割れたら終わり
海沿いの道は、歩くほど風が強くなった。
左は崖。
右は低い草地。
その向こうに、ずっと海がある。
「思ったより青い」
リオが言う。
「何色だと思ってた」
ヴァンが聞く。
「もっと灰色」
「曇ってたらそうなるだろ」
前を歩いていたオルサが振り返る。
「景色見るのはいいけど、荷から離れない」
「離れてない」
「昨日から三回目」
「数えてるの?」
「数える」
トーマが笑った。
荷車の中央。
交換鏡の箱は三つ。
厚い布で包まれ、木枠へ固定されている。
見た目だけなら、ただの丸い大荷物だった。
でもオルサは、止まるたびに留め具を確認した。
*
最初の見張り塔は、岬の先にあった。
塔そのものは高くない。
問題は、そこへ行く最後の区間だった。
街道から塔まで、崖が一度えぐれている。
人用の細い木橋は残っている。
ただし、鏡箱を運ぶ幅はない。
その横に、古い荷揚げ台があった。
二本の太い索。
小さな台。
街道側から塔側へ、荷を吊って渡す仕組み。
「これ使う?」
リオが聞く。
トーマが台の下を覗く。
「使う予定」
「予定?」
「動けば」
オルサが言う。
「だから先に空で試す」
ヴァンは索を触る。
「主索は?」
「交換済み」
トーマが答える。
「横揺れ止めの案内索が古い」
「古いって」
リオが見る。
細い補助索が、台の左右から伸びている。
途中で鉄の輪を通り、塔側へ固定されている。
「切れる?」
「切れないと思う」
トーマが言う。
オルサがすぐ見る。
「思うで動かさない」
「分かってます」
「じゃあ言い方」
「切断痕なし。毛羽立ち少。固定具は要確認」
「よし」
リオは少し笑った。
トーマが小声で言う。
「ずっとこうです」
「聞こえてる」
オルサが言った。
*
空の荷台を一度渡した。
遅い。
かなり遅い。
トーマが街道側で巻き機を回す。
ヴァンが補助索を持つ。
塔側には護衛の男が先に渡っている。
台が中央を越える。
少し揺れる。
オルサが目で追う。
「許容」
「どれくらいまで?」
リオが聞く。
「目で見て分かるくらい傾いたら止める」
「ざっくり」
「現場ではそういう基準もある」
空台は無事に戻った。
次は鏡箱。
一つ目。
オルサとトーマが二人で木枠を台へ乗せる。
向き。
紐。
角。
全部確認する。
リオが手を出す。
「そこ持つ?」
「持たない」
オルサが言う。
「了解」
「返事は早いね」
「褒めてる?」
「まだ」
ヴァンが補助索の位置を変えた。
「こっち、張りすぎると台が街道側へ寄る」
トーマが頷く。
「塔側を少しゆるめます」
「俺は?」
リオが聞く。
ヴァンが横の支柱を指す。
「ここで二本目持つ」
「普通だね」
「普通にやれ」
*
鏡箱が動く。
ぎい。
木の台が索の上を進む。
最初は安定していた。
三歩ぶん。
五歩ぶん。
海が下で白く砕ける。
リオは補助索を軽く持つ。
引かない。
張りだけ見る。
オルサが言う。
「そのまま」
トーマが巻く。
「速度、これで?」
「いい」
台がえぐれの中央へ入る。
風が横から来た。
台が少し振れる。
ヴァンが補助索を締める。
戻る。
「今のくらい?」
リオが聞く。
「許容」
オルサは鏡箱しか見ていない。
さらに進む。
そのとき。
金属が跳ねる音がした。
ぱん。
右側の補助索が、一度大きく弛んだ。
「止めろ!」
オルサ。
トーマが巻き機の制動を掛ける。
主索は止まる。
でも、台は少し横へ振れ続ける。
「案内輪!」
トーマが叫ぶ。
崖側の途中。
補助索を通していた鉄輪が、支柱から外れている。
索そのものは切れていない。
ただ、押さえがなくなった。
台が塔側へ斜めに振れる。
その先。
石の受け台。
ぶつかる。
「ヴァン!」
リオが言う。
「分かってる!」
ヴァンは左側を張る。
