088
白とは相性が悪い。
それは、男は黒に染まるべきなんて格好つけた発想でも、色の組み合わせがどうこういうお洒落上級者的な視点でもなく、単純に僕の右目に由来することだ。
僕の右目は車に撥ねられた影響で瞳孔を絞れなくなった。光に対して調節が効かないので、眩しさをそのままに感じてしまう。光をびかびかと反射する白色は刺激物と同じ存在だ。
しかしながら白色は、服、建物、車、挙句には食べ物と、至るところに現れる。光を遮らなければ日常生活もままならず、それ故僕はゲゲゲの有名人よろしく奇天烈な髪型で右目を隠している。
片目が使えない不利益はそれなりに大きい。視野が制限されるので気がつくのは遅れるし、距離感が掴めないからスポーツも苦手だ。色々な事情が重なって、ここ一年で殴り合いの喧嘩をする機会があったが、その度にこの目の不便さを実感させられた。家で大人しく本を読んでいるのが、僕のあるべき姿なのだと思う。
しかし、そんな僕が今まさに滑っているのは。
「包介! 飛ばし過ぎ!!」
一面雪の白銀の世界。昼の陽光を目一杯受けて、発光していると見紛うほどの輝きを放つゲレンデを、ボードに乗って滑走している。
景色が早い。風が痛い。流れ過ぎていく情報の多さに身慄いする。
けれど、楽しい。冷えた空気に唇は渇ききっているが、それでも笑みが止まらない。今まで経験してこなかった速度感もさることながら、スポーツができているという実感が堪らなく嬉しい。
「早すぎる! 誰か──」
「わたしがいく!」
重心を僅かに傾ける。たったそれだけの動きでボードはぐんと方向を変え、慣性に振り回される。だが、人の身に余るそれを上体と膝を柔らかく使って制御し、雪を切り付ける感覚を頼りに乗りこなす。自然の摂理を肌で感じながら、抗うのではなく合わせていく。
「包介くーん!!」
更に風に近づくべく前のめりになったところで邪魔が入った。
桑染さんだ。彼女は僕ほど前傾していないが、体重がある分速度の伸びがいい。じりじりと距離を詰められ、遂には横に並ばれる。
「だめ! とまって!」
無視して滑りたいところだが、並走を続けるのは危険か。仕方なしにボードを横に立てて停止すると、桑染さんはすぐさま僕の前に回り込み、両手を広げて立ち塞がった。
「あぶないよ! なんてスピード出してるの!」
「大袈裟ですよ。僕より速い人もいるし」
「初心者なのに出し過ぎって言ってるの!」
「桑染さんも初心者じゃないですか」
「わたしは大人だもん!」
説明になっていない。このまま話を続けても桑染さんは折れないだろうし、避けてしまった方が早い。
「逃すかぁっ!」
しかし、一足遅れて追いついた赤錆さんに脇を塞がれた。僕や桑染さんと違ってスキーの彼女はストックを目一杯に広げて威嚇してくる。停止した状態から抜け出すのは難しい。
「怪我したらどうすんのよ! 最初はあたしの後ろについてくって約束でしょ!?」
「そうだよ! ちゃんとわたしの後に続いて!」
「……は? 包介はあたしが教えてあげるんだけど」
「赤錆はスキーでしょ。同じボードのわたしが教えた方がいいに決まってるよね」
「いや、そういうんじゃなくて。あたしがコーチするって約束じゃん」
「赤錆が勝手に言ってただけだよ。別に誰も賛成してないから」
「あんま調子のってるとパパに言いつけるよ」
「赤錆先生には娘が暴走しないようにってお願いされてるんだ。残念でしたー、ぷぷっ」
澄んだ空気を濁すほどの小競り合いが始まった。今のうちに逃げ出してしまおうと静かに体勢を整えるが、またしても邪魔が入る。
「キャアアア!!」
「榛摺サン! 板を横に! 横にッス!」
悲鳴の方向を振り返ると、八の字のへっぴり腰でのろのろ滑り降りてくる榛摺さんと、その横で忙しなく動く烏羽さんがいた。迫真の叫びと違って亀より遅い速さであるが、榛摺さんは止まれないことに恐怖を覚えているのだろう。烏羽さんの必死の助言も虚しく、彼女はゆっくりと僕達の方に滑り落ちてくる。
