第1話 雨の追放と、濡れたバタークッキー
ざあざあ、と叩きつけるような六月の冷たい雨が、子爵家の重々しい鉄門を濡らしていた。
水たまりに跳ねる雨粒が、足元の湿った砂利を跳ね上げる。
シャルロットは泥に汚れかけたスカートの裾をかき抱き、冷気でかじかんだ指先をぎゅっと握りしめた。肩には羽織るものもなく、濡れた薄手のドレスが肌に貼りついて冷気を吸い上げている。
「——役立たずのシャルロット! 我がジュリアン子爵家に、お前のような不埒な女は不要だ!」
頭上から叩きつけられたのは、婚約者であったジュリアンの高圧的な怒号だった。
屋敷の二階のバルコニーから、豪奢な服を着たジュリアンが泥を見下ろすような目で見下ろしている。その脇には、シャルロットの異母妹であるマリアが、可愛らしくくすくすと笑いながら寄り添っていた。
「お姉様ったら、貴族の嗜みである攻撃魔法の一つも使えないなんて、本当にお可哀想ですわ。毎日毎日、厨房に閉じこもって小麦粉とバターの匂いを撒き散らすだけなんて……まるで下等な平民の焼き菓子職人ですわね」
「マリアの言う通りだ! 我が家に必要なのは、我が領地の繁栄に貢献できる高等な魔力を持つ妻だ! クッキーしか焼けないお前など、今日限りで追放する! 二度とこの敷居を跨ぐな!」
ガチャン! と不快な音を立てて子爵家の鉄門が閉ざされた。
雨の音だけが、静かに辺りを包み込む。
シャルロットの足元には、追放の際に投げ捨てられた小さなバスケットが転がっていた。中には、彼女が今朝焼き上げたばかりの、素朴な丸いバタークッキーが数枚、布に包まれて残っている。
「……はぁ。クッキー、潰れてなくてよかった……」
シャルロットは小さく息を吐き出すと、泥を払ってバスケットを大切に抱え直した。
悲しみや絶望は、不思議と湧いてこなかった。
幼い頃から「魔法の才能がない無能」「お菓子作りしかできない落ちこぼれ」と罵られ続けてきたシャルロットにとって、あの大嫌いなお屋敷から解放されたのは、むしろスカッとする出来事ですらあったのだ。
ただ、雨は容赦なく全身を濡らしていく。
髪から滴る雨水が目に入り、視界が滲む。シャルロットは濡れた靴を鳴らしながら、ぬかるんだ道をあてもなく歩き始めた。
彼女が向かったのは、子爵領の北側に広がる『黒魔の森』と呼ばれる深い森の境界線だった。
雨に打たれる枯れ木群の奥に鬱蒼とした大樹が広がり、さらに遠くには雲に霞む険しい山脈が連なる絶望の森。
だが、住む場所を失ったシャルロットにとっては、雨を凌げる木陰があるだけでもマシに見えた。
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森の入口近く、巨大な大樹の根元で雨宿りをしていたときだった。
ズズズ……と地鳴りのような重い音が響き、雨の霧の奥から一両の漆黒の馬車が現れた。
紋章は、銀色の双頭の竜。皇国最強と謳われる『ヴァルハイト公爵家』の紋章だ。
だが、その高級馬車は路面のぬかるみに車輪を取られ、斜めに傾いて立ち往生していた。
馬車の傍らには、数人の黒甲冑の騎士たちが焦燥しきった様子でうろたえている。
「い、いかん! 公爵閣下の『龍血の呪い』が……! 発作が始まってしまわれた!」
「くそっ、こんな時にぬかるみにはまるとは! 王都の聖女様からいただいた最高級の聖水も効果がない! このままでは閣下の魔力が暴走し、この森ごと吹き飛んでしまうぞ!」
騎士たちの悲鳴のような叫び声。
シャルロットが恐る恐る大樹の陰から覗き込むと、傾いた馬車の扉が蹴破るように開いた。
中にいたのは、一人の男だった。
濡れた漆黒の髪、切れ上がった鋭い目元。彫刻のように美しい容姿をしたその青年——ヴァルハイト公爵ヴェインは、胸を押さえて苦しそうに喘いでいた。
彼の肌からは、赤黒い不吉な蒸気が立ち上り、周囲の雨粒をジワジワと蒸発させている。
「ぐ……っ! 離れろ、お前たち……! 私の魔力が……抑えきれん……!」
氷のように冷徹と恐れられるヴァルハイト公爵。
彼は代々受け継ぐ『龍血の魔力』の暴走と、戦場で受けた不治の呪いにより、三日三晩一瞬も眠れず、水すら喉を通らない壮絶な激痛に苛まれていたのだった。
激痛と高熱で、ヴェインの意識は薄れかけていた。
(ああ……ここまでか。私はこのまま、魔力に呑み込まれて狂い死ぬのだな……)
死の恐怖と、焼けるような喉の渇き。
その時だった。
ふわり、と雨と泥の不快な臭いを吹き飛ばすような、甘く香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
焦がしたバターの風味と、甘いヴァニラ、そして挽きたての小麦の豊かな香り。
「あの……大丈夫ですか?」
透き通るような女の子の声が降ってきた。
ヴェインが薄っすらと目を開けると、そこには金髪を雨に濡らし、心配そうに自分を見つめる一人の少女が立っていた。
少女は小さな手でバスケットを開けると、布に包まれた素朴な丸い焼き菓子を一枚、震える手で差し出してきた。
「すごく苦しそうだったから……これ、良ければ食べてください。今朝焼いたばかりのバタークッキーなんです。私、これくらいしかできなくて……」
騎士たちが「待て! 閣下に怪しいものを与えるな!」と制止しようとした。
だが、ヴェインは吸い寄せられるように、その小さなクッキーに手を伸ばした。
無造作に口の中へ放り込む。
サクッ。
軽やかな音とともに、香ばしいバターの風味が口いっぱいに広がった。
その瞬間——!!
