第10話 紅い月を見上げる少女
校門前の空気は、ほんの数秒のうちに何度も性質を変えた。
欠片災の同時多発による恐慌。
綾辻詩乃の大規模詠唱がもたらした圧倒的制圧。
そして今、黒栖ルクレツィアの乱入によって生まれた、別種の緊張。
彼女は黎夜の前に立ったまま、崩れた黒槍の残滓を見下ろしていた。さっきまで明らかにこちらへ向けられていた知的な敵意は、その一撃を防がれたことで消えたわけではない。ただ、薄く引いた。様子を窺うように、歪みの奥へ後退している。
「私の封印王に、勝手に噛みつかないでくれる?」
ルクレツィアのその言葉が、刃更の神経をきっちり逆撫でしたらしい。
「訂正しなさい」
白銀の執行剣が、寸分違わず彼女の喉元へ向く。
「彼はあなたの所有物ではありません」
「あら」
ルクレツィアは肩越しに振り返り、どこか愉しげに片目を細めた。
「そこに反応するのね」
「質問に答えなさい」
「答えたでしょう?」
「その発言を撤回しろと言っています」
「嫌」
即答だった。
しかも微笑んでいる。
この人は本気で刃更を煽るのが上手い、と黎夜はどうでもいい感想を抱いた。抱いてから、自分がこんな状況でそんなことを考えられる程度には現実感が壊れているのだと気づき、少しだけ嫌になる。
校門周辺では、詩乃の《グラン・アルカ=セフィラ》がまだ稼働していた。中庭や渡り廊下に生じた裂け目の大半は玻璃の光柱に押し潰され、欠片災の姿もほぼ見えなくなっている。けれど完全に終わったわけではない。あの“知性のある視線”が覗いた歪みはまだ消えていないし、周囲では教師や警備担当らしき人々がようやく動き始めていた。
悲鳴。避難誘導の声。遠くで鳴り始めた警報。
非日常はもう隠しきれていない。
「天城、今はそっちじゃない」
黎夜が言うと、刃更は剣を向けたまま低く返した。
「分かっています」
「分かってる顔じゃないだろ」
「かなり不快です」
「正直すぎるな!」
だが気持ちは少し分かる。ルクレツィアの物言いは、あらゆる意味で人を苛立たせる。とくに、こちらの事情を一段上から眺めているような態度が腹立たしい。
詩乃が二階の渡り廊下から声を落とす。
「黒栖ルクレツィア」
その声は冷静だったが、昨日の夜よりもずっと硬かった。
「あなたが今そこに現れた理由を、三つほど推測できますわ」
「聞きましょうか」
「一つ。霧生くんの保護」
「保護というほど優しくはないけれど」
「二つ。こちらへの攪乱」
「それは少し楽しいかも」
「三つ。歪みの向こう側にいる“何か”に対しても、あなたは敵対的」
ルクレツィアの口元の笑みが、ほんの少しだけ薄れた。
その変化を見逃さなかったのは、たぶんこの場で詩乃だけだろう。いや、刃更もか。黎夜は一拍遅れて、その意味を理解した。
図星だ。
「へえ」
ルクレツィアは振り向かないまま、足元の黒槍の残滓をつま先で払う。
「さすが、玻璃の詠姫。頭の回転は速いのね」
「賛辞として受け取っておきますわ」
「でも半分だけよ」
「残り半分は?」
「答えない」
詩乃は小さく鼻で笑ったようだった。
「結構です。いずれ分かりますもの」
そのやり取りを聞きながら、黎夜は目の前の歪みを見据える。さっき黒槍が飛び出した裂け目は、小さいくせに異様に深い色をしていた。そこだけ朝の光を吸い込んでいるみたいに暗い。空間の穴、というより、どこか別の場所の“視線の窓”だ。
そしてその奥で、また何かが動く。
「まだ来るぞ」
黎夜の言葉に、ルクレツィアがすっと視線を前へ戻した。
「ええ。さっきのは挨拶みたいなもの」
「それで済ませるには殺意が高すぎるだろ」
「あなたに向けたものではないわ」
「は?」
「少なくとも、最初の一撃はね」
意味深にもほどがある。
「どういうことだ」
刃更が問う。
