鍵を返さない
町へ戻った夜、リオは風呂に二回入った。
一回目は汚れを落とすため。
二回目は、もう一度湯に入りたかったから。
「意味ある?」
食堂でヴァンに聞かれた。
「ある」
「何が違う」
「一回目は作業」
「二回目は?」
「風呂」
ヴァンは理解できない顔をした。
リオは気にしなかった。
温かい肉。
柔らかいパン。
乾いた服。
夜は、何日かぶりに石のない寝床で眠った。
朝起きても、背中は痛くなかった。
かなり良かった。
*
朝食のあと。
リオが部屋の鍵を返しに帳場へ行くと、先に一人いた。
年配の女。
大きな箱を二つ足元へ置いている。
宿の主人へ、真鍮の鍵を差し出した。
「長く世話になったね」
「こちらこそ」
主人は鍵を受け取る。
「娘さんのところ、遠いんだろ」
「馬車で半日。ここより近所付き合いが多そうで怖いよ」
女は笑った。
荷運びの男が箱を持つ。
そのまま外へ出ていった。
リオは帳場へ自分の鍵を置く。
いつもの木札つき。
「今の人、ずっといた?」
「三年くらい」
「宿に?」
「月貸しの部屋」
リオの手が止まる。
「月貸し?」
主人が真鍮の鍵を棚へ掛ける。
「屋根裏の北部屋。普通の客には出してない」
「なんで」
「狭いから」
「どれくらい」
主人がリオを見る。
「見たいのか?」
「見たい」
自分でも早いと思った。
*
階段を一つ上がる。
いつも泊まる階より、さらに上。
最後は少し急な木段。
屋根裏の廊下に、扉が三つあった。
主人が一番奥を開ける。
「ここ」
小さい。
本当に小さい。
天井の片側が斜めになっている。
背の高いヴァンなら、端で頭を打ちそうだ。
窓が一つ。
ベッドが一つ。
古い机。
壁に棚が二段。
引き出しのついた小さな箪笥。
隅に鍵を掛けられる木箱。
豪華ではない。
昨日泊まった客室より狭い。
リオは中へ入った。
窓を開ける。
下に宿の裏庭が見える。
干してある洗濯物。
馬小屋の屋根。
少しだけ通り。
「月いくら」
主人が額を言う。
リオは頭の中で、いつもの宿代と比べた。
安くはない。
一晩ずつ払うよりは安い。
ただし、それは毎日ここにいるならだ。
「出てる間も?」
「払う」
「十日いなくても?」
「払う」
「ひと月いなくても?」
「払う」
「じゃあ損じゃん」
「お前が決めろ」
主人は笑った。
「その代わり、鍵は持ってていい。荷物も置いていい。戻ってきた日に満室でも、ここは空いてる」
リオは真鍮の鍵を見る。
「鍵、返さなくていい?」
「借りてる間は」
すぐに答えられなかった。
主人が少し不思議そうな顔をする。
「そんなにそこ大事か?」
「うん」
答えてから、自分でも少し驚いた。
*
ヴァンを連れてきた。
「狭い」
最初の感想がそれだった。
「そこ?」
「天井低い」
ヴァンは端へ寄る。
本当に少し屈んだ。
「俺なら頭打つ」
「俺は打たない」
「よかったな」
「机ある」
「見える」
「棚も」
「見える」
リオは引き出しを開ける。
空。
閉める。
また開ける。
「何してる」
「ちゃんと閉まる」
「さっきから閉まってる」
ヴァンはベッドへ腰掛けた。
軋む。
「借りるの?」
「考えてる」
「もう借りる顔してる」
「顔で決めるな」
最近それを言う人が増えた。
リオは窓の横へ立つ。
「ヴァンは?」
「いらない」
早かった。
「一緒に借りたら半分になるよ」
「槍代貯めてる」
「まだ買えてないし」
「だから貯めてる」
「ここ泊まれるよ」
「今も泊まれてる」
「荷物置ける」
「持てるぶんしか持ってない」
「鍵」
「返すの困ってない」
全部、正しい。
リオは少しだけ腹が立った。
「何」
ヴァンが聞く。
「別に」
「借りたいなら借りれば」
「一人で?」
「お前が欲しいんだろ」
「そうだけど」
ヴァンは部屋を見る。
「俺が欲しくないと借りられない?」
前にも、似たことを言われた気がした。
リオは少し考える。
「借りられる」
「じゃあそうすれば」
簡単だった。
また。
*
財布の中身を数えた。
一か月分。
払える。
払ったあとも、仕事に必要な金は残る。
でも軽くはない。
二か月。
三か月。
ずっと払うなら、それだけ仕事も要る。
外へ出ている間は、本当にただ部屋を空けているだけになる。
リオは空の棚を見る。
空の机。
空の引き出し。
「ひと月だけでもいい?」
主人に聞く。
「いい」
「次の月、やめても?」
「前の日までに言え」
「途中で遠く行っても?」
「勝手に行け」
「荷物そのまま?」
「家賃払ってるなら」
リオは金を出した。
「借りる」
主人は数える。
受け取る。
それから、さっき棚へ掛けた真鍮の鍵を外した。
リオへ渡す。
「なくすなよ」
「なくしたら?」
「鍵代取る」
「高い?」
「なくしてから聞け」
リオは鍵を握った。
重くはない。
普通の鍵だった。
*
その日、何か大きなものを買うことはしなかった。
市場へ家具を見に行くこともしなかった。
宿の客室から、自分の荷物を運んだだけ。
短剣。
縄。
鉤。
服。
予備の靴。
道具袋。
全部置いても、棚はかなり余った。
引き出しも二段空いている。
「物少ないな」
扉のところでヴァンが言う。
「これから増える」
「増やす前提なんだ」
「空いてるから」
「そういうとこだぞ」
「何が」
ヴァンは答えなかった。
リオは洗ったばかりの上着を畳んだ。
箪笥の一番上へ入れる。
引き出しを閉める。
明日出かけても。
数日戻らなくても。
次に開けたとき、たぶんここにある。
「飯行く?」
ヴァンが聞く。
「行く」
リオは部屋を出た。
扉を閉める。
鍵を掛ける。
階段を下りる。
帳場を通る。
主人は何も言わなかった。
鍵を返せとも言わない。
外へ出た。
真鍮の鍵は、リオの腰袋に入ったままだった。




