087
桑染さんの引退ライブから二週間が経った。
それなりに印象的な引退宣言になったので、批判の標的にされる懸念はあったが、幸いにも身の回りに変化は起きていない。いつもと変わらぬ穏やかな日々を過ごす今日この頃である。
「僕は、貴女が話しかけてくれたあの日からずっと、貴女に惹かれていた──好きです。付き合ってください」
「ギャハハ! メッチャ似てるじゃん!」
「オレもこんな感じで告白したら、あんなオネエサンと付き合えるんかな」
「あんたの顔じゃ無理でしょ」
「ああん!? オッパイねえくせにナマ言ってんじゃねえぞ!」
「何ですってえ!?」
いや、それは僕の願望に過ぎない。今日も今日とて、悪意満載な物真似が教室で繰り広げられている。
あの告白動画が拡散されてしまったのだ。大きくて綺麗なお姉さんと矮小な男子中学生という組み合わせは、娯楽に溢れる現代社会でも新鮮に映ったらしく、じわじわと再生数を伸ばした。
それでも動画単体であれば、誰の目にも止まらず、ひっそりと埋もれることができただろう。大勢に発見された原因は、とある事件によるものである。
桑染さんがシリーキャットを脱退した直後、桃花さんがファンから暴行を受けた。
女性アイドルが狂った男性ファンに顔面を殴打された事件は、世間一般で見ても衝撃的な内容だったようで、すぐに全国ニュースに取り上げられた。夏虫さんによれば、シリーキャットは解散が決定していたそうで、グループ名が報道されることはなかったものの、ゴシップ好きの暇人がしつこく嗅ぎ回りグループ名を特定、誰かが無許可でアップロードした告白動画に辿り着き、ついには地方の市立中学にまで波及した。
その結果がこの惨状だ。
右側が映っていたらグロテスクな動画として、とっくに削除されていただろうに。傷が見えないのを恨んだのは初めてだ。
「なあなあ、どうやってあんな美人と知り合ったんだよ」
「……あれは僕じゃない」
「照れんなよ! どう見てもお前だろ!」
「いいなー。わたしも告白されたい」
「オレに任せとけ。好きです! 付き合ってください!」
「キッッッショ」
「つーか、赤錆と烏羽は知ってんのか?」
「そりゃあ知ってるだろ。動画出回ったときの二人の顔見たか? おしっこ漏らしそうになったぜ」
「南無三。骨は拾ってやる」
「あ、私も拾いたい。包介くんの骨格、興味あるもの」
「包介くん。私にも告白してくれない?」
「包介くん。おしり触らせて」
誰も聞いちゃくれない。各々が好き勝手に話すものだから、誰に話しかけられているかも判然としない。股間に伸びる手だけは押し留めながら、隣の烏羽に助けを求める。
「……チッ」
烏羽さんはじっとりした半目を寄越すと短く舌打ちをして、あからさまにそっぽを向いてしまった。つい先日まではちょっと近すぎるくらいだったのに、完全に臍を曲げている。
そういえば、青褐先生の様子もおかしかった。クラスメイトに動画が発見され、教室内でばら撒かれてすぐに先生は詰め寄ってきて、物凄い勢いで捲し立てられた。仕舞いには泣きながら、おっぱいは普通かもしれないがお尻の柔らかさなら負けていないなどと支離滅裂な発言を繰り返し、見兼ねた烏羽さんが連行するまで僕の机に齧り付いていた。それからあまり話す機会は設けられていないが、時たま泣き出しそうな視線を感じる。
何だか全然上手くいっていない。桑染さんの方は大丈夫だろうか。
聴覚を遮断して物思いに耽っていると、不意に僕を取り囲む人垣が崩れた。
「包介。今日の約束忘れてない?」
赤錆さんである。動画が出回った最初こそは鬼の形相で問い詰めてきた彼女だが、事情を説明するとすんなり納得してくれた。未だにつんけんしている烏羽さんと違って、赤錆さんはいつもどおりに接してくれるので、揶揄だらけの学校で唯一の救いになっている。何かと刺激的な彼女から日常の尊さを覚える日が来るとは思いもしなかった。