——ドドドドドォォォォォンッ!!!!
ヴェインの体内で、劇的な「爆発」が起きた。
ただの焼き菓子が喉を通った瞬間、それは純度一〇〇%の『神聖魔力』の濁流へと姿を変えたのだ。
燃えさかるマグマのようだった体内の熱が、一瞬で清涼な聖なる泉へと塗り替えられていく。全身の細胞を苛んでいた『龍血の呪い』が、まるで熱湯をかけられた雪のように悲鳴を上げて消滅していく。
三日三晩、一滴も通らなかった喉に、溢れるような生命力と潤いが満ち渡る。
「ガハッ……!??!?」
ヴェインは目を見開き、自分の手を見つめた。
暴走していた魔力が完全に静まり返っている。
それどころか、何年間も治らなかった不治の呪いが根こそぎ浄化され、疲弊しきっていた魔力回路が、生まれて初めて完璧な調和を取り戻していた。
(な……なんだこれは……!? 今、私は何を口にしたのだ……!?)
ヴェインは混乱しながら、目の前で申し訳なさそうに身を縮めている少女を見つめた。
彼女の手元にあるバスケット。そこに残された、なんてことのない丸いクッキー。
(まさか……『天界の聖菓』……!? 太古の神話において、神々の王のみが食すことを許されたという、あらゆる呪いを打ち砕く伝説の創世秘薬……!?
それを……この少女は、ただの「クッキー」と称して私に与えたというのか……!?)
「あ、あの……お口に合いませんでしたか? すみません、私、クッキーくらいしか作れない無能で……」
シャルロットがおそるおそる尋ねる。
ヴェインの全身に、雷が打たれたような激しい衝撃が走った。
無能……?
この、一粒で国家の存亡を左右する奇跡の聖菓を生み出す至高の存在が……無能……!?
何を言っているのだ!? この少女は、世界を救う歩く『神』ではないか!!
「あ……あぁ……」
「えっ!? どこか痛みますか!?」
次の瞬間。
ガバッ!! とヴェインはシャルロットの細い腰を抱き寄せ、力強く自分の胸の中に抱きしめた。
「ひゃあっ!?」
「君……! 名前は!? 名前は何というのだ!?」
「あ、シャルロット……シャルロット・エヴァーグリーンです……!」
「シャルロット……! ああ、神よ……! 我が救世主、我が至高の宝……!」
ヴェインの瞳には、かつてないほどの熱狂と、狂おしいほどの愛おしさが宿っていた。
冷酷無比と恐れられた氷血公爵の顔はどこへやら、彼は涙ぐむような情熱的な眼差しでシャルロットの濡れた頬を撫で上げた。
「シャルロット、君を私にくれ! 私の全財産、全領地、そしてこの命のすべてを君に捧げる! 私の公爵夫人となって、一生私のそばにいてくれ!!」
「え、えええぇぇぇぇっ!?!?」
シャルロットはあまりの落差に目を白黒させた。
追放されたはずの自分。クッキーしか焼けない無能の自分。
それがなぜか、皇国最高の権力者である公爵様に抱きしめられ、雨の中で熱烈な求婚を受けていた。
騎士たちが呆然と立ち尽くす中、ヴェインはシャルロットを濡らすまいと、自分が着ていた最高級の漆黒のベルベットの外套を脱ぎ、彼女の身体を優しくすっぽりと包み込んだ。
「冷たかったろう、寒かったろう……! さあ、我が城へ行こう! 君を世界で一番幸せにしてみせる!」
「あ、あの……本当に私、ただのクッキーしか焼けないんですけど……!?」
「ふははは! 何を謙遜するのだ愛しい人よ! 君の焼き菓子は、世界を救う奇跡なのだから!!」
シャルロットの困惑をよそに、公爵様のデロデロに甘い、勘違いだらけの溺愛生活が幕を開けたのだった。