「あの、二人とも。避けないとぶつかっちゃいますよ」
「デブ! パツキン!」
「チビ! メスガキ!」
「ギャアアアア!!」
「止まれコラァ!」
聞いちゃいない。
榛摺さんの悲鳴も絶叫に変わった。避けるのはもう無理だ。速度はないに近しいが、大人一人の質量がぶつかればそれなりの衝撃は生まれる。雪原の坂では受け止めることもできない。変な転び方はしないよう、体の力を抜いて言い争う二人に向き直る。
「どいてえぇっ!!」
僕の背中に榛摺さんが、どん、とぶつかる。
後は榛摺さんの体重と重力に任せて、一緒に倒れ込むだけだ。多少の痛みはあるが、榛摺さんを止められて、桑染さんと赤錆さんの意識も向けられる。限られた手段の中では、それなりにいい判断だと思う。
「包介くん!」
桑染さんの反射速度を忘れていた。
赤錆さんとの舌戦に夢中になっていた彼女は、僕と榛摺さんが転ぼうとしているのを見るや、すぐさま支えに割り込んできた。素晴らしい体幹を持つ桑染さんは僕等二人の体重などでは動じず、直立したまま易々と受け止める。
「うぐぅ」
結果として、岩のように立ち誇る桑染さんと、ずりずり滑り落ちる榛摺さんの間で押し潰される僕が誕生した。
綺麗な女性に挟まれる羨ましい状況だが、二人は厚手のスキーウェアを纏っている。ごわごわの肌触りに柔らかさは存在せず、乾燥し切った肌に擦れて痛い。
「ヒィィッ! すべる! すべるっ!」
「わっ、わっ。包介くんがわたしのお胸に」
前後から浴びせられる騒がしい声と、突き刺さる赤錆さんと烏羽さんの白けた視線。首が固定されているので周囲は確認できないが、通りすがりの人々からも同じような視線を向けられている気がする。
「包介クンッ! ちゃんと支えてェッ!」
「ごめんね包介くん。お外でするのに興味があるかもだけど、わたし、はじめてはロマンチックなところがいい……」
「ホースケ、オマエ……」
「エロガキ」
調子に乗ったばちが当たったのかもしれない。
ごわごわかさかさの感触と中途半端に伝わる温みに挟まれながら、二度とスピードは出さないと誓った。
◇◆◇
安全を心がけて数回滑っているうちに、雪の勢いが強くなってきた。
とはいえ、吹雪と言うほどではない。しんしんと雪が降る中を滑走するというのも趣がある。視界が塞がれるまでは滑り続けるつもりだったが、彼女達が許してくれなかった。
「あんな危ないことはもうダメ! ワタシ許さないからね!」
「ホースケすぐ調子乗るだろ。この天気ならやめといた方がいい」
「他にも楽しいこと用意してるからさ、あたしと一緒に中はいろう。ね?」
「お部屋の中でならいっぱい触らせてあげるからね」
四方を囲まれ、各々の言葉で説得されてしまえば、抵抗する術はない。本日宿泊するコテージまで強引に連行され、雪が止むまで監禁される運びとなってしまった。
「はあ」
風景を一望できる大きな窓から降り頻る雪を眺めていると、自然と溜め息が漏れる。その音を聞かれてしまったらしく、いつの間にか背後に擦り寄っていた赤錆さんにお尻を鷲掴みにされる。
「なに黄昏てんのよ。こんないいとこ、中々泊まれないわよ」
確かにこのコテージは立派な造りをしている。木材を基調とした明るい色合いは厳寒の中でも柔らかさを感じさせ、居間に備え付けられた本格的な石暖炉から響く薪の弾ける音は、心をほっと落ち着けさせてくれる。北欧の家具なのだろうか、ソファやテーブル、絨毯も牧歌的な印象があり、真っ白な風景と併せると異国にいる気さえしてきた。
想像上の雪山のコテージを、そのまま形にしたような建物だ。感動こそあれ、不満は一切ない。溜め息の原因は、ようやく見つけられた僕にもできるスポーツを取り上げられたことにある。
