空いた箱から
朝、リオは靴紐を結んでいる途中で、体が少しだけ傾いた。
「あ」
壁へ肩をつく。
昨日より前。
最初の塔で、補助索を取りに外梁へ出たときの平衡二秒。
返済だった。
二秒。
戻る。
「終わり?」
ヴァンが聞く。
「終わり」
これで未返済はゼロ。
十秒全部使える。
でも、今朝は使う予定がなかった。
少なくとも、まだ。
*
問題は鏡ではなかった。
鏡を包んでいるものだった。
オルサが二つ目の木枠を開く。
厚い布。
革紐。
その下。
鏡の縁を支えている灰色の緩衝材。
一角だけ色が濃い。
押す。
戻りが遅い。
「駄目?」
リオが聞く。
オルサは指を離す。
「このままは嫌」
「乾かせば」
トーマが言う。
「乾くまで何時間」
「風あるし」
「表面だけなら早い」
「中は?」
トーマが黙る。
オルサが緩衝材を外す。
中まで少し湿っている。
海霧と飛沫。
箱の外まで濡れたわけではない。
ただ、一角だけ縫い目から吸ったらしい。
「替えある?」
ヴァンが聞く。
トーマが予備袋を見る。
「平たい詰め物ならあります」
「成形は?」
「ないです」
鏡の縁へ合わせて切られた、角のある緩衝材。
同じ形はない。
リオは横を見る。
空になった一つ目の鏡箱。
昨日まで鏡が入っていた。
今は何もない。
「そこから取れば?」
全員が空箱を見る。
トーマが先に言った。
「取れます」
オルサはすぐには頷かなかった。
「最終塔の回収箱」
「あ」
トーマが止まる。
リオが聞く。
「何入れる予定?」
「予備レンズ。封印箱。残ってたら油具」
オルサが言う。
「全部じゃないけど、壊したくないものをこれで持ち帰る」
空箱の中。
乾いた緩衝材。
形もいい。
「じゃあ全部取らなければいい」
リオが言う。
「濡れたとこ一つ分だけ」
オルサがリオを見る。
「そうする」
意外と早かった。
「もっと悩むかと思った」
「必要量が分かってるから」
オルサは空箱の緩衝材を一つずつ確認する。
「角材一つ。薄板二枚」
「それだけ?」
「それ以上取ると、最後が減る」
「一つでも減る」
トーマが帳面を開いた。
「回収容量、減」
「書くの?」
リオが聞く。
「書く」
オルサが答える。
「忘れるから」
「覚えてるでしょ」
「今は」
トーマが笑う。
「現場で“たぶん覚えてる”が一番怖いやつです」
昨日までなら、リオは少し大げさだと思ったかもしれない。
今日はあまり思わなかった。
*
濡れた角材を外し、空箱から乾いた成形材を必要なぶんだけ移す。
トーマが新しい布を敷き、リオは言われた端だけを支えた。
「押さない。落とさない」
「分かってる」
「昨日より信用してる」
「どれくらい」
「六割」
「上がった」
「半分から」
悪くない。
鏡そのものは動かさない。
オルサが角度と高さを確かめ、トーマが薄板を差し込む。
最後に指で押す。
今度は戻りが早い。
「これなら行ける」
「濡れたほうは?」
リオが聞く。
「干す」
トーマが縄を張り、外した緩衝材を吊るす。
「乾いたら戻す?」
「主材にはしない」
オルサが言う。
「詰めには使える」
「無駄にはしないんだ」
「使えるものは使う」
リオは少し笑った。
オルサが見る。
「何」
「いや」
「言いたいなら言って」
「俺もそういうの好き」
「知ってる」
即答だった。
*
出発前。
トーマが空になった一つ目の鏡箱へ赤い紐を結んだ。
「何それ」
リオが聞く。
「不足印」
「一つ取っただけで?」
「一つ取ったから」
箱の内側には、緩衝材が一箇所だけない。
空洞。
小さい。
でも分かる。
「最後の塔で戻せば」
「乾いたやつを?」
「うん」
トーマが首を振る。
「同じ形に戻るか分からないです」
オルサが言う。
「戻ったら使う。戻らなかったら、その分は諦める」
「回収する物を?」
「保護できない物を」
リオは空箱を見る。
二つ目の鏡を安全に運ぶために、一つ目の空箱を少し削った。
いま困っているのはそれで解決する。
最後で少し困るかもしれない。
「先に借りた感じ」
ヴァンが言う。
リオが見る。
「何が」
「箱」
「未来から?」
「違う」
「じゃあ違うじゃん」
「似てるって話」
リオは少し考える。
確かに、少し似ていた。
でも箱は三日後に勝手に返ってこない。
「返済来ないけど」
「だから似てるだけ」
オルサが言う。
「話してるなら積んで」
終わりだった。
*
一行は二つ目の塔へ向かった。
海沿いの道。
午後になると、風が強くなる。
鏡箱は荷車の中央。
リオは前よりよく見るようになった。
揺れ。
傾き。
留め具。
全部オルサほどは分からない。
でも、前よりただの箱には見えない。
途中の休憩でも、トーマは赤い紐と帳面の不足印を確認した。
乾いた材料を戻せない限り、印は最終塔までついてくる。
*
夕方。
二つ目の塔が見えた。
一つ目より古い。
丸い石塔。
海側の壁に黒い筋。
入口の上に、古い信号標。
「着いた」
リオが言う。
オルサが鏡箱を見る。
「まだ」
「塔見えてるよ」
「箱を上まで運んで、開けて、台座見るまで着いたことにしない」
「厳しい」
「普通」
最近、その言葉もよく聞く。
リオは笑った。
荷車が止まる。
二枚目の鏡は無事。
空いた一枚目の箱には、赤い紐が残っていた。




