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ペトリコールと怪女達  作者: カシノ
La seríe

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082

 アイドル。

 見た目のいい人間が煌びやかな衣装を着て、歌や踊りなんかのパフォーマンスでお金を稼ぐ職業。

 わたしのこれまでの人生で、一度も関わってこなかった職業。

 理由の一つに、魅力を知る機会がなかった、というのがある。幼少期、わたしが預けられていた祖父母は古い価値観に縛られていて、テレビやインターネットは使用を禁じられていた。そのうえ外出まで制限されていたから、世相を知るには祖父が読み終えた新聞を隠れて覗き見るしかなく、ぼけた写真と賞賛の文字だけで憧れるほど単純な子供時代は送っていない。

 そしてもう一つ、というか最大の理由は、包介くんの存在である。

 人間という種に絶望していたわたしの前に現れた、天使のような男の子。

 包介くんとの出会いは、わたしのすべてを変えてくれた。価値のない世界に、生きる理由を与えてくれた。

 一度救われ、再び地獄に突き落とされたりもしたけど、今は必要なことだったのだと思える。結び直された繋がりは更に強く、わたしの人生も一層と鮮やかになった。

 包介くんがいてくれれば、わたしは充分に満ち足りる。だからアイドルなんて必要ないし、興味を持つこともない。

 そのはずだったのに。


「みんなー! ありがとー!」


 今わたしは、小さなライブハウスの舞台袖に立っている。

 黄色と黒とふわふわの、丈の合っていない衣装を無理やり着せられ、桃花の合図を待たされている。


 どうしてこんなことに。

 髪型が乱れるのを気にする余裕もなく、頭を抱えてしゃがみ込む。

 昨日、突如として舞い込んだアイドルの誘いを、当然わたしは断った。しかし桃花は、あの手この手と切り口を変えて粘り続け、気づけばこんなところに立つ羽目になっていた。

 田舎の地下アイドルだから大丈夫とか、顔見知りばっかりだから怖くないとか言っていたが関係ない。外に出るだけでもストレスなのに、数十人から注目されるステージに自分の意思で出ていくなんて、想像するだけで吐きそうになる。


「包介くん……」


 胸の内にある彼の姿を抱き締める。微かに不安は和らぐが、本物が与えてくれる安心感には遠く及ばない。そうしているうちにも桃花の語りは進み、わたしの出番は刻一刻と近づいていく。


「きょうはぁ、新メンバーを紹介しますっ」


 きた。きてしまった。

 心の準備は一切できていない。床を踏む感覚は朧げだし、痙攣する口では覚えた挨拶の一文字だって喋れない。背中と脇に湿った汗が染み出して、胃液が喉まで迫り上がる。


「フランスから来たビッグな新人、メアリちゃんでーす!」


 桃花が満面の営業スマイルを作って、わたしの方に手を向ける。

 出ていくべきタイミング。でも、足は動かない。腿の下に手を入れ引っ張り上げるみたいにして、辛うじて立ち上がることには成功するが、視界がぼやけて覚束ない。

 桃花が顎をしゃくって、早く来いと催促してくる。出て行かなきゃいけないことくらい、わたしだって分かってる。でも、どうしても足が動かない。


「ほら、恥ずかしがらないで」

「こっちこっち!」


 立ち尽くすわたしに、救いの手が差し伸べられた。

 グループメンバーの夏虫(なつむし)杏奈(あんな)さんと、 深縹(こきはなだ) 来里栖(くりす)さん。

 異常事態に気づいた彼女らはわたしの元まで走り寄り、手を掴んで引っ張ってくれた。二人のおかげで固まっていた両足がようやく動き出し、躓きかけながらも照らされたステージに上がることに成功する。

 けど、そこまでだ。ステージに上がった先のことは、何も準備できていない。

 ステージからは観客の顔がよく見える。野暮ったい眼鏡の如何にもな男性や、ライブハウスには場違いなばっちり決まったビジネスマン、ごく少数だが女性の姿も。

 誰も彼もがわたしを見て言葉を失っている。突然現れた巨大な化け物を前に唖然としている。


「あれっ、ちょっと緊張しちゃってるかな?」

「ふふ。おっきいのにかわいいでしょ」


 二人は場を繋ぎながら、そっと背中を摩ってくれる。まともに会話もしていない不気味なデカブツを気遣ってくれている。

 情けない。困惑しているのは、急に新メンバーを連れて来られた挙句、フォローに奔走させられる彼女たちの方なのに。ぎゅっとと拳を握り締めて涙を堪えるも、保ちそうにない。笑顔を取り繕いながらわたしを助ける二人を見ているのが耐えられず、視線を左隣に向ける。


「あっ、(やに)さーん。今日もありがとー」


 桃花はわたしを見ていなかった。わたしを無理やり舞台に立たせた張本人は、わたしの存在なんてなかったみたいにファンサービスに勤しんでいた。

 そうだ。桃花はこういう女だ。

 気に入らないという理由だけで他者を踏みつけ、貶めるためなら平然と嘘を吐く。アイドルの誘いも善意なんかではない。己の人生の鬱憤を、過去に虐めた玩具を使って発散しようとしているだけだ。大勢の前で恥をかくわたしを見て、自分はマシだと思いたいだけだ。