ルクレツィアは少しだけ考えるように間を置き、それから言う。
「向こうはまだ、誰を狙うべきか測っているの。封印王そのものか、封印王の周囲か、それとも封印王を揺らすための誰かか」
その言葉に、黎夜の背筋が冷たくなる。
周囲。
揺らすための誰か。
真っ先に浮かぶのは真昼の顔だ。
「……真昼はどこだ」
慌てて振り返る。さっき本校舎へ走らせたはずだ。玄関の向こう、人の流れの中にその姿を探すと、ガラス扉の内側でこちらを見ているのが分かった。教師らしき人物に止められている。安全圏にはいる。ひとまずは。
少しだけ息を吐く。
その瞬間、ルクレツィアがごく小さく言った。
「だからあなたは、そういう顔をする」
「何だよ」
「自分のことより先に他人を見る顔」
振り返ったルクレツィアの瞳は、ひどく静かだった。
「それ、嫌いじゃないわ。でも危うい」
昼も、昨夜も、そして今も。彼女は一貫して“危うい”と同じ方向のことを言っている。違う立場から、違う言葉で、同じ場所を指してくる。
それが余計に不気味だった。
「ルクレツィア」
詩乃があらためて声を張る。
「感傷的な会話は後になさい。歪みが再構成を始めていますわ」
その言葉通りだった。
裂け目の縁がゆっくりと震え、さっき崩れたはずの黒槍の残滓が再び吸い込まれていく。いや、吸い込まれるというより、向こう側がこちら側の情報を回収しているように見えた。
気色が悪い。
観測されている。
こちらの反応も、戦力も、位置関係も、全部。
「綾辻詩乃、閉じられますか」
刃更が問う。
「単独なら可能ですわ。でも、あの深度は少し厄介」
「援護が必要?」
「ええ。下から裂け目を固定してくれるなら」
刃更がすぐ動こうとする。
だがルクレツィアが片手を軽く上げた。
「待って」
「命令しないでください」
「忠告よ」
彼女は裂け目を見たまま言う。
「その歪み、今は“引っ張って”いる。正面から固定すると、逆に食われるわ」
詩乃の目が細くなる。
「……根拠は?」
「知っているから」
昨夜と同じ返答。
だが今は、その曖昧さが少しだけ違って見える。ごまかしというより、本当にそれ以上言えない類の含みがある。
ルクレツィアは一歩だけ裂け目へ近づいた。
「だから、これは私がやる」
「認められません」
刃更が即座に切る。
「あなたの行動原理は不明です。ここで自由にさせる理由がない」
「じゃあ止める?」
ルクレツィアが軽く笑う。
「私を止めている間に、向こうはもう一手打つけれど」
「……っ」
苛立ち混じりの沈黙が落ちる。
誰よりも任務を優先する刃更だからこそ、戦術的な正しさに弱い。ルクレツィアはそこを綺麗に突いている。
「天城」
黎夜が呼ぶ。
「今は閉じるのが先だ」
「分かっています」
「なら――」
「ですが、彼女は信用できません」
刃更のその返答は、真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐだった。
信用できない。だから任せたくない。
そこに打算はない。ただ、昨日から今日までの短い接触だけで感じ取った危険性を、そのまま言葉にしている。
ルクレツィアは、その真正面さに少しだけ目を細めた。
「あなた、本当に生きづらそうね」
「余計なお世話です」
「ええ、そういうところ」
からかっているようで、どこか本気でもあった。
その時、裂け目の奥からまた“目”が覗いた。
今度は一つではない。二つ、三つ。知性のある視線が幾重にも重なり、こちらを値踏みするように揺れる。
まずい。
あれは次を撃ってくる。
「詩乃先輩!」
黎夜が見上げて叫ぶ。
「閉じるなら今だ!」
「ええ、分かっていますわ!」
詩乃の周囲にまた光輪が増える。今度は昨日のような大規模詠唱ではなく、鋭く短い詠唱に切り替えていた。
「玻璃第二式――」
