第3話 真夜中の大厨房と、膝の上の甘いスコーン
「え? 奇跡というか……ごく普通の、どこにでもある焼き菓子ですけど……」
「よし、すぐに厨房へ案内しよう! いや、君に歩かせるわけにはいかない。私が抱えていこう!」
「ひゃあ!? 歩けます! ちゃんと歩けますから……っ!」
結局、ヴェインにガッチリと手を引かれ(ほとんど身体が浮き上がっているような速度で)、シャルロットは城の巨大な大厨房へと案内された。
*
そこは、一流の宮廷料理人たちが数十人規模で同時に腕を振るえるほど広大な空間だった。
だがヴェインが一言「下がれ」と低く短く命じると、料理人たちは一斉に恐縮しながら、蜘蛛の子を散らすように脱兎の勢いで退出していった。
静まり返った大厨房に残されたのは、ピカピカに磨き上げられた銀の調理台と、赤々と薪が燃え盛る石造りの巨大な遠赤外線オーブン。
シャルロットはシルクドレスの裾をさっと腕まくりすると、用意された最高級の食材を手にとった。
王室御用達の芳醇な発酵無塩バター。黄金色に光る、今朝採れたての濃密な生卵。さらに幾重にも精製された、雪のように白い最上級の薄力小麦粉。
「ふふ、すごいです……こんなに素晴らしい質のバター、本物を見たのは初めてです……」
シャルロットの瞳からさっきまでの怯えが消え、真摯な職人の鋭い目つきへと変わる。
十分に冷やされた無塩バターをナイフで小さなサイコロ状に切り分け、山盛りの小麦粉の中に投入する。
指先でバターと粉をすり合わせる――サクサク、さらさら。
指の体温でバターが溶けてしまわないよう、手早く素早く、粉が黄色いさらさらの砂状になるまで丹念に揉み込んでいく(サブラージュ)。
ヴェインは調理台のすぐ横、シャルロットの吐息がかかるほどの至近距離に立ち、彼女の繊細な手元を食い入るように見つめていた。
(おお……なんという神聖な術式だ……! 指先から漏れ出る微細な冷却魔力……! 体温でバターが溶けるのを完璧に防ぎつつ、グルテンの過剰な結合を物理的に遮断している……! あの小麦粉と黄色の固まりが、彼女の無意識の魔力によって命を吹き込まれていく……!)
ヴェインの双眸には、シャルロットの指先から黄金色の聖なる粒子がサラサラと粉に混ざり合っていくのがはっきりと視えていた。
だがシャルロット本人は「今日の夜気の湿気なら、冷えた牛乳を少し多めに入れた方がふんわり膨らむかな」などと、純粋なレシピの調整だけに思考を没頭させている。
冷えた牛乳と少しの砂糖を加え、生地を練らないように手早くひとまとめにする。
打ち粉をした台の上に生地を伸ばし、何層にも折りたたむ。こうして空気を抱かせながら層を作ることで、焼き上げた時に美しい膨らみが生まれるのだ。
丸い型で生地を丁寧に抜き、天板に整然と並べていく。
オーブンの重い鉄扉を開けると、ブワッと熱風とともに広葉樹の香ばしい薪の匂いがシャルロットの顔を包んだ。
天板を奥へと滑り込ませ、鉄扉を閉める。
パチパチと薪がはぜる心地よい音。
静かな大厨房に、やがて甘く濃厚なバターと香ばしい小麦の香りが満ち始め、鼻腔をくすぐる。
焼き上がるにつれて、生地の側面が大きく上下に裂け、まるで分厚い層が口を開けたような美しい亀裂――「オオカミの口」がしっかりと生まれていく。
「よし……最高の焼き上がりです!」
十五分後。オーブンから取り出されたのは、表面がこんがりと美しいキツネ色に染まった、ふっくりと膨らんだ厚焼きスコーンだった。
外はサクサク、中はしっとりとした焼き立ての熱々スコーン。
