留守でも家賃
水路の仕事から戻った翌日。
リオは帳場で、宿の主人に紙を一枚渡された。
「何これ」
「次の月の締め日」
紙には日付と金額。
部屋代。
「もう?」
「もうって何だ」
「借りたばっかり」
「だから次の話してる」
リオは紙を見る。
一か月。
毎日ここにいれば、たぶん得だ。
十日いなければ。
二十日いなければ。
「いない日、安くならない?」
「ならない」
「やっぱり?」
「昨日聞いただろ」
聞いた。
でも、紙になると少し違った。
*
昼前。
宿へネラが来た。
前に商隊護衛で一緒になった、赤茶の短い髪の女だ。
「生きてた」
ネラが言う。
「そっちも」
「失礼だな」
「何しに来たの」
「仕事」
ヴァンが食堂の奥から顔を出す。
「何日」
ネラが笑う。
「先にそこ聞く?」
「この前長かったから」
「今回は六日」
リオが紙を見る。
まだ手に持っていた。
ネラが気づく。
「何それ」
「家賃」
「部屋借りたの?」
「うん」
「へえ」
それだけ。
ヴァンが席へ座る。
「仕事は」
ネラも座る。
「塩運び。北東の下道」
マーレたちと調べた峠の下側。
荷馬向けに使えるかもしれないと見つけた迂回線。
簡単な整備が入ったらしい。
「もう通すの?」
リオが聞く。
「試験で少量だけ。正式じゃない」
ネラが指を六本立てる。
「往復六日。途中の塩泉で積む。荷馬四頭」
「俺たち必要?」
「本線は大丈夫。塩泉へ下る横道がまだ怪しい」
ヴァンが聞く。
「崩れ?」
「足場」
ネラは言った。
「人は行ける。荷馬が微妙」
リオは家賃の紙を見る。
六日。
ひと月の五分の一くらい。
部屋は、その間ずっと空く。
「報酬は?」
ネラが額を言う。
悪くない。
「家賃分は出る?」
ヴァンが聞く。
ネラが眉を上げる。
「知らないよ。こっちは仕事の値段出してる」
正しい。
リオは少し笑った。
「行く」
「部屋どうすんの」
「置いとく」
「それが部屋じゃないの」
「そうなんだけど」
そこが少し悔しい。
*
出発前。
リオは部屋の鍵を閉めた。
中には着替え。
町靴。
予備鉤。
昨日市場で買った安い陶器の杯。
持っていかない。
六日間。
誰も使わない。
家賃はそのまま。
「忘れ物?」
ヴァンが階段の下から聞く。
「ない」
「じゃあ行くぞ」
「うん」
リオは鍵を腰袋へ入れた。
*
峠の下道は、調査したときより歩きやすくなっていた。
倒木が切られている。
ぬかるみには平石。
白い標識杭も増えた。
「俺の杭」
リオが言う。
ネラが見る。
「役所の杭でしょ」
「拾ったの俺」
「じゃあ半分お前」
「半分?」
「杭一本に所有権主張する?」
「しない」
ヴァンが後ろから言う。
「なら歩け」
一日目の昼。
道端で休んでいると、リオの両脚から力が抜けた。
「あ」
その場に座っていたので、転ばない。
「二?」
ヴァンが聞く。
「二」
水路の点検台へ渡ったときの脚。
二秒。
終わり。
ネラが干し肉を噛みながら言う。
「便利なのか不便なのか分からないね」
「便利だよ」
「今は座ってたからでしょ」
「それも込み」
「前向き」
「借りたとき便利だったし」
ネラは肩をすくめた。
「ならいいけど」
*
一日目の夕方。
野営地で飯を食べていると、リオの体が一瞬だけ傾いた。
「二」
自分で言う。
平衡の返済。
ヴァンが鍋を少し遠ざける。
二秒。
戻る。
「これでゼロ?」
「ゼロ」
「部屋もゼロ人」
ネラが言った。
リオが見る。
「今それ言う?」
「家賃気にしてたから」
「気にしてる」
「でも来た」
「仕事もしたいし」
「部屋も欲しい」
ネラが笑う。
「忙しいね」
リオは否定しなかった。
*
三日目。
塩泉へ下る横道へ入った。
本線より細い。
山肌から白い水が流れている。
石が少し滑る。
荷馬は慎重に歩いていた。
先頭はネラ。
ヴァンは二頭目。
リオは後ろ。
問題が起きたのは、折り返しのところだった。
三頭目の荷馬が足を滑らせた。
完全には落ちない。
前脚だけが下の段へ出る。
荷は上。
馬だけ斜めになる。
「動かすな!」
ネラが叫ぶ。
御者が綱を止める。
ヴァンがすぐ後ろの馬を下げる。
リオは下を見る。
一段下に、狭い岩棚。
馬の前脚はそこへついている。
「引き上げる?」
リオが聞く。
「待って」
ネラが馬の目を見る。
鼻息。
耳。
「暴れてない」
「荷下ろす?」
ヴァンが聞く。
「片側だけ」
ネラは即答する。
「全部外すと重心動く」
リオは手を出さない。
馬はネラの仕事だ。
ヴァンが荷綱を一本外す。
リオは受け取る。
塩袋。
重い。
「俺、下行く?」
「行かない」
ネラが言う。
「なんで」
「馬が人見て動くかもしれない」
「じゃあ何する」
「上から支えて」
ヴァンが縄を出す。
「胴へ回す」
ネラが頷く。
三人で位置を作る。
ゆっくり。
荷を一つ外す。
縄を締める。
御者が声を掛ける。
馬が前脚を戻す。
一度、滑る。
リオが縄を引く。
ヴァンも。
ネラが頭を上げさせる。
戻った。
「終わり?」
リオが聞く。
ネラが馬の脚を見る。
「まだ」
しばらく確認。
傷は浅い。
「歩ける」
ようやく終わった。
リオは能力を使わなかった。
使えるのは八秒。
でも、使う場所がなかった。
それでよかった。
*
六日目の夜。
町へ戻った。
報酬を受け取る。
ネラと別れる。
宿へ入る。
帳場の主人が言う。
「おかえり」
リオは少し止まった。
前から言われていたかもしれない。
でも今日は少し違って聞こえた。
階段を上がる。
屋根裏。
鍵を出す。
六日ぶり。
開ける。
空気が少しこもっている。
窓を開ける。
棚。
机。
引き出し。
安い杯。
全部そのまま。
床に少し埃。
「掃除してない」
後ろからヴァンが言う。
「俺の部屋だからね」
「嬉しそうに言うな」
リオは布を取った。
机を拭く。
家賃は六日分、何もしていない。
それでも、なくなってはいなかった。
どちらも本当だった。




