海霧
朝。
見張り塔の一階で、リオは硬いパンをちぎっていた。
右手の握力が急に抜けた。
パンが皿へ落ちる。
「二」
ヴァンが言う。
「先に言われた」
昨日、補助索をつかんだ二秒分。
リオは手を膝へ置く。
一秒。
二秒。
戻る。
パンを拾う。
「これで?」
トーマが聞く。
「平衡二秒だけ残り」
「便利ですね」
「この前ネラにも似たこと言われた」
「誰です」
「馬の人」
「分かりません」
オルサが奥から言った。
「食べたら上。鏡つけるよ」
リオは残りのパンを口へ入れた。
*
塔の上は、風が強かった。
海が全部見える。
昨日までは。
今日は、朝のうちはまだ見えていた。
東。
細い岬。
その先に、次の見張り塔。
かなり小さい。
「向こうまで光届く?」
リオが聞く。
「届くように合わせる」
オルサが答える。
交換鏡は、昨日運んだ一枚。
丸い枠ごと、古い台座へ乗せる。
トーマが固定ねじを一本ずつ締める。
オルサが横で位置を見る。
ヴァンは工具箱が風で動かないよう縄を掛けた。
リオは言われたものを渡す。
「六角」
「これ?」
「それ」
「短いやつ」
「これ?」
「それ」
「便利」
「今はね」
鏡の裏には、細い目盛りがついていた。
台座側にも真鍮の輪。
数字。
線。
リオにはよく分からない。
「向こう見ながら合わせるんじゃないんだ」
「最後は見る」
オルサが言う。
「先に記録方位へ置く」
「記録方位?」
トーマが説明する。
「塔ごとに向きが決まってるんです。前の台座が生きてれば、まずそこへ戻せる」
「それで終わり?」
「終わらない」
オルサ。
「台座も少しずれる。鏡も個体差ある。最後に実際の返答を見る」
「返答?」
「光を送る。向こうが受けたら返す」
リオは次の塔を見る。
「楽しそう」
「仕事」
「分かってる」
*
昼前。
鏡の固定が終わった。
トーマが開閉板を取り付ける。
鏡の前を、一枚の黒い板が動く。
開く。
閉じる。
開く。
閉じる。
「それで合図?」
「そう」
「速くできる?」
「できるけど、速ければいいわけじゃない」
「何回?」
オルサが言う。
「確認は三、間、二」
リオが真似する。
「三、間、二」
「勝手に送らない」
「送ってない」
そのときだった。
海の向こう。
次の塔の下。
白いものが広がった。
最初は波しぶきみたいに見えた。
違う。
海面から、薄い布を引くみたいに上がってくる。
「霧」
トーマが言う。
オルサが鏡の向こうを見る。
白い帯が岬へかかる。
次の塔が半分消える。
「早く送る?」
リオが聞く。
「まだ」
「見えるうちに」
「向こうが準備できてない」
「じゃあ声」
「届かない」
白がさらに広がる。
岬。
塔。
海。
全部薄くなる。
一分もしない。
次の見張り塔が消えた。
リオは柵へ近づく。
「上なら?」
オルサが見る。
「ここ塔の上」
「もっと上」
「どこ」
リオは屋根の先を見る。
ヴァンが言う。
「やめとけ」
「登るだけなら」
オルサが言う。
「十歩高くなっても霧の中」
「岬の先まで行けば」
「向こうの岬も霧」
「じゃあ――」
言葉が止まる。
脚を借りても。
平衡を借りても。
速く走っても。
見えないものは見えない。
「待つ?」
トーマが言う。
オルサが頷く。
「その前に、見えなくてもできるところまでやる」
*
鏡を記録方位へ合わせる。
真鍮の目盛り。
固定ねじ。
水平器。
リオは水の入った小瓶みたいな器具を見る。
中の気泡が動く。
「それ面白い」
「触らない」
「分かってる」
トーマが笑う。
「だいぶ早く覚えましたね」
「昨日の半分褒められたから」
オルサが聞く。
「誰に」
「オルサ」
「半分しか褒めてない」
「だから半分」
鏡の角度。
台座。
開閉板。
一つずつ確認する。
