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未来の自分から能力を前借りする俺は、どっちも諦めない  作者: 綴木 灯
選ばない依頼

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8/25

七秒の夕焼け

その日は、仕事を入れなかった。


昼を過ぎるまで、何もしなかった。


洗濯。


装備の手入れ。


市場で果物。


ヴァンは宿の前に出ていたカード卓へ混ざった。


リオは横で見ていたが、途中で飽きた。


「それ、楽しい?」


「今勝ってるから」


「負けたら?」


「取り返すまで楽しくない」


「結局やるんじゃん」


ヴァンは札を一枚伏せた。


「お前に言われたくない」


リオは笑った。


昨日、崖工房で借りた腕力三秒の返済は、朝の洗濯中にもう済んでいた。


残っている返済待ちは平衡三秒だけ。


前借りできるのは七秒。


でも今日は仕事をしない。


少なくとも、そのつもりだった。


*


夕方前。


市場の外れで、銀色の薄い羽が一枚、リオの鼻先を横切った。


虫だった。


紙片みたいに薄い。


風に乗ったまま、ほとんど羽ばたかない。


「風箔虫だ」


果物屋の女が言った。


リオは上を見る。


もう一匹。


その向こうにも。


「こんな町中にいるんだ」


「今日だけね」


「今日だけ?」


「採石場の熱が落ちる時期に、東斜面から上がってくるんだよ。夕日が当たるときれいだよ」


女は籠の葡萄を並べ直す。


「信号塔から見ると、空が銀色になる」


リオは東を見る。


町の外れに、細い塔が立っている。


古い採石場の上。


「何時まで見える?」


「日が崖に落ちるまで」


リオは空を見る。


太陽はもう低い。


「今から?」


「普通に歩いたら間に合わないね」


ヴァンが、いつの間にか後ろにいた。


「もう行く気だろ」


「何で分かる」


「塔ばっか見てる」


「行かない?」


ヴァンは風箔虫を一匹目で追う。


「俺はここからでも見える」


「塔の上だと空が銀色だって」


「聞いてた」


「じゃあ」


「俺、さっき金増えたから飯食う」


「カード?」


「カード」


ヴァンは小銭袋を振った。


リオは塔を見る。


「先行く」


「どうぞ」


「来ないの?」


「飯までには戻れ」


「それ何時」


「お前が腹減る前」


「難しいな」


「じゃあ日が落ちたら戻れ」


それなら分かる。


リオは走り出した。


*


信号塔までの道は、最後だけひどかった。


昔の採石場へ上がる階段。


長い。


折り返しても折り返しても、まだ上がある。


途中ですれ違った男が言った。


「今からか?」


「上、まだ見える?」


「見えるけど、急げ」


太陽の下端が、もう西の崖へ触れている。


リオは足を止めた。


息を整える。


返済待ち三秒。


空き七秒。


七秒借りれば、遅くても三日以内のどこかで、七秒ぶん脚が使えなくなる。


今日使わなくてもいい。


明日まで残してもいい。


別の仕事が来るかもしれない。


何か事故があるかもしれない。


塔の上でしか見えないものは、たぶん今日しかない。


「脚、七」


未来の七秒を、いまへ重ねた。


一段。


二段。


三段。


脚が軽いわけではない。


むしろ、いつもの踏み込みの上に、もう一回ぶん踏める感じがする。


坂が急になる。


走る。


折り返す。


まだ走る。


息は苦しい。


肺まで未来から借りているわけじゃない。


でも脚は止まらない。


五秒。


六秒。


最後の石段。


七秒。


上乗せが消える。


リオは、そのまま塔の柵へ手をついた。


息を吸う。


吐く。


目の前の空が、動いた。


銀色だった。


何百。


何千。


薄い羽が夕日を拾って、採石場の上昇気流を回っている。


一匹一匹は小さい。


でも群れになると、空そのものが剥がれて舞っているように見えた。


風向きが変わる。


銀が白になる。


白が、一瞬だけ赤くなる。


音はほとんどない。


リオは何も言わなかった。


言う相手もいなかった。


それでよかった。


数分もしないうちに、太陽が崖の向こうへ沈む。


銀色が消える。


風箔虫はただの黒い点になった。


下りの階段は、普通の足で降りた。


*


宿へ戻ると、ヴァンはもう食堂にいた。


皿が二つ。


「遅い」


「日が落ちたら戻った」


「塔から下りる時間考えろ」


リオは椅子へ座る。


「すごかった」


「そりゃよかった」


「空が全部動く」


「下からもまあまあ見えた」


「上のほうが絶対いい」


「そう」


ヴァンはパンをちぎった。


本当に悔しそうではない。


リオも、別に勝った気はしなかった。


ただ、見たかった。


見られた。


それで十分だった。


「何秒使った?」


ヴァンが聞く。


「七」


パンをちぎる手が止まった。


「七?」


「七」


「風箔虫に?」


「風箔虫に」


ヴァンはしばらくリオを見る。


「満足?」


「うん」


「ならいいんじゃない」


それだけだった。


少しして、ヴァンが思い出したように言う。


「明日、北町行くぞ」


「仕事?」


「違う」


ヴァンが鞘に入った槍を顎で示す。


「槍鍛冶のエルダが来てるらしい」


その名前はリオも知っていた。


ヴァンが前から何度か話していた職人だ。


旅をしながら注文を取る。


同じ町に長くいない。


「頼むの?」


「見てから」


「お金ある?」


「ある」


「カードで増えた?」


「減る前にやめた」


「偉い」


「お前に言われたくない」


リオは笑った。


「何時?」


「昼には出るらしい。朝一番の渡し舟なら余裕」


リオは頷いた。


明日のことは、明日考えればいい。


今夜のところは、七秒使ってよかった。

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