七秒の夕焼け
その日は、仕事を入れなかった。
昼を過ぎるまで、何もしなかった。
洗濯。
装備の手入れ。
市場で果物。
ヴァンは宿の前に出ていたカード卓へ混ざった。
リオは横で見ていたが、途中で飽きた。
「それ、楽しい?」
「今勝ってるから」
「負けたら?」
「取り返すまで楽しくない」
「結局やるんじゃん」
ヴァンは札を一枚伏せた。
「お前に言われたくない」
リオは笑った。
昨日、崖工房で借りた腕力三秒の返済は、朝の洗濯中にもう済んでいた。
残っている返済待ちは平衡三秒だけ。
前借りできるのは七秒。
でも今日は仕事をしない。
少なくとも、そのつもりだった。
*
夕方前。
市場の外れで、銀色の薄い羽が一枚、リオの鼻先を横切った。
虫だった。
紙片みたいに薄い。
風に乗ったまま、ほとんど羽ばたかない。
「風箔虫だ」
果物屋の女が言った。
リオは上を見る。
もう一匹。
その向こうにも。
「こんな町中にいるんだ」
「今日だけね」
「今日だけ?」
「採石場の熱が落ちる時期に、東斜面から上がってくるんだよ。夕日が当たるときれいだよ」
女は籠の葡萄を並べ直す。
「信号塔から見ると、空が銀色になる」
リオは東を見る。
町の外れに、細い塔が立っている。
古い採石場の上。
「何時まで見える?」
「日が崖に落ちるまで」
リオは空を見る。
太陽はもう低い。
「今から?」
「普通に歩いたら間に合わないね」
ヴァンが、いつの間にか後ろにいた。
「もう行く気だろ」
「何で分かる」
「塔ばっか見てる」
「行かない?」
ヴァンは風箔虫を一匹目で追う。
「俺はここからでも見える」
「塔の上だと空が銀色だって」
「聞いてた」
「じゃあ」
「俺、さっき金増えたから飯食う」
「カード?」
「カード」
ヴァンは小銭袋を振った。
リオは塔を見る。
「先行く」
「どうぞ」
「来ないの?」
「飯までには戻れ」
「それ何時」
「お前が腹減る前」
「難しいな」
「じゃあ日が落ちたら戻れ」
それなら分かる。
リオは走り出した。
*
信号塔までの道は、最後だけひどかった。
昔の採石場へ上がる階段。
長い。
折り返しても折り返しても、まだ上がある。
途中ですれ違った男が言った。
「今からか?」
「上、まだ見える?」
「見えるけど、急げ」
太陽の下端が、もう西の崖へ触れている。
リオは足を止めた。
息を整える。
返済待ち三秒。
空き七秒。
七秒借りれば、遅くても三日以内のどこかで、七秒ぶん脚が使えなくなる。
今日使わなくてもいい。
明日まで残してもいい。
別の仕事が来るかもしれない。
何か事故があるかもしれない。
塔の上でしか見えないものは、たぶん今日しかない。
「脚、七」
未来の七秒を、いまへ重ねた。
一段。
二段。
三段。
脚が軽いわけではない。
むしろ、いつもの踏み込みの上に、もう一回ぶん踏める感じがする。
坂が急になる。
走る。
折り返す。
まだ走る。
息は苦しい。
肺まで未来から借りているわけじゃない。
でも脚は止まらない。
五秒。
六秒。
最後の石段。
七秒。
上乗せが消える。
リオは、そのまま塔の柵へ手をついた。
息を吸う。
吐く。
目の前の空が、動いた。
銀色だった。
何百。
何千。
薄い羽が夕日を拾って、採石場の上昇気流を回っている。
一匹一匹は小さい。
でも群れになると、空そのものが剥がれて舞っているように見えた。
風向きが変わる。
銀が白になる。
白が、一瞬だけ赤くなる。
音はほとんどない。
リオは何も言わなかった。
言う相手もいなかった。
それでよかった。
数分もしないうちに、太陽が崖の向こうへ沈む。
銀色が消える。
風箔虫はただの黒い点になった。
下りの階段は、普通の足で降りた。
*
宿へ戻ると、ヴァンはもう食堂にいた。
皿が二つ。
「遅い」
「日が落ちたら戻った」
「塔から下りる時間考えろ」
リオは椅子へ座る。
「すごかった」
「そりゃよかった」
「空が全部動く」
「下からもまあまあ見えた」
「上のほうが絶対いい」
「そう」
ヴァンはパンをちぎった。
本当に悔しそうではない。
リオも、別に勝った気はしなかった。
ただ、見たかった。
見られた。
それで十分だった。
「何秒使った?」
ヴァンが聞く。
「七」
パンをちぎる手が止まった。
「七?」
「七」
「風箔虫に?」
「風箔虫に」
ヴァンはしばらくリオを見る。
「満足?」
「うん」
「ならいいんじゃない」
それだけだった。
少しして、ヴァンが思い出したように言う。
「明日、北町行くぞ」
「仕事?」
「違う」
ヴァンが鞘に入った槍を顎で示す。
「槍鍛冶のエルダが来てるらしい」
その名前はリオも知っていた。
ヴァンが前から何度か話していた職人だ。
旅をしながら注文を取る。
同じ町に長くいない。
「頼むの?」
「見てから」
「お金ある?」
「ある」
「カードで増えた?」
「減る前にやめた」
「偉い」
「お前に言われたくない」
リオは笑った。
「何時?」
「昼には出るらしい。朝一番の渡し舟なら余裕」
リオは頷いた。
明日のことは、明日考えればいい。
今夜のところは、七秒使ってよかった。




