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『月蝕学園の封印王――監視役の剣姫も、詠唱魔術の才媛も、俺の日常を壊しにくる』  作者: 《本能寺から始める信長との天下統一》の、常陸之介寛浩


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第12話 詩乃の研究室と禁じられた術式

 放課後までの時間は、長いようで短かった。


 霧生黎夜は結局、三時間目以降の授業には一応顔を出した。出しただけで、まともに内容が頭へ入ったとは言い難い。黒板の数式も、古典の助動詞も、世界史の年号も、今日は全部“月蝕学園の表側”の話でしかなかった。


 その裏で、自分は放課後になれば学校の地下封書庫へ降りる。


 禁書と封印遺産と王権の記録が眠る場所へ。


 しかも、そこに“懐かしさ”を感じても近づきすぎるな、と二人から釘を刺されている。


 安心できる要素がどこにもない。


「……霧生くん」


 四時間目の終わり際、前からチョークが飛んできた。


 額に当たる直前で辛うじて避ける。


 教壇の上では数学教師が半目になっていた。


「起きているなら、せめてノートくらい取りなさい」


「……すみません」


「今日は設備異常で朝から落ち着かないのは分かるが、それでも授業中だ」


 教室の何人かがくすくす笑う。


 黎夜は頭を下げつつ、斜め前の席をちらりと見た。真昼が振り向かずに肩だけを小さく揺らしている。笑っているのだろう。昨日までなら、こういう小さな茶化しにいちいち突っ込んだはずだ。今はそれをする気力も少し足りない。


 隣では刃更が、まるで何事もなかったかのように板書を写していた。


 朝の校門前で欠片災を斬り、医務室で監視継続の許可を取りつけ、放課後には地下封書庫へ同行する予定の少女とは思えないほど整った字だった。


「……お前」


 小声で呼ぶ。


「何ですか」


「普通に授業受けてるのすごいな」


「学生ですので」


「そこだけやたら真っ当だな」


「意味が分かりません」


 淡々と返される。


 だが本当に、意味が分からないくらい平然としている。昨夜からのあれこれで、彼女にだけ疲労がないわけではないはずだ。それでも崩れないのは、慣れなのか、責任感なのか、それとも両方か。


 五時間目の終わりを告げるチャイムが鳴った頃には、黎夜の神経はもうかなり摩耗していた。


 昼休み。


 教室がざわめきに満ちる中で、詩乃が現れたのは本当に唐突だった。


「霧生くん、少しいいかしら」


 扉の前に立つだけで空気が変わる人だと、最近よく思う。


 綾辻詩乃は、今日も涼しい顔だった。黒髪を肩へ流し、上級生らしい落ち着きと、場慣れした知性をそのまま形にしたような雰囲気を纏っている。昨日の夜、浮遊する禁書を封じた時の術式の光が幻だったように見えるくらい、今は整っていた。


 けれど、その瞳だけは真っ直ぐこちらを見ている。


 ただの昼休みの呼び出しではない、と分かる目だった。


「今ですか」


「ええ、今ですわ」


 詩乃は当然のように言う。


「放課後の前に確認しておきたいことがありますの」


 真昼がすぐに顔を上げた。


「それって、また黎夜だけ?」


「基本的にはそうですわ」


「基本的には、って何」


「あなたがついてきても構わないけれど、退屈かもしれません」


「退屈なら別にいいけど」


「ならいらっしゃい」


 言葉のテンポが速い。


 真昼が少し気圧されながらも立ち上がる。


「……天城さんも来るの?」


「当然です」


 刃更の返答は早い。


「監視対象の単独移動は認められません」


「毎回それ言うよね」


「必要ですので」


 もはや呼吸みたいな自然さで監視を主張されると、今さら反論する気も薄れる。


 結局、四人で教室を出ることになった。


 向かう先は、昨日と同じ北棟上階――特級編纂室・術式解析区画。


 昼の校舎は、生徒たちの話し声や購買帰りの足音で賑やかだ。なのに北棟の上層へ近づくにつれ、音が少しずつ遠ざかっていく。掲示物が減り、通る生徒の数も目に見えて少なくなる。まるで、学校の中にありながら、そこだけ別の施設へ入っていくようだった。