好きなだけお尻を触らせる代わりに、ボードを許可して貰えないかな。
円を描くようにお尻を撫で回し続ける赤錆さんの手を放置しながらくだらないことを考えていると、キッチンの方から騒がしい足音が聞こえた。
「お昼できたよー!」
両手で鍋を抱えた桑染さんがやって来た。野菜と肉の旨味が詰まった香りが部屋中に広がり、お腹の虫が産声を上げる。匂いを嗅いでいるだけで鍋の熱さが肌に伝わり、まだ食べてもいないのに体が芯から温まりそうだ。
「ビーフシチューにしましたぁ。途中のパン屋さんで買って来たバゲットとサラダもあるよ。どんどんよそうからお皿持って並んでね」
桑染さんが鍋を置くと、後ろから烏羽さんと榛摺さんが現れて、てきぱきと用意する。大きなリビングテーブルはあっという間にバイキング会場に早変わりした。
生唾が音を立てて喉を通る。無意識のうちに食器を取ってしまい、お礼を言うのが先だったと内省するが、握り締めたスプーンは手を離れそうにない。
「フフ。そんなにお腹空いてたの?」
榛摺さんの揶揄いも耳に届かない。赤錆さんより先に鍋の前に並び、桑染さんにたっぷりよそってもらう。
ずっしりと重みのあるシチューだ。ごろっとした芋と人参に、ほろほろになるまで煮込んだもも肉がでんと鎮座している。旨みもじっくり溶け込んでいて、芳醇なデミグラスの香りが一層と立ち込める。
待ちきれない。烏羽さんからレタスに刻んだベーコンが混ぜたサラダの小皿を受け取り、食べ易いよう薄めに切り分けたバゲットを取って、ひと足先に食卓につく。余程急いで見えたのか、桑染さん達がくすくすと笑っているが、そんなことよりもお腹が空いている。
「早く食べましょう」
「はーい。ちょっと待っててね」
桑染さんはてきぱきと全員分のビーフシチューをよそい、各々が席についた。四人用の食卓にシチューの鍋やサラダの大皿が載っているため、五人が座ると手狭に感じるが、密着感よりも食欲が優先だ。
「それじゃあ、手を合わせて──」
「いただきます」
最低限の礼儀としてしっかり両手を合わせ、すぐに食事に取り掛かる。まずは、先ほどから抗い難い香りを漂わせるビーフシチューに手を伸ばす。
スプーンで掬って最初に感じたのは重みだった。どろっとしたスープの抵抗は、触覚でも期待感を煽ってくる。好きな物は後に取っておく性格だけれど、今回ばかりは我慢ができず、メインの牛肉から口に運ぶ。
「はふっ」
柔らかい。ひと噛みするだけで塊が解け、内包した肉汁が口全体にじんわりと広がる。溶け込んだ野菜の風味もしっかり感じられて、胃の底から熱くなる。
バゲットに載せると、また違った味わいだ。どっしりしたシチューとかっちりした小麦の食感は相性抜群で、主菜に主食の満足感が加わる。
ここでサラダに移ってみる。レタスの水々しさとかりかりに焼いたベーコンの塩気が丁度いい。シンプルな味付けだが、濃厚なビーフシチューにはぴったりの付け合わせだ。口の中が程よくさっぱりする。
「あれ」
再びシチューを掬うと、やけに大きいじゃがいもが乗っかった。口に入らない大きさというわけではなく、火もしっかり通っていそうだが、他の具材が均一に切り分けられているのもあって一瞬躊躇ってしまう。
「それ、麗美が切ったやつ。皮剥くのも下手くそだった」
「クッ……薫子ちゃんはともかく、メアリが料理できるなんて」
「千影さんに教えてもらってるの。口は悪いけど優しいよ」
そういえば、うちの台所に桑染さんが立つところや、反対に母さんが桑染さんのお宅に出掛けるところを何度か見かけた。僕の知らないうちに、料理を教える仲になっていたのか。最悪の出会いこそ大変だった母さんと桑染さんだが、家を行き来する関係にまでなれたと思うと感慨深いものがある。
鼻を高くする桑染さんに不利を悟ったのか、榛摺さんは標的を赤錆さんに変える。