だが同時に、裂け目の奥から黒い線が幾本も伸びる。
槍。針。あるいは、意志を持った影そのもの。
それらは校門前の空間を貫いて、黎夜、刃更、そして本校舎側へ散るように走った。
「っ!」
黎夜の身体が先に動く。
自分へ向かう一撃より、本校舎のガラス扉近くへ散った二本が目についた。あの方向にはまだ避難しきれていない生徒がいる。
黒鎖が疼く。
出るな、ではなく、必要な分だけだ、と命じる。
すると今回は応えるように、影から二本だけ鎖が伸びた。一本は自分の前の黒槍を絡め取り、もう一本は扉側へ走っていた黒い針を空中で弾く。
昨日より、少しだけ思う通りに動いた。
だがその代償みたいに、右腕の奥が熱く軋む。
「黎夜!」
真昼の声がガラス越しに聞こえる。
振り返る暇はない。
刃更が白銀の斬撃で残り二本を薙ぎ払い、詩乃がついに術式を完成させた。
「閉じなさい――《玻璃封線》!」
透明な線が、空中を走る。
一本ではない。無数だ。細く鋭い玻璃の糸が裂け目の縁へ絡みつき、縫い合わせるように閉じていく。
同時に、ルクレツィアが掌を向けた。
彼女の足元の影が深紅に染まり、花弁のような何かが散る。次の瞬間、裂け目の奥から覗いていた“目”が一斉に揺らいだ。
喰った。
そう見えた。
彼女は裂け目の向こう側へ、何か見えない圧を押し込んでいる。
「今!」
ルクレツィアが叫ぶ。
詩乃の玻璃線が締まり、裂け目が悲鳴のような音を立てて縮む。
最後に、刃更が白銀の剣を振り抜いた。
「断ちます!」
白い斬線が、閉じかけた歪みの中心を貫く。
ぱきん、と。
今度こそ完全に、裂け目が砕けた。
校門前へ静寂が落ちる。
残されたのは、薄く漂う焦げたような匂いと、遠くで続く避難誘導の声だけ。
黎夜は荒い呼吸を整えながら、自分の右腕を見る。黒鎖はもう消えていた。けれど内側の熱は残っている。さっき少しだけ、ほんの少しだけだが、自分の意思で絞れた気がした。
その感覚に安心するより先に、背中へ向けられる視線の重さへ気づく。
ルクレツィアだ。
彼女はまっすぐこちらを見ていた。
「今の」
彼女が小さく呟く。
「……前よりは、ずっとましね」
「前?」
黎夜が問い返す。
ルクレツィアは、自分が余計なことを言ったと気づいたように一瞬だけ目を伏せ、それからいつもの薄い笑みに戻った。
「気にしないで」
「気にするだろ」
「でしょうね」
軽くいなしてから、彼女は本校舎の方へ視線を流した。
ガラス扉の向こうで、真昼が教師を振り切りそうな勢いでこちらを見ている。無事を確認したいのだろう。だが今は外へ出さない方がいい。そう判断しているらしい教員の腕が、ぎりぎりのところで彼女を止めていた。
ルクレツィアがぽつりと言う。
「やっぱり、揺らすなら周囲からよね」
その言葉に、黎夜の血の気が引く。
「……何だと」
「そういう手を打ってくる側もいる、というだけの話」
「曖昧に言うな。はっきり言え」
「まだはっきりしていないもの」
ルクレツィアは肩をすくめた。
「でも覚えておいて。あなたを壊したい者は、あなた自身よりも先に、あなたが庇う相手へ手を伸ばす」
その視線が一瞬だけ、本校舎の扉越しの真昼へ向いた。
怒りが一気に込み上げる。
「真昼に近づくな」
自分でも驚くほど低い声だった。
ルクレツィアはその反応を、なぜか少しだけ嬉しそうに受け取った。
「怒るところ、そこなのね」
「答えろ」
「近づく気はないわ。少なくとも今は」
「信用できるか」
「できないでしょうね」
正直すぎる。
だが、そこが逆に厄介だ。嘘をついているのか、本音を零しているのかが分からない。
刃更が一歩前へ出る。
「これ以上、彼の周囲を嗅ぎ回るなら容赦しません」
「怖い怖い」
ルクレツィアはそう言いながらも、まったく怯えてはいなかった。むしろ、刃更の本気の敵意すら楽しむ余裕がある。