「なんか失礼なこと考えてるでしょ」
勘の鋭さもいつもどおりだ。曖昧に笑って誤魔化すと、優しく頬を摘まれる。
「はあ。じゃ、早く支度して。一応時間決まってるんだから」
「あ、あの、丁?」
「ん? なに?」
「包介くんとあのお姉さんって、どういう関係なの? それに、丁との関係も。も、もしかして一夫多妻的なやつ?」
人垣の中にいた一人の女子が緊張した面持ちで赤錆さんに尋ねた。動画の内容については聞かれるたびに否定しているものの、僕の言葉では納得できなかったらしい。
縋るように赤錆さんを見上げる。彼女は目を細め、呆れた風に見つめ返してくるが、ここで折れたら噂に歯止めが効かなくなるだけだ。白けた視線に負けじと見つめ続けていると、赤錆さんは周りには見えない角度で溜め息を吐いて、僕の肘に手を掛けた。強引に引っ張り立たせられ、抱きつくみたいに腕を絡めてくる。
「いつかちゃんと教えてあげる。ま、あいつはあたしと包介のペットみたいなものかな」
「ペ、ペット……」
「そ。色々と我慢できない子だから大変よ。昨日も──まあ、この話は別の日にするか。とにかく、あたし達は上手くやってるから気にしないで」
尋ねてきた女子は、ぼっと顔を赤くして人垣に戻っていった。余計に誤解が強まった気がするが、どうせ僕の言葉は届かない。この機にさっさと退散することにしよう。
「烏羽も余計な意地張ってないで、さっさと仲直りしなさいよ。包介がこういうヤツって知ってたでしょ?」
「……フン」
「じゃ、そういうことで。あたし達はお先に失礼しまーす」
赤錆さんと歩調を揃えて、人でできた道の真ん中を堂々と歩く。通り際に爆発しろと呪詛をかけられたが、聞こえないことにする。
腕を組んだまま教室を出て廊下を闊歩し、階段に差し掛かったあたりで赤錆さんは足を止めた。周りを見回し、他の生徒の姿がないことを確認すると、溜め息と共に腕を放される。
「まったく。こんな恥ずかしいことさせないでよ」
「ごめん。怒ってる?」
「あたしが一番って答えてくれなかったのは腹立つ」
「……ええっと、どういう意味?」
「別に。それで? 忘れ物ない?」
「うん。大丈夫」
「じゃ、早速向かうとしましょ」
そうだ。疲れてばかりもいられない。今日は赤錆さんのお父さんで弁護士である、赤錆英さんの職場にお邪魔することになっている。
赤錆法律事務所。
アイドルを引退した桑染さんの、新しい就職先だ。
◇◆◇
赤錆法律事務所は、地下鉄構内に直結するビルの三階にある。
母さんと養子縁組を結ぶときに、何度か通った場所だ。入り方は覚えている。
しかし、オフィスビルというのはどうにも落ち着かない。飾り気のない無機質な内装のせいか、それとも案内表示が少ないせいか。中学生には早すぎる雰囲気をひしひしと感じる。
「緊張してんの? 手、握ってあげよっか」
「子供扱いしないでよ」
「ふーん。でも、ほんとはあたしが緊張してるの。手、握って欲しいな」
「……仕方ないな」
「ふふ。ありがと」
僕の強がりは見透かされている。赤錆さんにぎゅっと指を絡められると、不安がすうっと溶けていく。
彼女の添えるような先導に身を任せてエレベーターに乗り込み、目的の三階を押す。五人が限界の狭苦しいエレベーターで、必要以上に身を寄せてくる赤錆さんの柔らかさに気を取られないよう目を瞑る。
「我慢しなくてもいいのに」
甘い言葉に騙されてはならない。エレベーターはすぐに到着した。幸い、開いた扉の先には誰もいなかったが、もしも誰かに見られていたら、法律事務所の前で幸せを見せつける不謹慎な連中だと罵られたに違いない。
赤錆さんから体を離してエレベーターを降り、緊張に関節を強張らせながら赤錆法律事務所の戸をくぐる。
「こんにちは。……あら? 包介くんじゃない」
「お久しぶりです。所長の赤錆さんに呼ばれてたんですが、いらっしゃいますか」
「あら、そうだったわね。えーっと、ちょっと待ってね」