 研究室の扉が開く。


 昨日見た時と同じ、あるいは少しだけ整頓された空間が広がっていた。


 壁一面の本棚。古い羊皮紙と新型端末が隣り合う机。吊られた銀輪。床に描かれた幾何学模様。そして、香りの薄い茶葉とインクの匂い。


「……やっぱりすごいな、ここ」


 黎夜が思わず呟くと、詩乃は少しだけ満足そうに目を細めた。


「でしょう?」


「その反応待ってました、みたいな顔やめてください」


「待っていましたもの」


「素直だな」


「褒めています?」


「半分くらいは」


「なら受け取っておきますわ」


 詩乃はそう言いながらも、すぐに空気を切り替えた。


 机の上には、すでに何枚もの資料と術式板が広げられている。昨日の黒革の古書は見当たらないが、その代わりに似た紋様を抜き出した紙片がいくつも並んでいた。


「座ってください」


 昨日と同じ椅子を示される。


 今回は少しだけためらいがあった。昨日、ここで手首に触れられた時の感覚がまだ残っているからだ。だが立ったままでも何も変わらない。黎夜は素直に従った。


 真昼は少し離れたソファへ、刃更は壁際へ、そして詩乃は正面へ立つ。


「まず、昨夜の件」


 詩乃の声は静かだが、内容はすぐに重かった。


「浮遊禁書の再起動と、『第二鍵、起動』という表示。そして今朝の校門前事案」


「朝のは、やっぱり関係あるんですか」


 真昼が訊く。


「可能性は高いですわ」


 詩乃は資料の一枚を指先で弾いた。


「黒革の古書――便宜上《黒封書》と呼びますが、あれは単独の禁書というより、地下封印系統に接続する“起動媒体”の性質が強い」


「起動媒体」


 黎夜が繰り返す。


「つまり、スイッチみたいなものか」


「概ねそうですわ。ただし、押したら電気がつくような生易しいものではありません」


「そこは分かる」


「鍵、という表現の方が近いでしょうね。しかも、ただの鍵ではなく、特定の“誰か”に反応して動く鍵」


 その言葉に、部屋の空気が少しだけ静まる。


 誰か。


 誰かというのは、つまり。


「俺か」


「はい」


 詩乃ははっきり頷いた。


「霧生くん、あなたです」


 予想していた答えでも、口にされると重い。


 真昼も無言でこちらを見る。その視線は責めるものではなく、不安と確かめたい気持ちが混じったものだった。


「どうして」


 黎夜の問いは、自分でも情けないくらい率直だった。


「何で俺なんだ」


「それを調べるのが今日の目的の一部ですわ」


 詩乃はそう言うと、別の紙片を持ち上げる。


 そこには昨夜、本が開いたページに滲んだ赤い文字が写し取られていた。


『第二鍵、起動』


 その下に、詩乃によるらしい細かな注釈が書かれている。


「この“第二鍵”という表現から逆算すると、少なくとも一つ目の鍵が既に起動済みである可能性が高い」


「第一鍵か」


「ええ。そして黒栖ルクレツィアの言葉を合わせると、地下封書庫の“下”で何かが段階的に目を覚ましつつある」


 刃更が口を開く。


「封書庫の下層に関する公的記録は?」


「ほとんどありません」


 詩乃は淡々と答えた。


「正確には、“存在しないことになっている”」


「存在しないことに?」


 真昼が眉をひそめる。


「そんなの、ありなの?」


「この都市では、まあ、よくありますわ」


「嫌すぎる」


 真昼の感想は正しい。


 存在しないことになっている地下施設。その鍵が動いている。そして、その媒体が自分に反応している。


 どうやって安心しろというのか。


「ですが、今から封書庫へ行く前に一つだけ、確認しておきたいことがあります」


 詩乃はそう言うと、机の上から薄い銀板のようなものを取り上げた。


 掌に収まる程度の長方形。表面には細かな文字と円環模様が刻まれている。


「昨日と今朝、あなたは王権反応を起こしました」


「黒鎖のことか」


「ええ。あれがどの程度“意思で制御可能”なのか、それを最低限測る必要があります」


「制御」


 黎夜は自分の右腕を見る。


 見た目は何も変わらない。けれど、その内側にはまだ鎖が眠っているような感覚がある。冷たく、重く、気配だけは消えない。


「やれって言われてできるものでもないんだけど」


「分かっていますわ」


 詩乃は頷く。


「ですから、完全な再現ではなく“呼びかけた時の反応”を見ます」


「危なくないのか」


「危なくはあります」


「ありますって言ったな今」


「ですが」


 詩乃は少しだけ口元を緩める。


「ここには私と天城さんがいますもの」


 妙な説得力があった。


 刃更も短く言う。


「必要なら止めます」


「必要じゃなくても止めてくれ」


「状況によります」


「融通が利かないなあ」


 とはいえ、避けて通れないのも分かる。放課後には地下へ降りるのだ。その前に少しでも自分の中のものを知っておかなければ、たぶんもっとまずい。


「……分かった」


 黎夜はそう言って椅子へ深く座り直した。


「で、どうすればいい」


「右手を出してください」


 昨日と同じだ。


 だが今回は触れる前から、部屋の術式が反応し始めている。天井近くの銀輪がゆっくり回り、床に刻まれた線が淡く光る。詩乃の研究室そのものが、これに備えて調整されているのだと分かる。