でも片側だけでは戻しすぎる。
オルサが叫ぶ。
「引くな! 右を張るだけ!」
右側の補助索は、外れた鉄輪の向こう。
今いる位置から手が届かない。
少し外へ張り出した整備梁を通れば、途中で拾える。
梁は細い。
海側へ傾いている。
「行く」
リオが言う。
ヴァンが一瞬だけ見る。
「戻り縄」
「つける」
腰へ。
ヴァンが固定。
オルサが言う。
「索を取っても引かない! 張るだけ!」
「分かった!」
「強く引いたら箱が逆へ振れる!」
「分かったって!」
リオは梁へ足を置く。
一歩。
風。
梁が濡れている。
台はまだ、ゆっくり横へ動いている。
石の受けまで遠くない。
「握力、二」
右手を開く。
「平衡、二」
未来の二秒ずつを、今へ重ねる。
一歩。
梁の外側。
足が滑る。
平衡の上乗せで腰を戻す。
二歩。
補助索が目の前を横切る。
右手でつかむ。
握力の上乗せ。
離れない。
二秒。
終わり。
上乗せが消える。
でも、もう索は手の中にある。
「取った!」
「引くな!」
オルサの声。
リオは本能的に引きそうになって止めた。
張るだけ。
台の横揺れが少し減る。
ヴァンがすぐ縄を受ける位置を探す。
「リオ、そのまま!」
「そのままって結構きつい!」
「二呼吸!」
ヴァンが別の短縄を支柱へ回す。
リオの持つ補助索へ結ぶ。
荷重が移る。
手が軽くなる。
「離していい!」
ヴァンが言う。
リオは離す。
オルサがトーマへ。
「半巻き戻す。ゆっくり」
「戻します」
台がほんの少し街道側へ戻る。
揺れが止まる。
「今度は左を一つ緩めて」
ヴァンが調整する。
「右、張り維持」
オルサが言う。
トーマが巻き機を動かす。
台が再び進む。
今度は斜めにならない。
少しずつ。
塔側へ。
護衛が受ける。
台が受け台へ着く。
ごと。
小さな音。
オルサが走るように人用の細い木橋を渡った。
リオも梁から戻る。
「鏡!」
トーマが言う。
「まだ開けない!」
オルサの声が飛ぶ。
*
塔側へ着いてから、木枠を開いた。
オルサが留め具を見る。
裏枠。
調整ねじ。
縁。
一つずつ。
トーマも横で確認する。
リオは少し離れて待つ。
「どう?」
「待って」
「はい」
長い。
かなり長い。
ヴァンが横に立つ。
「割れてないだろ」
「割れてなくても駄目なことあるって昨日聞いた」
「覚えてたんだ」
「失礼」
ようやくオルサが顔を上げる。
「大丈夫」
リオは息を吐いた。
「よかった」
「でも」
「でも?」
「勝手に外へ出た」
「索取らないとぶつかってた」
「それはそう」
「じゃあ」
「行く前に、戻り縄つけたのはいい」
「うん」
「私の指示どおり引かなかったのもいい」
「うん」
「だから結果はいい」
「褒めてる?」
オルサは少し考えた。
「半分」
「少ない」
「次から、触る前に聞く」
「時間なかった」
「それも分かってる」
「じゃあ」
「全部正しかったことにはしない」
リオは少し考える。
「難しいね」
「鏡は難しい」
オルサはそれで終わりにした。
*
一つ目の鏡は、その日のうちに塔へ運び込まれた。
取り付けは明日の朝。
残り二つは荷車。
まだ無事。
トーマが補助索の外れた鉄輪を持ってきた。
固定用のピンが半分腐っている。
「見落とした」
トーマが言う。
オルサは怒鳴らなかった。
「次から、輪じゃなくてピンまで見る」
「はい」
ヴァンが言う。
「俺も見てなかった」
「私も」
オルサが言う。
リオは聞く。
「俺は?」
三人がこちらを見る。
「何」
「何か見落としてない?」
ヴァンが言う。
「落ちるな」
「落ちてない」
「次もな」
「分かってる」
海から風が上がってくる。
塔の窓から、西の空が見える。
一つ目。
まだ三分の一。
リオは残りの鏡箱を見る。
今度は、昨日より少し重く見えた。