シャルロットは火傷しないよう布巾越しに手早くナイフで横半分に割り、用意されていた濃密でミルキーなクロテッドクリームと、甘酸っぱい真っ赤な摘みたて苺のジャムを贅沢にたっぷりと塗り重ねた。
「公爵様、お待たせいたしました。焼き立てのスコーンです」
*
執務室へと戻った二人。
外では、いつの間にかパラパラと静かな夜雨が降り始めていた。
ガラス窓を滑り落ちる雨粒が、濡れた庭園の灯りを弾いてしっとりと煌めいている。暖炉の薪が暖かな音を立ててパチパチと燃え、室内の温度を優しく保っていた。
「さあ、公爵様。温かいうちにどうぞ……」
「うむ。だがシャルロット、味わう前に一つだけ絶対の条件がある」
「条件……ですか?」
ヴェインは深革の大型一人掛け椅子に深く腰掛けると、自らの広く頑丈な太ももをポンポンと叩いた。
「ここに座りなさい」
「えっ!?」
「君が膝上に乗っていなければ、私は落ち着いて味覚を感知することができないのだ」
「な、何を言っているんですか!? そんなの……恥ずかしすぎます……っ!」
「ダメか? 私の『龍血の呪い』の暴走は静まったが、君の体温に直接触れていないと、また体内の魔力回路に激しい発作が出そうになるのだが……ぐっ」
ヴェインがわざとらしく胸元を強く押さえ、苦しそうな顔をして大きく表情を歪めてみせる。
「あっ、だ、大丈夫ですか!? わ、わかりました! さ、座りますから……っ!」
シャルロットは慌ててヴェインの膝の上に、おずおずとそっと腰を下ろした。
ふわっ、とシャルロットのお尻にダイレクトに伝わる、ヴェインの太ももの強靭な筋肉の硬さと、圧倒的な体温の熱感。
背中には彼の厚い胸板が隙間なくぴったりと密着し、シャルロットの細いウエストにヴェインの太い腕が回される。まるで身体全体を巨大な肉食獣に優しく抱きすくめられたような、逃げ場のない密着度だった。
(おお……君の体温を感知した瞬間、私の血脈に潜む狂暴な龍血回路のノイズが、1ミリ秒ごとに物理的に補正され、完璧なゼロベクトルへと鎮静化していく……。これはもはや、我が皇国最強の戦略的防衛システムの稼働プロセスそのものだ……!)
ヴェインはシャルロットのうなじに鼻先を埋め、深々と彼女の甘いハーブと体香を吸い込んだ。
シャルロットの心臓はドックンドックンと激しく脈打ち、耳の先から顔全体が火が出そうなほど真っ赤に染まる。
「ほ、ほら、公爵様……スコーンが冷めてしまいますよっ」
シャルロットはあまりの照れ臭さを誤魔化すように、クリームとジャムがたっぷりと載った熱々のスコーンを、ヴェインの薄い唇へと差し出した。
「あーん……してください」
「あー……」
ヴェインはシャルロットの指先から直接、スコーンをパクリと大きな口で含んだ。
サクッ……。
軽やかな音とともに、口内には弾けるような小麦の香ばしさと最高級バターのコクが広がった。
濃厚でミルキーなクロテッドクリームがスコーンの熱でじわりと溶け出し、甘酸っぱい苺ジャムのフレッシュな酸味が、全体の重みを極上に引き締める。
身体の奥底から全能感がみなぎり、絶大なる幸福感がヴェインの全身の神経を駆け巡った。
「シャルロット……愛している。君の焼き菓子を口にできるのは、世界で私一人だけでいい……!」
情熱と深い独占欲の籠もった琥珀色の瞳で見つめられ、シャルロットの胸は甘く激しく高鳴った。
子爵家で虐げられ、無能だと捨てられた自分が、こんなにも愛され、全身全霊で必要とされている。
シャルロットは、ヴェインの温かく力強い胸の中にそっと身を委ねながら、生まれて初めての甘く満たされた幸福感に酔いしれるのだった。
(第三話 完)