 黎夜は右手を差し出した。


 詩乃が銀板をそこへ重ねる。


 ひやり、と冷たい。


「深呼吸を」


「医者みたいなこと言いますね」


「術者ですもの」


「余計怖い」


 詩乃は無視した。


「いいですか。無理に出そうとしないこと。ただ、そこに“ある”と認識してください」


「曖昧だな」


「王権は機械ではありませんわ。命令文で動くなら苦労しません」


「それもそうか」


 深く息を吸う。


 吐く。


 目を閉じる。


 そこにある、と認識する。


 右腕の奥。骨と血のさらに内側。冷たい何か。眠っている鎖。普段は沈んでいるのに、危機や感情で勝手に這い出てくるもの。


 いる。


 確かにいる。


 そう思った瞬間、銀板の表面が淡く黒く染まった。


 真昼が小さく息を呑む。


 刃更の気配が僅かに鋭くなる。


 詩乃は落ち着いたまま続ける。


「いいでしょう。そのまま。今度は、“止まれ”と命じて」


「止まれ?」


「ええ。昨日は出るな、と抑えましたわね。今日はそれとは別の方向から触れてみる」


 言われた通り、心の中で命じてみる。


 止まれ。


 すると、黒く染まりかけた銀板の色が少しだけ薄くなった。


「……あ」


 声が漏れる。


 今のは偶然ではない。たしかに、自分の意思に反応した。


「制動は効く」


 詩乃が即座に観測結果を口にする。


「ですが遅い。思考を挟んでから反応するまでに半拍以上ある」


「半拍?」


「戦闘中なら致命的な遅延です」


 刃更が冷静に補足した。


「昨日の旧校舎でも、今朝の校門前でも、反応が出るまでに僅かなラグがありました」


「そんなの、見て分かるのか」


「見ていますので」


「監視役だもんな……」


 黎夜がぼやくと、刃更はほんのわずかに目を細めた。


 詩乃はそのまま第二段階へ入る。


「では次。今度は“出るな”ではなく、“一本だけ”と指定して」


「無茶言うな」


「無茶を可能にするための観測ですわ」


「詭弁っぽい」


「本音です」


 再び深呼吸。


 右腕の奥を意識する。


 そこには、昨日より少しだけ輪郭のはっきりした冷たさがあった。いる。沈んでいる。こちらを見ている。扉の向こうで待っているような気配。


 一本だけ。


 必要な分だけ。


 そう思って指先へ意識を流す。


 ぴしり、と小さな音がした。


 銀板の縁から、黒い細線が一本だけ這い出た。


 本当に鎖だった。極細の、まだ完全な実体になりきらない黒い線。それが指先から十センチほど伸びたところで止まり、空中で震える。


「っ……!」


 真昼が身を乗り出す。


「出た……!」


 黎夜自身も目を見開いた。


 昨日までの自分なら、黒鎖は勝手に暴発するだけのものだった。なのに今は、かろうじてではあるが、指定に応じている。


「よくできましたわ」


 詩乃の声に、どこか本気の感心が混じった。


「予想より順応が早い」


「順応したくないことに順応するの、あんまり嬉しくないな」


「気持ちは分かります」


 そう返したのは珍しく刃更だった。


 その一言に少し驚いて振り向くと、彼女はすぐいつもの無表情へ戻る。


「ですが、制御できるならできた方がいい」


「……それもそうだな」


 詩乃がそこで銀板を外した。


 黒い細線は、指先から離れるとすぐに空気へ溶けるように消えていく。残ったのは右腕の鈍い痺れだけだ。


「最低限の制御は可能、と」


 詩乃は自分の端末へ何かを書き込みながら言った。


「これなら封書庫の上層で即隔離、という判断にはなりにくいでしょう」


 その言葉に、黎夜と刃更の視線が一瞬だけ重なる。


 隔離。


 さっき盗み聞きしてしまった単語だ。


 自分がそれを知っていることを、刃更は知らない。


 けれど、彼女の目の奥に一瞬だけ走った安堵は、たぶん見間違いではなかった。


「まだ不安定ではありますが」


 詩乃は続ける。


「少なくとも、“完全に自律した災害”ではない。今の段階なら、本人の意志がまだ前面にあります」


 その評価は、ひどく生々しかった。


 災害。


 人ではなく。


 だが、それでも“まだ本人の意志がある”と言われたことに、少しだけ救われる自分がいる。


 真昼が慎重に口を開いた。


