二つの証拠
作業は、その日のうちに始めた。
「明日に回す理由がない」
ヴァンが言った。
マーレも同意した。
「建物は今日より明日のほうが安全になることはない」
ガロとレナだけが、少し不満そうだった。
二人とも中へ入りたがった。
マーレが止めた。
「依頼人は外」
「自分のものだぞ」
ガロが言う。
「まだ決まってません」
レナがすぐ返す。
「だから二人とも外」
マーレは淡々としていた。
リオは少し好きになった。
*
最初は帳簿からだった。
古い荷揚げ籠を一階まで下ろす。
巻き上げ機は、ヴァンが担当した。
マーレが籠へ乗る。
「本当に行く?」
リオが聞く。
「監督官だから」
「監督って見る人じゃないの」
「危険箇所を確認した人間が一番場所を知ってる」
ヴァンが巻き上げ機の柄を握った。
「下ろすぞ」
籠が軋む。
鎖が伸びる。
ゆっくり。
途中で一度引っかかった。
ヴァンが止める。
リオが横から鎖を見る。
「左の案内輪」
「触るな」
マーレが籠の中から言った。
「まだ何もしてない」
「今からする顔してる」
リオは手を引いた。
籠は少し揺れて、また下がった。
一階。
マーレが事務室へ入る。
少しして、木箱を抱えて戻ってきた。
帳簿そのものではなく、帳簿を入れた防湿箱だった。
「これ?」
「封は古いけど残ってる」
マーレが言う。
上からレナの声が飛ぶ。
「開けないで!」
「開けません!」
マーレが叫び返す。
ヴァンがリオを見る。
「上げる」
リオは頷く。
帳簿箱とマーレを乗せた籠が上がる。
今度は引っかからなかった。
二階の少し下。
そこでヴァンが止めた。
「次、金型」
問題はここからだった。
*
原型の金型は、二階奥の棚にあった。
大きさは両腕で抱えられる程度。
でも、青銅の塊だ。
一人で持つには重い。
棚までの床は割れている。
普通に歩けるのはマーレのいる側まで。
そこから先は、古い整備梁が一本だけ残っていた。
リオは梁を叩く。
「俺なら行ける」
「行くだけならな」
ヴァンが言う。
「持って戻るのは無理」
「籠を寄せる」
昨日考えた通りだった。
荷揚げ籠の上部には、横移動用の小さな案内車がある。
昔は二階の荷をそのまま籠へ積んだらしい。
今でも横へ一間ほど動く。
ただし、制動歯が欠けていた。
マーレが言う。
「横へ出したら、止まりきらないかもしれない」
「戻る?」
「それも怪しい」
ヴァンはしばらく籠と棚を見た。
「順番変える」
「どうする」
「リオが先に梁を渡る。金型を棚から床際まで出す」
「うん」
「戻る」
「うん」
「そのあと籠を横へ出す」
リオは首を傾げる。
「俺、向こうにいたほうが積みやすくない?」
「籠が流れたら、お前まで向こうに残る」
「止めればいい」
「止まらなかったら」
リオは黙った。
ヴァンは言う。
「戻ってから止めろ」
それなら、失敗しても全員こちら側にいる。
金型だけが残る。
リオは少し嫌だった。
でも、筋は通っている。
「分かった」
*
梁は細かった。
借りなくても渡れる。
風が抜ける。
下を見ると、一階の床が遠い。
リオは両腕を少し広げて進んだ。
向こうへ着く。
金型の棚。
鉄箱を開ける。
中に、黒ずんだ青銅の塊があった。
片面に文字のような刻印。
読めない。
重い。
リオは床を滑らせるようにして、棚から梁の近くまで寄せた。
「戻る!」
「急ぐな!」
ヴァンが言う。
急いでいない。
たぶん。
梁を戻る。
全員が同じ側へ揃う。
ヴァンが籠の横移動鎖を引く。
籠がゆっくり棚側へ動いた。
半分。
あと少し。
がん、と音がした。
制動歯が一つ飛んだ。
籠が棚側へ流れる。
「止めろ!」
マーレが叫ぶ。
ヴァンが巻き上げ機を逆へ回す。
でも横移動には効かない。
リオは、梁の根元にある制動棒を見た。
棒の先。
欠けた歯車。
その奥に、まだ使える爪が一つある。
手で押し込めば、噛む。
位置が悪い。
床の端から身を乗り出さないと届かない。
前借りは、返済待ちと合わせて十秒まで。
今、空いているのは六秒。
「腕力、三」
ヴァンが振り返る。
「平衡、三」
「何する!」
「止める!」
未来の三秒ずつを、今へ重ねる。
リオは梁の付け根へ片足を置いた。
