開けるところまで
北町から戻った翌日。
昼を過ぎたころ、リオは宿の裏で靴紐を結び直していた。
ヴァンは隣で槍の穂先を研いでいる。
「昨日の七秒、まだ?」
ヴァンが聞く。
「まだ」
答えた直後だった。
脚から力が消えた。
リオはその場へ座る。
「来た」
「七?」
「七」
未来から前借りした七秒。
昨日、信号塔へ駆け上がるために使ったぶんだ。
座っているので、何も困らない。
ヴァンは穂先を研ぎ続ける。
一秒。
二秒。
三秒。
リオは空を見る。
今日は風箔虫はいない。
普通の青空だ。
四秒。
五秒。
六秒。
七秒。
脚に力が戻る。
リオは立った。
「終わり」
ヴァンが頷く。
「これで?」
「返済待ちなし」
「十秒全部?」
「全部」
「珍しいな」
「何が」
「空っぽ」
リオは笑った。
「借金がないほうを空っぽって言う?」
「お前の場合は」
リオは笑った。
そのあと二人は昼を食べ、ヴァンはカード卓を覗き、リオは市場で新しい巻き縄を比べた。
何も起きない時間が、三刻ほど過ぎた。
夕方。
宿へ戻る途中で、町の鐘が鳴った。
一回。
二回。
三回。
間を置かず、さらに続く。
ヴァンが足を止める。
「火事」
*
煙は南の倉庫街から上がっていた。
リオとヴァンが着いたときには、通りの半分が人で埋まっている。
消防組の桶列。
荷を運び出す商人。
叫ぶ役人。
泣いている子ども。
ただし、人の避難そのものは進んでいた。
「中に人は?」
ヴァンが近くの警備員へ聞く。
「確認中! 今のところ全員出てる!」
「じゃあ何手伝う!」
「裏路地が死んでる! 南側から回れ!」
その声に重なるように、
「リオ!」
セドが走ってきた。
上着の片袖が濡れている。
「いると思った」
「何が燃えてる」
「三棟。まず二棟がまずい」
「人?」
「人は出てる」
セドは左を指す。
白い石造りの倉庫。
窓から煙。
「薬の保管庫」
次に右。
木と煉瓦の建物。
「商業記録庫。証文、貸借、倉庫権。小さい商人ほど原本しかない」
ヴァンが聞く。
「消防は?」
「表側。裏の共用路が使えれば運び出せる人数が増える」
「使えない?」
「門が歪んだ」
四人で裏へ回る。
共用路の鉄門が途中までしか開いていない。
熱で枠が曲がっている。
中では倉庫番が数人、棒を差し込んで押していた。
動かない。
薬庫側から女が叫ぶ。
「冷却薬から出したい!」
反対では記録庫の男が、
「債権箱が先だ! 焼けたら証明できない!」
と怒鳴っている。
セドがリオを見る。
「両方、何とかできるか」
リオは門を見る。
その向こう。
左右へ分かれる裏路地。
門さえ開けば、人は入れる。
「開けたあと、どっち先?」
セドが止まる。
薬庫の女が言う。
「薬!」
記録庫の男が言う。
「記録!」
「セドは?」
リオが聞く。
「俺に決めさせるな」
言ってから、セド自身が嫌そうな顔をした。
リオは少しだけ笑う。
「じゃあ、そこまでは決めない」
「何」
「門を開ける」
ヴァンがもう鉄門を見ていた。
「上の蝶番は生きてる。下が歪んで噛んでる」
倉庫番が言う。
「輪を回せば開くはずなんだ。でも重くて」
「支える」
ヴァンが槍を門の下へ差し込む。
「棒もう二本!」
周囲の男たちが持ってくる。
三点で門を持ち上げる。
少しだけ隙間が増える。
「リオ!」
「分かってる」
輪。
古い鉄の開閉輪。
普通なら二人で回すもの。
今は熱で固い。
リオは両手を掛けた。
「腕、五」
未来の五秒を重ねる。
押す。
動かない。
もう一度。
鉄が鳴る。
ヴァンが下から叫ぶ。
「そのまま!」
一秒。
二秒。
輪が回る。
三秒。
門が軋む。
四秒。
棒を押していた男たちが声を上げる。
五秒。
鉄門が、人一人通れる幅まで開いた。
上乗せが消える。
「固定!」
ヴァンが言う。
倉庫番が鎖を掛ける。
門は止まった。
リオは手を離す。
「開いた!」
「入るぞ!」
人が動く。
薬庫へ。
記録庫へ。
セドがリオを見る。
「どっち」
「知らない」
「は?」
「開けた。何持つかは中の人に聞け」
リオは薬庫の女へ叫ぶ。
「何から!」
「冷却薬! 赤い箱!」
記録庫の男へ。
「そっちは!」
「北棚の権利箱! 小商いの分から!」
ヴァンがすぐ人を分けた。
「薬庫四人! 記録庫四人! 残りは搬出路空けろ!」
「俺は?」
リオが聞く。
「薬庫側。軽い箱から外へ回せ」
「了解!」
*
全部は無理だった。
薬庫の奥で棚が一つ落ちた。
誰も取りに戻らなかった。
記録庫では、南棚へ火が回った。
箱を二つ残して撤退した。
消防組が裏路地まで入れるようになり、火の広がりは止まった。
日が落ちるころ。
通りには、救い出された箱が並んでいた。
薬。
帳簿。
証文。
焦げた木片。
濡れた紙。
薬庫の女が箱を数えている。
「冷却薬、全部ある」
そのあと、小さく言う。
「解熱の乾薬、三箱焼けた」
記録庫の男も紙束を確認する。
「北棚は出た」
「南は?」
誰かが聞く。
男は首を振る。
「半分」
セドが立っていた。
煤で顔が黒い。
「両方、何とかなったな」
リオは並んだ箱を見る。
「全部じゃない」
「でも両方残った」
「うん」
嬉しくないわけではない。
門が開いた。
選択肢が増えた。
そのおかげで、薬も記録もかなり残った。
でも、焼けたものもある。
それは、なくなったままだ。
記録庫の男が近づいてきた。
「南棚、もっと人回せなかったのか」
薬庫の女が振り返る。
「こっちだって三箱失ってる」
「薬はまた作れるだろ」
「記録だって写しが――」
「ないものもある!」
声が上がる。
リオは止めなかった。
ヴァンも止めない。
セドが二人の間へ入ろうとして、やめた。
マーレでも呼びたい、とリオは少し思った。
でも、これはたぶん彼らの話だ。
*
宿へ戻る途中。
ヴァンが言った。
「今日は両方取れなかったな」
リオは歩きながら考える。
「入口は取った」
「何それ」
「中に入れる人数、増やした」
「それはそう」
「何を持って出るかは、あの人たちが決めた」
「うん」
「だから俺たちが取ったのは入口」
ヴァンは少し笑った。
「そういう数え方すると思った」
リオも笑う。
少し歩く。
「でも、焼けたな」
「焼けた」
「もっとできたかな」
ヴァンはすぐには答えなかった。
「できたかも」
「そっか」
「でも、何を減らして増やすかは分からない」
「うん」
それなら、たぶん今日のところはそこまでだった。
後ろでは、まだ消防の鐘が鳴っている。
リオは振り返らなかった。