詩乃が渡り廊下から静かに言う。
「黒栖ルクレツィア。あなた、封書庫の“下”について知っているようでしたわね」
「少しだけ」
「その“少し”を置いていく気は?」
「ないわ」
「でしょうね」
詩乃はため息混じりに応じる。
「では、せめて一つ。明日、私たちが地下へ降りる時、何を一番警戒すべきかだけでも」
ルクレツィアは少しだけ考えた。
そして、これまでで一番静かな声で答える。
「音よ」
「音?」
黎夜が聞き返す。
「ええ。地下では、鎖の音を聞き間違えないで」
背筋を何かが這い上がる。
夢の中の地下神殿。石の階段。玉座。扉。黒鎖。あの場所にも、確かに鎖の音が響いていた。
ルクレツィアはその反応を見て、何かを確信したように目を細めた。
「もう見たのね」
「……何を」
「地下の夢」
詩乃と刃更の気配が同時に強張る。
ここまで来ると、もはや偶然では片づけられない。彼女は本当に、こちらの内側へ触れている。
「お前、どこまで知ってる」
黎夜の問いに、ルクレツィアは答えなかった。
代わりに、ほんの少しだけ寂しそうに笑う。
「あなたが全部思い出した時、今の私のことはたぶん嫌いになる」
「……は?」
「でもそれでも、知っておいた方がいいこともある」
彼女はすっと後退った。
影が足元から伸びる。昨夜と同じだ。消える気配。
「明日、封書庫へ降りるなら――」
銀髪が朝の光に透ける。
「玉座を見ても、絶対に座らないで」
その言葉だけを残して、ルクレツィアの輪郭はふっと薄れた。
影が揺れ、花の甘い匂いだけが残る。
今度は刃更も詩乃も追わなかった。追えなかった、というより、その忠告の重さを全員が咄嗟に測りかねたのだろう。
静寂。
遠くの警報音だけが、ようやく現実の世界へ引き戻してくる。
その時、本校舎の扉が勢いよく開いた。
「黎夜!」
教師の制止を振り切って飛び出してきた真昼が、真っ直ぐこちらへ走ってくる。さっきまで安全圏にいたはずなのに、もうそんなことはどうでもよくなったらしい。
「何やってるんだ、お前!」
「それはこっちの台詞! 無事なの!?」
駆け寄った真昼は、怒るより先に黎夜の腕や肩をざっと見た。傷がないか確認しているのだと分かる。近い。必死だ。
「大丈夫だ」
「全然大丈夫そうに見えないんだけど!」
「見た目はな」
「それが一番不安なの!」
そのやり取りに、刃更が小さく息を吐いた。呆れているようでもあり、少しだけ緊張が解けたようでもある。
詩乃が上から声をかける。
「生徒の避難が終わるまで、こちらは一旦解散ですわ。天城さん、校門周辺の残留を確認して」
「了解」
「霧生くんは医務室で簡易検査を。柊さんも同行しなさい」
「え、私も?」
「あなたも巻き込まれたのでしょう?」
「……それはそうだけど」
「なら確認は必要ですわ」
有無を言わせない口調だった。
さすがにそれには真昼も逆らえず、むすっとしながらも頷いた。
黎夜はちらりと、ルクレツィアが消えた場所を見る。
もう何もない。
甘い匂いも、薄れて消えかけている。
なのに、彼女の言葉だけが耳に残っていた。
鎖の音を聞き間違えないで。
玉座を見ても絶対に座るな。
そして――今の私のことは、たぶん嫌いになる。
意味が分からない。
分からないくせに、聞き流せる軽さでもなかった。
「黎夜」
真昼が袖を引く。
「行くよ」
「ああ」
歩き出しかけた時、右腕の奥で小さく鎖が鳴った気がした。
じゃら、と。
それは痛みではなかった。
むしろ、何かが“思い出した”音に近かった。
地下封書庫。
そのさらに下。
玉座。
明日そこへ降りることは、もう決まっている。
決まってしまった未来が、足元からこちらを見上げてくるような気がして、黎夜は無意識に右手を強く握った。




