第2話 黒曜石の城と、白磁のバスタブ
静寂に包まれた深い森を抜け、漆黒の馬車が滑り込んだのは、雲を突くほどに巨大な黒曜石の城郭であった。
馬車の小窓から首を傾けて見上げれば、幾重にも重なる鋭い尖塔が、雨上がりの曇天を切り裂くように天へと聳え立っている。遠くに広がる黒魔の山脈、間近にそびえる荒々しい外壁、そして足元の濡れた黒石の石畳に滑り込む馬車の鉄輪――圧倒的な高低差と圧倒的な建築コストの威圧感に、シャルロットは思わず小さな息を呑んだ。
「ようこそ、ヴァルハイト城へ。我が愛しいシャルロット」
隣に座るヴァルハイト公爵ヴェインは、シャルロットの華奢な肩を抱く手に一切の力を緩めようとしなかった。
彼が羽織らせてくれた漆黒のベルベット外套は、シャルロットの小さな身体をすっぽりと覆い隠している。分厚い生地からは、上質な竜涎香と古い羊皮紙、そして凛とした男らしい冷気の匂いが心地よく漂っていた。彼の体熱が外套を通してじわりと伝わり、凍えていた身体を痺れさせる。
馬車の重厚な扉が開かれると、ずらりと整列した数十人の侍女や執事たちが、雨上がりの濡れた石畳に躊躇なく一斉に膝を突いた。
「「「シャルロット様、ヴァルハイト公爵家へよくぞお越しくださいました!」」」
「えっ……あ、あの、私、ただ実家から追放されただけの身でして……っ」
「何を言っている。君は私の命の恩人であり、今日からこの城の新たなる主人だ」
ヴェインは戸惑うシャルロットの腰と膝裏に腕を差し入れると、軽々とその細い身体をお姫様抱っこで持ち上げた。
泥と雨水に汚れた彼女の靴底を、一瞬たりとも地面に触れさせまいとする徹底的な過保護さに、シャルロットの顔は耳の先まで真っ赤に染まる。ヴェインの胸板は甲冑のように硬く、胸底から響く力強い心音の振動がダイレクトに伝わってきた。
*
通された大浴場は、シャルロットが生まれ育った子爵家の屋敷全体よりも広々としていた。
天井はドーム状の吹き抜けになっており、高窓から差し込むかすかな光が、水面に揺れる白い蒸気を筋となって神々しく照らしている。並みの大貴族なら冬場の薪代だけで破産するほどの湯量が、常時なみなみと湛えられていた。
「シャルロット様、お召し物をお脱がせいたしますね」
「ひゃあ……っ! あ、あのっ、自分で脱げますから……!」
恐縮するシャルロットを余所に、洗練された侍女たちによって濡れて泥の跳ねた汚衣服が手早くなだめられるように脱がされ、滑らかな白磁のバスタブへとそっと浸からされる。
湯船には摘みたてのローズマリーと乾燥させたラベンダー、そして濃厚な蜂蜜のオイルがたっぷりと浮かべられていた。
温かな湯が、雨で冷え切り強張っていた肌の輪郭をやさしく解きほぐしていく。
爪の間に挟まっていた子爵家の黒土が、ハーブの香る細やかな泡によって丁寧に洗い流されていく。
髪を梳かされるたび、長年「小麦粉臭い」「雑用係の汚い髪」と罵られて放置されていた金糸の髪が、本来の眩い輝きを取り戻して艶やかに光を反射した。
「……なんてお美しい髪でしょう。これほどの毛質と豊かな魔力を秘めたお方をぞんざいに扱い放り出すなんて、前婚約者様は正気ではありませんわね」
熟練の侍女が、呆れと怒りを混じらせた溜息を漏らす。
シャルロットは湯船の中で、お湯に透ける自分の指先を見つめた。
子爵家では、毎日早朝から冷たい井戸水で厨房の床を磨かされ、手垢のついた重い小麦粉の袋を一人で運ばされていた。冷気と労働で指先は赤く腫れあがり、アカギレの傷口が日常的に疼いていた。自分の体内に眠る魔力を、無自覚に「料理の保温」や「荷運びの筋力補助」として不当に絞り尽くされていたのだ。
(ジュリアン子爵家なら一財産が吹き飛ぶほど貴重な高純度のハーブオイルが、この城では、ただの侍女の日常業務として贅沢に消費されている……。私は今まで、自分の労働コストと魔力をどれほどタダ働きさせられていたんだろう……)
今こうして温かい湯に浸かり、上質なオイルを肌に馴染ませてもらうと、頑固だったアカギレの痛みが嘘のように和らいでいく。長年削り取られ続けていた尊厳が、圧倒的な経済落差の現実とともに、温かく上書きされていく感覚だった。
湯上がりに用意されたのは、最上級のシルクで織られた乳白色のドレスだった。
内臓を潰すような厳しいコルセットはなく、身につけるとまるで温かい羽毛に包まれているかのように軽い。裾が揺れるたび、サラサラと耳に心地よい擦れ音が響いた。
*
「——入るぞ」
ドレスに着替え終えたシャルロットがサロンの豪奢な革張りソファで所在なげにしていると、重厚な木製扉が開いてヴェインが入ってきた。
濡れていた黒髪を無造作にあげ、くつろいだ部屋着姿の彼は、息を呑むほど男振りが際立っていた。彫りの深い目元、薄い唇、そして着物の上からでもわかる引き締まった広い肩幅。醸し出される圧倒的な強者の存在感に、部屋の空気の密度が一気に跳ね上がる。
「過ごしにくくはないか? 何か欲しいものがあれば、何でも言うといい。君が望むなら、国を丸ごと一つ買い取ることすら私には造作もない」
大真面目な顔で恐ろしい規模の提案をするヴェインに、シャルロットはタジタジになりながらも、控えめに腹部を押さえた。
「い、いえっ! 十分すぎるほど贅沢させていただいています! あの……公爵様、私……その、少しお腹が空いてしまって……」
ぽつりと零したシャルロットの言葉に、ヴェインの鋭い琥珀色の瞳がカッと光った。
「そうか! 空腹か! すぐに腕利きの宮廷料理長を呼びつけ、あらゆる山海の珍味をテーブルから溢れかえるほど用意させよう!」
「違います! あの……私、お料理……お菓子を作りたいんです」
シャルロットは胸の前で小さな両手をキュッと握りしめた。
子爵家では「無能の泥仕事」「下女の作業」とバカにされていたが、シャルロットにとってお菓子作りは、冷遇される日常の中で唯一自分の心が安らぐ『居場所』だったのだ。自分の魔法と真心が、形となって誰かを笑顔にする——それだけが彼女の救いだった。
「私を助けてくださったお礼に……何か、温かいものでも作らせていただけませんか?」
ヴェインは一瞬、弾かれたように目を見開いた。
そして次の瞬間、その厳格で冷徹と恐れられる男の整った顔に、爆発的な感動と、狂おしいほどの歓喜の色が広がった。
「ま、また……あの森の入口で私を救ってくれた、あの奇跡の聖菓を……私のために焼いてくれるというのか……!?」




