間に合わなかった
北町へ行く渡し場は、朝から人が多かった。
ヴァンは珍しく早起きしていた。
いつもより早く。
リオが起きたときには、もう槍の手入れまで終わっていた。
「楽しみ?」
「普通」
「早起きしてたけど」
「普通」
「服もいつもよりきれい」
ヴァンが睨む。
「黙れ」
リオは笑った。
朝食のうちに、残っていた平衡三秒の返済も済んだ。
これで返済待ちは、昨日の脚七秒だけ。
前借りできるのは三秒。
ヴァンはそれを聞いても何も言わなかった。
今日は、能力を使う予定のない日だった。
*
渡し場の看板には、北町まで一刻半と書いてある。
尾根道なら歩いて三刻。
ヴァンは舟の時刻を確認した。
「これなら余裕」
「尾根じゃなくていい?」
リオが聞く。
「昨日の夜、上流に雨なし。風も弱い」
「船酔いする?」
「しない」
「俺が」
「知らない」
渡し場の親方にも聞いた。
「北まで動いてる?」
「朝便は出るよ」
ヴァンは頷く。
決まった。
舟へ乗る。
川面は静かだった。
リオは船縁へ座る。
ヴァンは槍を膝に置いている。
「頼むならどんな槍?」
リオが聞く。
「まだ頼むって決めてない」
「見るだけ?」
「まず見る」
「値段高い?」
「高い」
「今の槍でいいじゃん」
「お前、宿は寝られればどこでもいいの?」
「よくない」
「同じ」
「同じかな」
「俺には同じ」
ヴァンは槍の柄を撫でる。
今の槍も悪くない。
ずっと使っている。
でも、手の幅より少し太い。
穂先も、自分で削り直した跡がある。
ヴァンが何か新しいものを欲しがる話を、リオはあまり聞いたことがなかった。
だから今日は、少し面白かった。
*
舟が止まったのは、出発して半刻ほどしたころだった。
最初は流れが遅くなっただけかと思った。
船頭が櫂を止める。
前の舟も止まっている。
岸から鐘が鳴った。
二回。
船頭が舌打ちした。
「上の水門か」
ヴァンが立つ。
「何?」
「止水の鐘。たぶん門に何か噛んだ」
しばらくして、小舟が下ってきた。
役人が叫ぶ。
「上流門、流木詰まり! 除去まで航行停止!」
舟の中で声が上がる。
「どれくらいだ!」
「分からん!」
「北まで歩けるか!」
「ここからなら東岸へ上がって二刻半!」
ヴァンが時間を見る。
「間に合わない」
小さく言った。
リオも計算する。
戻る。
尾根道。
二刻半。
槍鍛冶は昼に出る。
無理だ。
「先に俺だけ行く?」
リオが聞く。
ヴァンを見る。
「三秒だろ」
「うん」
「何ができる」
それは責める言い方ではなかった。
ただの確認だった。
リオも岸を見る。
三秒だけ脚を増やしても、二刻半は消えない。
荷物を置いて走っても同じだ。
先に着いて「待って」と言える距離でもない。
「できない」
「だよな」
ヴァンは座り直した。
少しだけ、槍を握る手が強い。
リオは言いかける。
「尾根にしてれば――」
ヴァンが先に言った。
「尾根にしてれば間に合った」
リオは黙る。
「でも、今朝の情報なら俺はまた舟を選ぶ」
「うん」
「雨もなかった。親方も動くって言った」
「うん」
「だから、失敗したけど、間違ったとは思ってない」
リオは川を見る。
流れは穏やかだ。
昨日、七秒使わなければ。
そう考えることもできる。
十秒空いていれば、何か。
いや。
二刻半を数秒で埋めることはできない。
仮にできたとしても、昨日の塔で見た空が消えるわけじゃない。
「俺も昨日の七秒、後悔してない」
ヴァンがこちらを見る。
「聞いてない」
「今言いたかった」
「そう」
それだけだった。
*
結局、北町へ着いたのは昼をかなり過ぎてからだった。
槍鍛冶のエルダは、もういなかった。
広場の端に、小さな露店跡だけが残っている。
鍛冶仕事に使ったらしい鉄台。
炭の粉。
店を手伝っていた少年が片づけをしていた。
ヴァンが聞く。
「エルダは?」
「南へ出ました」
「次どこ?」
「知らないです。たぶん冬前には西の方」
ヴァンは頷いた。
「分かった。ありがとう」
それだけ。
リオは横から覗く。
「伝言とか」
「いい」
「注文書だけでも」
「実物見てから頼みたい」
「次いつ会えるか分からないよ」
ヴァンが槍を肩へ掛ける。
「分からないな」
「それでいいの」
「よくはない」
少し間を置く。
「でも、いないんだから仕方ない」
リオは何も言わなかった。
広場を出る。
*
帰りは尾根道にした。
「帰りこそ舟でよくない?」
リオが言う。
「歩きたい」
「機嫌悪い?」
「ちょっと」
「俺に?」
「違う」
「舟に?」
「近い」
リオは笑う。
少し先へ行く。
ヴァンが後ろから言う。
「笑うな」
「ごめん」
「ごめん顔じゃない」
「でも、また会えるだろ」
「たぶん」
「そのとき買う?」
「見てよかったら」
「高いんでしょ」
「貯める」
「カードやめる?」
ヴァンは黙った。
リオが振り返る。
「そこは即答じゃないんだ」
「全部はやめない」
「槍代、減るじゃん」
「勝てば増える」
「負けたら?」
ヴァンは一瞬だけ黙った。
それから、槍の石突きでリオの靴を軽く突いた。
「歩け」
リオは笑って前を向いた。
間に合わなかった。
それはそのままだった。
でも、道までなくなったわけではない。