 夏虫さんと深縹さんへの申し訳なさが、桃花への怒りに変わる。沸々と煮える湯のような感情が、冷えた体に熱を巡らせていく。

 でも、この感情を発露する術はない。桃花を殴り飛ばす勇気はないし、悔しさをバネにパフォーマンスに昇華する甲斐性もない。わたしはただ俯いて、怒りに震えることしかできない。


「おいデブ! とっとと引っ込めよ!」


 そんな折、観客席から暴言が飛んだ。親しみのある野次ではなく、明らかに敵意を持った声色だ。町で聞こえたら目を逸らす場面だが、ステージ上という非日常の場では反射的に顔を上げてしまう。


「クリスちゃあーん! そんなのよりオレにファンサよろしくぅ!」


 茶髪の豚。そうとしか形容できない大柄な男が下卑た笑みを浮かべ、ぶんぶん手を振っていた。

 付近の客は迷惑そうな顔で距離をとっており、男の周りにぽっかりスペースが空いている。深縹さんの表情も亀裂が入ったように引き攣り、あの男がどういう存在なのか一目で理解できた。


真赭(まそほ)さん。女の子にそんなこと言っちゃダメでしょ?」


 夏虫さんが注意を入れるが、男の耳には届かない。男は前列の客を強引に掻き分け、無理やりステージの前を位置取る。


「いくら使ったと思ってんだ! おさわりぐらいいいだろぉっ!」


 バックミュージックを上塗りする音量で男が吠える。近距離から鼻息混じりの怒声を浴びせられ、深縹さんの顔から笑顔が消えた。明らかに怯えた目をして、へたり込む寸前まで腰が引ける。

 男はその瞬間を待ち構えていたように、深縹さんに腕を伸ばす。贅肉で膨れた手は女の子の細腕など包み折れそうなほど分厚い。汗に滑った太い指が柔肌に届こうとしたそのとき──

 わたしのスイッチが入った。


「きゃっ」


 深縹さんの腰に手を回し、一気に引き寄せる。男の指は肌を掠めて空を切り、遠心力に振られて上体が流れる。体重が重い分勢いも強く、男は片足をつきながら何とか体勢を整える。


「オ゛イ゛!」


 空振り如きでバランスを崩したことが恥ずかしかったのか、男は必要以上に嗄れた声で威圧してくる。だが、虚勢を張る豚に恐る要素は欠片もない。わたしがステージから跳び降りると、まさか向かってくるとは思わなかったのだろう、男は二、三と後ずさった。

 正面から対峙すると、想像していたより大きい。身長はわたしより低く、足の長さに至っては半分にも満たなそうであるが、顔は倍以上に大きく、余分な肉で横幅がある。打たれ強さは上だろう。

 自然と重心が下に落ち、無意識のうちに迎え打とうとしている自分に気づく。いつからわたしは、こんなにも好戦的になったのか。きっと大好きなあの子に影響を受けたに違いないと、薄い笑みが溢れてしまう。

 微かな口元の歪みを、男は挑発と捉えたらしい。不細工な咆哮を上げながら、サイリウムを掲げて襲いかかってきた。ピンク色のぼやけた光。暗がりの中で尾を引くそれは、軌跡がはっきりと目で追える。


「ウラァッ!」


 愚直に振り下ろされたサイリウムを片手で受け止める。

 安いプラスチックの手触りだ。握る力を強めると、みしみしと音がする。


「離せよッ!」


 男はわたしの手を振り解こうとするが、サイリウムは微動だにしない。わたしならさっさと手放して、顔面に一撃くれてやるところだ。

 しかし、女に力負けするのはプライドが許さないのだろう、男は醜い面を梅干しみたいにしわくちゃにして、尚も強引に取り返そうとする。わたしも対抗して握力を強めると、


 ぱきん。


 と高い音が鳴って、手の中でサイリウムが砕けた。

 破片が手のひらに食い込むが、わたしの皮膚を突き破るほどの鋭さはない。丹念にすり潰すように、拳を更に握り込む。


「ヒッ、ヒィッ」


 日常生活では機会のない破壊の音を聞いて、男は恐怖を思い出した。大きな体をのけ反らせて、少しでも距離を取ろうとする。

 その爪先を踏みつけて、強引に目を合わせる。男の目がわたしと拳を往復し、暗がりの中でも分かるくらいに青褪めていく。


「邪魔」


 気の利いた言葉が見つかればよかったけど、これがわたしの限界だ。ダメ押しに爪先を踏み躙り、脛を蹴りつけてから解放してやると、男は汗だくになりながら、ふらふらの足取りで出口に消えていった。


 とりあえずは一件落着か。

 手についたサイリウムの破片を払いながら、ほっと息を吐く。


「わっ」


 腰のあたりに抱きつかれた。視線をずらすと、深縹さんがぎゅっと腕を回しながら、きらきらした目で見上げてくる。


「カッコいい……」


 なにか、よくない扉を開いてしまったかもしれない。深縹さんの熱のこもった視線に耐えられず、逃げるように周囲を見回す。

 そこでようやく、わたしは注目されていることに気づいた。

 ライブハウス内の数十人の客。その誰しもが、深縹さんと同じ期待に満ちた眼差しをわたしに向けている。

 もしかしなくても、まずい状況なのではないか。

 そう理解はしつつも動くことはできず、夏虫さんが引っ張ってくれるまでの間、わたしは困惑したまま立ち尽くすしかなかった。

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