選ばない依頼
崖工房は、町の東壁に張りつくように建っていた。
下は切り立った採石場。
上は古い街道。
その間へ、石と鉄と木を無理やり押し込んだような工房だった。
「昔はここで鐘とか橋金具とか作ってた」
案内役の役人――マーレが言う。
「今は?」
リオが聞く。
「今は、落ちたら死ぬ建物」
「分かりやすい」
「今日の夕方、入口を石で塞ぐ」
マーレは先に歩く。
昨日の依頼人二人も来ていた。
男がガロ。
女がレナ。
どちらも金属職人の家の代表らしい。
工房の所有権をめぐって揉めている。
正確には、もう工房そのものには価値がない。
崩れかけているし、役所も閉鎖を決めている。
問題は、中に残っている二つだった。
「原型の金型」
ガロが言う。
「親方が最初に使ったやつだ。うちの刻印が入ってる」
「それがあれば、工房の技法があなたの家のものだと?」
ヴァンが聞く。
「少なくとも証拠にはなる」
レナが鼻を鳴らす。
「刻印だけなら、作った工房の印かもしれない」
「だから帳簿だ」
今度はレナが言う。
「注文元、材料代、親方への支払い。全部残ってる。うちが金を出してた記録があるはず」
ガロが言い返す。
「“はず”だろ」
「金型だってまだ見てないでしょう」
二人の声が高くなる。
セドが間へ入った。
「その話は外で」
「大事な話だ」
「大事だから、崩れる建物の前で始めるな」
ガロが黙る。
レナも黙る。
リオは少し感心した。
セドは、止めるときは止める。
ヴァンが二人を見る。
「もう一回だけ聞く」
ガロとレナがこちらを向く。
「両方取れない場合、優先するのはどっち」
「金型」
ガロが即答する。
「帳簿」
レナも同時に答える。
ヴァンはセドを見る。
「依頼人、一人じゃないな」
「見れば分かる」
「契約としては?」
セドが紙を出す。
「“可能な限り両方を回収”」
「可能じゃなかったら」
セドが二人を見る。
ガロは腕を組んだ。
レナは目を逸らした。
答えない。
リオは少し笑いそうになった。
ヴァンに見られて、口を閉じる。
「それを決めないために、俺たちに頼んだ?」
リオが聞く。
レナが先に言った。
「二つとも残せるって聞いた」
ガロも続ける。
「そういう仕事をするんだろ」
ヴァンは何も言わなかった。
リオは工房を見る。
高い窓。
外壁を這う鉄梯子。
荷を上げ下げした古い滑車。
面白そうだった。
「中、見よう」
ヴァンがため息をつく。
「そう言うと思った」
*
中は、外から見るより広かった。
中央に縦穴がある。
昔は水車と荷揚げ機をつないでいたらしい。
太い鎖が天井から垂れ、途中で止まった鉄籠が、二階と一階の間にぶら下がっている。
床には黒い粉。
壁には溶けた金属が流れた跡。
窓の隙間から風が入るたび、古い鎖が鳴った。
「金型は上」
ガロが指す。
二階奥。
崩れかけた棚の向こうに、低い鉄箱がある。
「帳簿は下」
レナが反対側を指す。
縦穴の下、一階奥の事務室。
階段は途中で落ちていた。
「二手に分かれれば?」
リオが言う。
マーレが首を振る。
「上の床が割れてる。下も天井が落ちかけてる。一人で動かせる範囲じゃない」
ヴァンは縦穴を覗く。
「鉄籠、使える?」
マーレが眉を寄せる。
「荷揚げ機?」
「これ」
「動けばね」
リオが鎖を引く。
重い。
少しだけ動いた。
「動く」
「壊すなよ」
マーレがすぐ言う。
「まだ壊してない」
「“まだ”が怖い」
リオは笑った。
ヴァンは鉄籠の位置を見る。
次に、天井の滑車。
壁際の手動巻き上げ機。
「上から籠を下ろす」
「帳簿を取る?」
リオが聞く。
「先に下を片づける」
ガロが不満そうに言う。
「金型が先だ」
ヴァンが見る。
「優先じゃない。順番」
「何が違う」
「下から人を出せなくなったら終わる」
ヴァンは床を槍の石突きで叩く。
「上は最後でも外へ抜けられる。下は縦穴しかない」
マーレが頷いた。
「それは合ってる」
ガロはまだ不満そうだったが、黙った。
リオは縦穴の向こうを見る。
一階へ降りる別の細い点検梯子が残っている。
ただし、途中で壁から外れかけていた。
「俺、下見てくる」
「借りるなよ」
ヴァンが言う。
「まだ借りない」
リオは点検梯子へ足をかけた。
*
下の事務室は、半分土砂に埋まっていた。
鉄扉は開く。
帳簿棚も残っている。
問題は、戻りだった。
リオが上へ戻るとき、点検梯子の留め金が一つ抜けた。
がん、と鉄が鳴る。
梯子全体が外へ傾く。
「リオ!」
上からヴァンの声。
リオは壁の出っ張りへ片手を掛ける。
足場を探す。
借りない。
今ならまだ、自分で戻れる。
「大丈夫!」
「本当に?」
「今は!」
「今って言うな!」
マーレが口元を押さえている。
リオは慎重に上がった。
最後の一段でヴァンに腕をつかまれる。
「使えばよかったのに」
ヴァンが言う。
「まだ必要になる」
「珍しいな」
「俺だって考えるよ」
「知ってる」
少し腹が立つ。
でも、残しておいたほうがいい。
上には金型がある。
下には帳簿がある。
そして、動くかもしれない鉄籠がある。
ヴァンは巻き上げ機の歯車を確認していた。
「籠を下へ。帳簿を乗せる。上げる。そのあと上の金型」
「二回動かす?」
「一回で済ませる方法ある?」
リオは見る。
上の棚。
鉄籠。
縦穴。
吊り鎖。
横へ伸びた古い整備レール。
「……あるかも」
ヴァンが目を細める。
「また何か考えたな」
「何が」
「面倒なやつ」
リオは整備レールを指した。
「籠、上まで戻さなくていい」
マーレが見る。
「どういうこと」
「途中で横へ振る」
「振る?」
「上の金型を、棚から籠へ落とせる位置まで」
マーレの顔が険しくなる。
「それ、籠の制動が生きてればの話」
ヴァンが巻き上げ機を見る。
「制動、弱い?」
「止まる。でも信用はしない」
リオは笑った。
「じゃあ、信用しない前提で組もう」
ヴァンは少し考えた。
「明日じゃ遅い。今日やる」
「役所は?」
マーレが言う。
「私はここにいる。そのための監督」
ガロとレナが、外から中を覗いていた。
二人とも不安そうだった。
リオは言う。
「両方持って出る方法、たぶんある」
ガロがすぐ聞く。
「本当に?」
「たぶん」
ヴァンが横から言う。
「その“たぶん”はまだ契約に書くな」
セドが遠くで笑った。




