒鳴り返してくれるだけ、まだ余裕はあるのだろう。少しだけ安堵する。


 だが、その一瞬の安堵を切り裂くように、またアナウンスが鳴った。


『最深部主封印、第三閂解除』


 全員の表情が凍る。


 三つ目。


 つまり、まだ向こうは止まっていない。


「……時間切れですわね」


 詩乃が低く言った。


「《夜喰の心臓》は固定できました。ですが、これ以上ここで消耗していると、最深部に追いつけない」


 刃更が立ち上がる。


 傷のせいで動きは万全ではない。それでも、もう迷っていない顔だった。


「行きましょう」


 真昼が思わず声を上げる。


「まだ行くの!?」


「行かなければ、ここまで来た意味がありません」


 刃更の返答は冷たいほど真っ直ぐだった。


 だが今なら、それが強がりでも意地でもなく、事実の確認なのだと分かる。


 黎夜はまだ重い身体を起こしながら、《玻璃天蓋結界》の中の《夜喰の心臓》を見る。


 さっき、自分の黒鎖があれを押し返した。


 その時、たしかに感じた。


 この先の“下”にある何かは、もっと強い。もっと近い。もっと、自分を知っている。


 それでも。


 ここまで来た以上、降りるしかない。


「……最深部、か」


 呟くと、右腕の内側で微かに鎖が鳴った気がした。


 まるで、その先を知っているとでも言うように。

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