受付のお姉さんと話していると、事務所の隅からがたんと大きな音がした。どしどしと迫ってくる足音の持ち主は、見ずとも誰か知っている。
「こ、こんにちはっ」
「こんにちは。桑染さん」
桑染さんは僕の目の前で急停止した。勢い余って前のめりになり、ずり落ちそうになった丸い眼鏡を指先で持ち上げる。服装もいつものふりふりのついたスカートではなく、きっちりしたシャツにすらっとしたズボンで、如何にも大人のお姉さんといった感じだ。
「仕事中は眼鏡なんですね」
「あっ、うん。視力は2.0あるんだけど、ブルーカット用につけてるの。そ、それより、服はどうかな。麗美に選んでもらったんだけど、変じゃない?」
「すごく似合ってます。普段の可愛いのも似合ってますけど、かっこいいのも素敵です」
「えへっ。えへへ」
「あはは……」
二人で笑い合うが、長くは続かない。段々と尻窄みになり、キーボードを叩く音が僕等の声を上書きしていく。
ライブ会場での告白。あれが芝居であったことは、すでに説明している。
桑染さんは最初こそ動揺していたが、榛摺さんと一緒に告白の目的を伝えると納得してくれた。彼女との関係は、仲の良いお隣りさんのままだ。
しかし、いざこうして向かい合うと。
深い藍色の瞳。長い睫毛。白くて丸い頬。すらりと通る鼻筋と、形の良い桃色の唇。人形のように整っていて、けれど、上気した肌がたしかな生命を感じさせる。僕はこんなにも綺麗な人に告白したのだと、意識せずにはいられない。
「いつまでやってんの」
「いでっ」
桑染さんと見合っていると、赤錆さんに尻をどつかれた。小言を言いたいところだが、あのままでは一生見合っていただろうし、渋々感謝する。
「ほら。パパのとこまで案内して」
「あ、うん。こちらになります」
桑染さんの案内で防音の個室に通される。中にはすでに英さんが待っていて、僕の顔を見るとすっくと立ち上がった。
「ああ包介君。学校終わりに悪いね。桑染さんも案内ありがとう」
「あたしには?」
「えーっと、丁は呼んでなかったような──」
「は?」
「……ごめん包介君。丁が一緒でもいいかい?」
「僕は何でも大丈夫ですよ。ところで、今日はどういった話なんでしょう」
「あれ? 丁から聞いてない?」
英さんと一緒に赤錆さんを振り返る。彼女は太々しく鼻を鳴らすだけで何も答えない。
「……気を取り直して。今日包介君を呼んだのは、一応桑染さんの働きぶりを報告しておこうと思ってな。とりあえずかけてくれ」
促されるまま、机を挟んで英さんの向かいに座ると、桑染さんと赤錆さんは僕の両脇を固めるように腰掛ける。一対三で明らかに偏りがあるが、この程度の違和感で英さんは動揺せず、そのまま話を始める。
「桑染さんには主に事務や会計なんかの庶務関係を担当してもらってる。事務所を立ち上げたときは受付の子に任せてたんだけど、うちも結構大きくなってきたからな。募集かけるか迷ってた時期だったから、タイミングよかったよ」
「それならよかったです。突然のお願いだったので、無理をさせてしまったか心配で」
「そんなそんな。すっごく助かってるよ。覚えは早いし、テキパキしてるし。いい人を紹介してくれて、ほんと大助かりさ」
などと、あたかも僕が紹介したかのように会話しているが、実際に声を掛けたのは赤錆さんである。就職活動に苦戦する桑染さんに赤錆さん自ら接触し、英さんが経営する法律事務所で働かないか持ち掛けたのだ。僕は赤錆さんに経緯だけ伝えられ、代わりに英さんに連絡しただけなので、褒められるようなことは何もしていない。
赤錆さんも父親相手なのだから、自分の口から伝えればよかったのに。もっとも彼女は、表立って人助けするのを恥ずかしがる性格だから、間に誰かを挟みたかったのだろう。度々僕を頑固といつも指摘する赤錆さんだが、彼女も中々に難儀な性格をしている。
「……なにその目」
「別に何でもないよ」