「それって、いいことなんだよね?」


「相対的には」


 詩乃の返事は率直だった。


「相対的っていうのが不安なんだけど」


「正直でいることは大切ですわ」


「この人、ほんとに誤魔化さないな」


 真昼がげんなりする。


 だが詩乃はそこで、ふっと表情を和らげた。


「ただ、柊さん」


「何?」


「霧生くんは確かに危ういけれど、“誰かを傷つけたがっている側”ではありません」


 その言葉に、真昼が少しだけ目を見開く。


「そこは、今のところかなり確かです」


「……うん」


 真昼は小さく頷いた。


 その反応を見てから、詩乃は机の上の資料を数枚まとめる。


「では、そろそろ本題へ移りましょう」


「今まで前座だったのかよ」


「ええ」


 さらりと返された。


「放課後の地下封書庫ですが、その前に一つ見せておきたいものがありますの」


「まだあるんですか」


「あります」


 詩乃は黒いファイルを一冊取り出した。


 中から古びた写真の複写のようなものを抜き出し、テーブルへ置く。


 それは白黒写真だった。


 地下施設の一角らしい、古い石造りの通路。そこに何人かの人影が映っている。画質が粗く、誰が誰かまでは分からない。だが、一つだけはっきりしているものがあった。


 通路の奥、扉の前に刻まれた紋章。


 王冠と黒鎖。


 夢の中で見たものと、同じだ。


「……これ」


 思わず身を乗り出す。


 詩乃がこちらを見た。


「見覚えがありますか」


「夢で見た扉に似てる」


「似ている、ではありません」


 詩乃の声が静かに落ちる。


「これは、月蝕学園地下封書庫・最奥封印扉の旧記録写真ですわ」


 ぞくりと、背筋を冷たいものが撫でた。


 夢ではなかった、のか。


 いや、夢は夢だろう。けれど、その夢が現実の何かと接続していた。


 扉。鎖。王冠。


 そしてその向こうに脈打つ“何か”。


 刃更が低く問う。


「この写真を、なぜ今?」


「霧生くんの夢と現物が一致するか確認したかったのです」


「結果は」


「ご覧の通り」


 詩乃は写真の一角を指でなぞる。


「彼は、封書庫の内部を見ています。しかも実地で見たことがないのに」


 真昼が息を呑む。


「それって……」


「地下が彼を呼んでいるか、彼の記憶の一部が地下と結びついているか。そのどちらか、あるいは両方」


 あまりにも不穏な二択だった。


 だが、納得もしてしまう。


 あの地下神殿めいた空間の“懐かしさ”は、単なる夢の妙なリアリティでは説明できなかった。


「……行きたくなくなってきた」


 黎夜が本音を漏らすと、真昼がすぐに言った。


「今さら?」


「今さらだよ」


「でも行くんでしょ」


「だろうな」


 否定できない。


 否定したところで、また裂け目が開いて、また誰かが巻き込まれるだけだ。


 詩乃が資料を閉じる。


「そろそろ集合時間ですわ。北棟地下搬入口へ向かいましょう」


 刃更が静かに頷き、真昼もごくりと唾を飲み込んだ。


 黎夜はもう一度だけ、写真の扉を見る。


 夢と同じ紋章。


 夢と同じ不気味な圧。


 そして、そこへ近づくなと警告したルクレツィアの声。


 玉座を見ても絶対に座るな。


 あの一言が、今になってさらに重くのしかかってくる。


「……行くか」


 自分に言い聞かせるようにそう言うと、詩乃が扉へ向かい、刃更がその後ろにつく。


 真昼は一瞬だけ躊躇ったあと、小走りで黎夜の隣へ来た。


「ねえ」


「何だよ」


「怖かったら、怖いって言っていいからね」


 あまりにも真昼らしいその言葉に、少しだけ笑いそうになる。


「言ったところで状況変わらないだろ」


「変わらなくても、言うのと黙るのは違うよ」


 短い沈黙。


 それから黎夜は、小さく息を吐いた。


「……じゃあ、ちょっと怖い」


「うん」


「かなり嫌だ」


「うん」


「でも行く」


「知ってる」


 真昼はそれだけ言って、少しだけ笑った。


 その笑みが妙にありがたかった。


 そして四人は、ついに北棟の地下へ向かうため、研究室の扉を開けた。

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