霧は濃いまま。
向こうは見えない。
「これで合ってる?」
リオが聞く。
「機械としては」
オルサが答える。
「でも実際に向こうへ届くかはまだ」
「今送っても?」
「何も分からない」
「向こうがたまたま見てたら」
「こっちから向こうが見えないなら、向こうからもほぼ見えない」
「ほぼ?」
「風で切れ目が違うことはある」
リオは海を見る。
白い。
「じゃあ、ちょっと向こうへ近づけば」
ヴァンが言う。
「まだ言う?」
「確認」
オルサは怒らなかった。
「近づいても、その地点で見えるだけ。塔の鏡が向こうへ届くかは確認できない」
「あ」
それなら意味がない。
自分が見えても。
鏡から見えなければ。
「そういうこと」
オルサが言った。
*
待つ時間ができた。
リオは最初、塔の中を二周した。
次に、昨日外れた案内輪の新しいピンをトーマと削った。
そのあと、残り二枚の鏡箱の留め具を確認した。
オルサの指示で。
勝手には触っていない。
一刻。
まだ霧。
二刻。
まだ白い。
「長い」
リオが言う。
塔守の男が湯を飲みながら答える。
「この季節なら普通」
「毎回待つ?」
「待つ」
「暇じゃない?」
「塔守にそれ聞く?」
「ごめん」
ヴァンは壁際で槍の柄に油を塗っている。
今の槍。
エルダへ頼んだ新しい槍は、まだない。
「新しいやつ、いつできるかな」
リオが言う。
「今その話?」
「待ってるから」
「帰ってから」
「長い」
「仕事も長いだろ」
「二十日」
「順調なら十八」
「部屋、十八日空く」
ヴァンが一度だけこちらを見る。
「もう払っただろ」
「払った」
「じゃあ今考えても増えない」
それもそうだった。
リオは窓へ戻る。
白い。
*
午後。
風向きが変わった。
最初に塔守が気づいた。
「西が切れる」
全員が上へ出る。
霧が薄くなる。
白の向こうに、海。
次に岬。
塔。
「見えた」
リオが言う。
「まだ」
オルサが鏡の前へ座る。
トーマが台座を固定。
「方位、そのまま」
「はい」
「板」
「動きます」
オルサが鏡をわずかに振る。
太陽を拾う。
白い光が走る。
開閉板。
一。
二。
三。
間。
一。
二。
遠くの塔。
何もない。
リオは息を止める。
「ずれてる?」
「待つ」
オルサが言う。
数秒。
遠く。
小さな光。
一。
二。
三。
間。
一。
二。
返ってきた。
「来た!」
トーマが言う。
オルサはすぐ次の確認をする。
角度をほんの少し変える。
もう一度。
三。
間。
二。
向こう。
三。
間。
二。
「通った」
オルサが言った。
それだけだった。
でも、リオはかなり嬉しかった。
「終わり?」
「一基目は」
「じゃあ次」
「今日は下ろす」
「まだ明るい」
「霧で二刻遅れた」
「明るいよ」
「次の塔まで今日着かない」
リオは海を見る。
道は続いている。
でも、距離は距離だった。
未来の数秒では埋まらない。
「了解」
今回は早かった。
ヴァンが少しだけ笑った。
*
出発前。
オルサが残り二つの鏡箱を確認した。
一つ。
問題なし。
二つ目。
手が止まる。
「トーマ」
「はい」
箱の下側。
緩衝材の一角が湿っている。
昨日の海風と飛沫を吸ったらしい。
鏡そのものには触れていない。
でも、押すと少し沈み方が違う。
「次の塔までこれで行ける?」
トーマが聞く。
オルサはすぐには答えなかった。
「このままは嫌」
「交換材、あります?」
「少しだけ」
「足ります?」
「全部は無理」
リオが覗く。
「乾かす?」
オルサが見る。
「それは候補」
「触っていい?」
「まだ駄目」
「了解」
一基目は終わった。
でも、残り二枚は同じ状態ではなかった。
荷車へ積み直す。
海霧はまた岬の向こうへ広がり始めていた。