「うざ」
太ももを抓られた。大して痛くはなかったが、右隣の桑染さんの反応は素早い。赤錆さんの手を払い除けると、労わるようにさわさわと太ももを撫でてくる。
「うお゛っほん」
英さんの咳払いに慌てて居住まいを直す。背筋を伸ばした僕と桑染さん、やくざみたいに腕を組む赤錆さんを順番に見回した英さんは、眉間を抑えて息を吐いたあと、意を決した様子で口を開く。
「包介君を呼んだのは近況報告もあるが、本題は別なんだ。……単刀直入に聞こう。包介君は丁と桑染さん、どっちが本気なんだ?」
「えっ」
「ちょっとパパ」
僕が聞き直すより早く、赤錆さんが身を乗り出した。英さんは一瞬たじろぐが、娘の圧力に負けじと前のめりになる。
「大事なことじゃないか! パパはお義父さんになるつもり満々だったのに、急にライバル出てきちゃったらさあ! しかも、丁も桑染さんもお互いの気持ちを知ってて、そのうえで協力し合ってるんだろ!? もう何が何だか──」
赤錆さんが、ぴん、と人差し指を立てる。親が子供を静かにさせるやり方だ。立場が逆転してしまった英さんだが、赤錆さんが落ち着いているときの所作は大人顔負けの貫禄がある。
「負けるつもりはないわ。一番はあたし。束縛はしないってだけ」
「そ、そうだとしてもだ。他の子達だって黙ってないだろ」
「もうパパ。言ったでしょ、負けるつもりはない。……ま、貸してあげるくらいはするかな。この間はヤラレっぱなしにされちゃったし。いっぱいで相手しないとあたしの身体が保たないかも。ね? 包介」
赤錆さんが悪戯っぽくウィンクしてくる。これはいつもの悪ふざけの流れだろう。
襲いくる衝撃に、腹に力を入れて身構える。案の定、見事に釣られた桑染さんが体当たりみたいな勢いでしがみついてきた。
「ちょ、どういうこと!? したの!?」
「あたしだけじゃないわ。烏羽も一緒」
「えーっ!?」
「は、はじめてが三人? パパもうわかんない」
「あの、何か勘違いしてませんか? 赤錆さんも誤解を招くような言い方しないでよ。この間、レスリングの練習したときの話だよね?」
「練習なんてひどい。あたし、はじめてだったのに」
「包介くん! 説明して!」
「もしもしママ? 最近の子って怖いんだね。パパは限界です」
もう収拾はつかない。部屋の外で聞き耳を立てていたらしい事務所の方々がうっかり戸を開けてしまい、室内はいよいよ混沌の坩堝と化す。桑染さんと赤錆さんに両腕を抱えられながら、諦めの境地で天井を仰ぎ見る。
仕事は特別なものだと思っていた。
子供と大人の大きな違いは、自分の力で生活できるかどうかだ。中学生の僕にとって、働いてお金を稼ぐのは未知の領域である。夏休みに榛摺さんの御実家で働かせてもらったものの、内容はお手伝いの範疇であったし、そもそも彼等の目的は別にあった。僕は未だ、社会を知らない子供のままだ。
だが、実際に大人が働いている現場を目撃すると。
何というか、思ったより自由だ。当然、見えないところで守っている部分は沢山あるのだろうけれど、がちがちに規則を遵守するマナー人間ということはない。守るべきところは守りながらも、自我や個性を捨ててはいない。別人になり切るのではなく、日常の延長で社会に溶け込んでいる。
僕も無意識でこなしていることだ。家と学校で立ち振る舞いは変えているが、演じているわけではない。僕という人格のうち、表に出す部分を使い分けているだけの話だ。それを思えば、知らない間に大人らしい振る舞いに近づけているのかもしれない。
「包介」
「包介くん!!」
大人に近づいているのならば、目を背け続けていたあの問題にも向き合わなければならないだろう。
好きな人が沢山いて恋愛が分からないなどという、甘えた問題について。
とはいえ、解決の兆しが都合よく見えるわけもない。両側からがくがくと体を揺さぶられながら、僕はまたしても先延ばすことを選び、静かに目を瞑った。