上半身を外へ出す。
床がなくなる。
平衡の上乗せで、腰を残す。
右手を伸ばす。
制動棒をつかむ。
固い。
腕力の上乗せで、制動棒を押し込む。
一秒。
動かない。
二秒。
金属が軋む。
三秒。
爪が落ちた。
がちん。
籠が止まる。
上乗せが消える。
リオはすぐに床へ戻った。
「止まった!」
「見れば分かる!」
ヴァンが怒鳴る。
でも手はもう次へ動いている。
「マーレ、籠!」
「乗る!」
マーレが籠へ入る。
ヴァンが位置を固定する。
籠は金型のすぐ横まで来ている。
マーレが金型へ縄を掛ける。
リオも梁のこちら側から引く。
ヴァンが支える。
一度。
動かない。
二度。
滑った。
三人で引く。
金型が籠の床へ落ちた。
どん、と重い音。
「入った!」
マーレが叫ぶ。
ヴァンはすぐ言う。
「戻す。今度はゆっくり」
横移動鎖を逆へ。
籠が戻る。
制動爪は、さっき噛ませたままだ。
少しずつ。
こちら側。
着いた。
帳簿箱。
金型。
マーレ。
全部ある。
「出るぞ」
ヴァンが言った。
リオは奥を見る。
まだ棚がある。
道具もある。
「他にも――」
「依頼は二つ」
ヴァンが言う。
一瞬だけ迷った。
でも、床がまた軋んだ。
「了解」
三人で外へ出た。
*
ガロは金型を見るなりしゃがみ込んだ。
「ほら」
黒ずんだ面を布で拭く。
刻印が出てくる。
ガロの家の印らしい。
「うちの印だ」
「貸与印かもしれない」
レナが言う。
「負け惜しみか」
「帳簿を見れば分かる」
マーレが二人の間へ入る。
「ここで開封します。二人とも見てください」
防湿箱の封を切る。
中の帳簿は、思ったよりきれいだった。
何冊かある。
レナが目的の年を探す。
指が止まる。
「ここ」
ガロも覗く。
リオとヴァンは少し離れていた。
「何て?」
リオが聞く。
レナは答えない。
ガロも黙る。
マーレが読んだ。
「原型製作費。材料、ガロ工房。設計料、レナ商会。支払い、折半」
ガロが顔を上げる。
「折半?」
レナも眉を寄せる。
マーレは次の行を見る。
「完成原型は崖工房預かり。両家合意なく持ち出し不可」
沈黙。
リオは金型を見る。
次に帳簿。
どちらも無事だ。
ガロが言う。
「でも印はうちだ」
レナが返す。
「費用は半分出してる」
「材料は全部うちだ」
「設計料はこっち」
二人の声がまた上がる。
セドが額を押さえた。
「外でやってくれ」
「ここ外だ」
「もっと外」
ヴァンがリオを見る。
「どうした」
「いや」
「両方取れたぞ」
「うん」
「嬉しくない?」
リオはもう一度、金型と帳簿を見る。
「嬉しいよ」
本当にそうだった。
なくならなかった。
二つとも。
ただ、依頼人たちは、昨日より困った顔をしている。
「俺たちの仕事、ここまで?」
ヴァンがセドへ聞く。
「契約では」
「じゃあここまで」
ガロが振り返る。
「待て。どっちの証拠が強いと思う?」
ヴァンは即答した。
「知らない」
レナがリオを見る。
「あなたは?」
リオは少し考えた。
金型。
帳簿。
刻印。
折半。
どちらか一つしかなければ、もっと簡単だったのかもしれない。
「二つとも残ってよかったとは思う」
ガロが不満そうな顔をする。
「答えになってない」
「その質問の仕事、受けてないから」
セドが吹き出した。
ヴァンも少し笑った。
*
夜。
リオは食堂の椅子に座ったまま、急に両脚の力が抜けるのを感じた。
「二」
向かいのヴァンが言う。
「言う前に分かった?」
「昨日の橋のやつだろ」
「正解」
二秒。
戻る。
リオは足を組み直した。
返済は、それだけだった。
ヴァンがパンをちぎる。
「今日、借りた分は?」
「まだ」
「満杯?」
「今ので二秒空いた」
「じゃあ二秒だけ」
「そう」
ヴァンは頷いた。
「明日は休む?」
リオは答えようとして、やめた。
セドが食堂の入口に立っていたからだ。
帳面を持っている。
ヴァンも気づく。
二人で見る。
セドは少し考えてから、帳面を閉じた。
「今日はやめとく」
「仕事?」
リオが聞く。
「仕事」
「何」
「明日でいい」
セドは手を振って帰っていった。
ヴァンが言う。
「珍しいな」
リオも思った。
でも、悪くなかった。