「丁ちゃんも危ないんじゃない? 料理あんまりしないでしょ?」
「あたしは大丈夫です。桑染を家政婦として雇えばいいだけなんで」
「か、家政婦じゃないもん!」
「あたしは心が広いから、貸してあげてもいいよ? なんなら烏羽も雇ってあげようか」
「へっ。オマエのまな板じゃ満足できねぇだろ。貸してくださいの間違いじゃねぇか?」
「は?」
「ア゛?」
温かくて美味しい食事に囲まれた食卓で、どうして喧嘩が起きるのだろう。睨み合う三人を無視してシチューを食べ進めていると、火種だけつけて早々に離脱した榛摺さんが肩をくっつけてきた。
「包介クン。みんなが何の取り合いしてるか分かる?」
「……さあ。漫画の貸し借りでもしてるんじゃないですか」
「ウソ。ホントは気づいてるでしょ」
耳元で囁かれ、見透かすような目で見つめられる。榛摺さんのお兄さん、榛摺権蔵さんと同じ黒檀の瞳だ。榛摺さんに見つめられると、否が応でも権蔵さんにかけられた言葉を思い出してしまう。
自分を下げて、女の子の気持ちを蔑ろにしちゃいけない。
彼女達が取り合っているものが誰なのか、内心では気がついているはずだ。それなのに、拒絶されてしまう可能性が怖くて、ずっと気づかないふりをしている。彼女達の心を否定する、一番卑劣なやり方だと分かっているのに。
「難しい顔になっちゃった」
榛摺さんが頭を撫でてくれるが、覚悟を持てない愚図に甘やかしてもらえる権利はない。スプーンを持って固まる僕を見兼ねて、榛摺さんは更に身を寄せてくる。
「悩ませた後に言うことじゃないけど、誰かに決めてほしいってワケじゃないよ。ただ、キミからも求めて欲しいってだけ」
「求める?」
「そう。手を繋いだり、抱きしめたり。話しかけてくれるだけでも嬉しい。包介クンのこと、もっと知りたいから」
「そんなに面白い話はできないと思いますけど」
「それでもいいの。キミが信頼してくれるだけで、ワタシ達は幸せになれる」
僕みたいなちんちくりんの煮え切らない好意を、綺麗で格好良くて、ちょっぴり不思議な彼女達が受け入れてくれる。そんな都合のいい話があるのだろうか。
信じることすら決めきれない自分が情けなくて、目尻と口端が皮肉げに引き攣る。だが、旅行中にする表情ではないと思い直し、愛想笑いを取り繕って榛摺さんに向き直る。
「……えっとそれで、メアリ達の気持ちを代弁した感じだけど、ワタシも? その、包介クンのこと、たくさん知りたくて。ほら、ワタシの恥ずかしいところは見られたけど、包介クンはそういうのあんまり見せないでしょ? だからなんていうか、お姉さんにもハ、ハグとかして欲しいなぁ、なんて言っちゃったりして」
もごもご早口で喋るので後半は聞き取れなかったが、悪い意味ではないだろう。取り敢えず微笑んで頷いておくと、榛摺さんの頬がぼっと赤くなった。
その様子を遠巻きに見ていた赤錆さん達が肩を寄せ合い、ひそひそ話をしている。
「見なさい烏羽。ああいうのを泥棒猫っていうの」
「狡いやり方だな。お互い気をつけようぜ」
「麗美ってそういうとこあるよね」
「ハッ、ハァッ!? 違うし!!」
「うわ。逆ギレした」
「見苦しいッスよ」
「麗美ってそういうとこあるよね」
榛摺さんが三人に飛び掛かり、和やかなリビングは一転、もちゃもちゃした戦場と化した。団子になって床を転げ回る彼女達から視線を外し、窓の外を眺める。
人を好きになるということ。
僕はまだ、この感情を説明できない。自分のことなのに、自分が一番分かっていない。過去を知って、自分が何者なのかは知れたはずなのに。結局僕は分からないことに怯える子供のままだ。
不甲斐なさから逃れるように外の景色に目を向ける。はらはらと舞い落ちる雪の粒。それを追おうとしても、青白い遠景に溶けて見えなくなる。
雪はまだ、止みそうにない。




