置いていけないもの
四日目の朝。
リオは寝袋を丸めている途中で、両脚から力が抜けるのを感じた。
「二」
自分で言って、そのまま地面へ座る。
昨日より前、標識杭を拾いに行ったときの返済だった。
二秒。
すぐに戻る。
シアが横で見ていた。
「短いね」
「そっちに言われたくない」
「私は一秒だったから」
「もっと言われたくない」
シアは少し笑った。
リオは立ち上がる。
これで返済待ちは平衡二秒だけ。
前借りできる余地は八秒になった。
今日は使う予定はなかった。
少なくとも、朝の時点では。
*
中継所は、もう遠くなかった。
昨日見えた屋根が、今日は木々の切れ間から何度も見える。
ただ、近づくほど道は荒れていた。
古い標識柱。
崩れた排水溝。
斜面へ半分埋まった石段。
マーレは立ち止まるたびに地図へ書き込む。
シアが測る。
ヴァンが通行の幅を確認する。
リオは先の地形を見る。
「昼前には着けそう」
「測らなければね」
シアが言った。
「測っても昼過ぎ」
マーレが訂正する。
「じゃあ昼過ぎ」
「まだ決めるな」
「昨日も言われた」
「学んで」
シアが言う。
「嫌」
「早い」
ヴァンが後ろで笑った。
*
山腹を回り込んだところで、古い石壁が出てきた。
道沿いではない。
少し斜面の上。
半分、土に埋まっている。
マーレが止まる。
「測量標?」
シアが顔を上げた。
石壁の中央に、小さな金属板が見えた。
錆びている。
でも、形は残っている。
「旧標識所かも」
シアが言う。
道から十歩ほど外れる。
マーレが先に近づく。
石壁は、山側へ食い込むように作られていた。
昔、測量具や記録を置いた小さな保管所だったらしい。
入口はない。
正面に、鉄の引き出しが三つ並んでいる。
下二つは潰れている。
一番上だけ、まだ形がある。
ただし、その前の地面が崩れていた。
細い岩棚。
下は急な斜面。
「今の調査に要る?」
ヴァンが聞く。
マーレが首を振る。
「必須じゃない」
「じゃあ印だけ取って進む?」
リオが言う。
シアも頷いた。
「そうしよう」
即答だった。
マーレが地図へ位置を書く。
リオは金属板を見る。
古い文字。
ほとんど読めない。
シアが一歩近づく。
目を細めた。
「……待って」
マーレが顔を上げる。
「何」
シアは金属板の右下を指した。
刻み傷。
斜め線が二本。
その間に小さな点。
「この印」
「知ってる?」
リオが聞く。
シアは少しだけ間を置いた。
「ハルド」
「誰」
「昔の指導役」
マーレが思い出したように言う。
「測量官のハルド?」
「今は退いてる」
シアは鉄の引き出しを見る。
さっきより長く。
「最初の現場で教わった」
「この道?」
「違う。北西」
シアはしゃがむ。
崩れた岩棚。
引き出し。
その距離を見る。
「ここ、ハルドが取った線かもしれない」
マーレが地図をめくる。
「古い写しなら役所にある」
「写しはある」
シアが答える。
「原本は見たことない」
リオが聞く。
「何が違うの」
「余白」
「余白?」
「現場で書いた修正とか。測り直した理由とか。写しには入らない」
シアは鉄の引き出しから目を離さない。
「昔、この峠の水筋を一本ずらしたって記録がある。理由が残ってるかもしれない」
マーレが言う。
「今の再開調査にはなくても進められる」
「分かってる」
「なら位置だけ取る」
シアは答えなかった。
さっきは自分でそう言った。
リオは何も言わない。
ヴァンも黙っている。
少しして、シアが息を吐いた。
「取りたい」
短かった。
リオはシアを見る。
シアはリオを見ない。
「仕事に必要じゃない」
「うん」
「それでも?」
「うん」
マーレは崩れた岩棚を見る。
「一回だけ」
シアが顔を上げる。
「行ける?」
「外の引き出しまでなら」
マーレがヴァンを見る。
「どうする」
ヴァンは周囲を確認した。
丈夫そうな木。
残っている岩棚。
崩れた縁。
「縄つける」
シアが頷く。
「戻り三分」
「短くない?」
リオが言う。
「引き出し一個だ」
ヴァンはシアを見る。
「奥へ入るな。引き出し開かなかったら戻る」
「分かった」
「本当に」
「分かったって」
今度はリオが少し笑った。
*
縄はヴァンが木へ回した。
もう一本をリオが持つ。
シアの腰へ結ぶ。
マーレは崩れた縁に立たず、少し離れて時間を見る。
「普通に渡る?」
リオが聞く。
シアは岩棚を見る。
「途中が動く」
石が一つ、足元から落ちる。
下へ消える。
「じゃあ」
シアが短く息を吸う。
「脚、三」
リオが少し眉を上げた。
「平衡、三」
六秒。
いつものシアなら、あまり持たない量。
シアは何も説明しなかった。
踏み出す。
一歩。
岩棚が崩れる。
二歩目を早く置く。
上乗せされた脚が、沈む前に次へ出る。
体が谷側へ流れる。
平衡の上乗せで戻す。
二秒。
三秒。
金属板の前。
上乗せが消える。
「着いた!」
リオが言う。
「見えてる!」
シアが返す。
鉄の引き出しへ手をかける。
動かない。
一度。
二度。
「時間!」
ヴァンが言う。
「分かってる!」
シアが腰を落として引く。
錆が剥がれる。
引き出しが半分出た。
中に、細い金属箱がある。
シアが取る。
蓋に同じ二本線と点。
一瞬だけ手が止まった。
「シア!」
ヴァンの声。
「戻る!」
箱を胸へ入れる。
帰りは走らない。
縄を張ったまま、一歩ずつ戻る。
岩棚が一度崩れた。
リオが縄を引く。
ヴァンも支える。
シアがこちら側へ足を掛ける。
リオが腕をつかむ。
上がった。
「三分?」
シアが聞く。
マーレが言う。
「二分十二秒」
「余った」
「時間は返済できないぞ」
リオが言った。
シアがこちらを見る。
「昨日の真似?」
「使えるから」
ヴァンがため息をついた。
*
金属箱は、その場では開けなかった。
崩れた斜面の横で古い紙を広げる理由がない。
少し進んだ平らな場所で休憩する。
マーレが封を確認する。
役所の古い標。
シアが蓋を開けた。
中に、薄い革表紙の帳面。
端は湿気で波打っている。
でも読める。
最初の数ページは数字。
距離。
方角。
傾斜。
シアが黙ってめくる。
途中で指が止まる。
「これ」
マーレが覗く。
リオも横から見る。
何が書いてあるのか、ほとんど分からない。
シアが読む。
「春、水量増加。旧線の西側、地中水が上がる。排水位置を一段下へ変更」
マーレの目が変わる。
「今朝見た湿地帯」
「たぶん同じ水筋」
「役には立つ?」
リオが聞く。
マーレは少し考える。
「立つ」
シアが帳面から顔を上げる。
「なくても報告は書ける」
自分で言った。
「でも、排水の修理位置は絞れる」
「じゃあ取ってよかった」
リオが言う。
シアは小さく頷く。
それから、帳面を閉じた。
「うん」
「六秒使ったけど」
シアがこちらを見る。
「数えてた?」
「聞こえたから」
「そう」
「四秒までじゃなかった?」
「だいたい」
「今日は六秒」
シアは少しだけ嫌そうな顔をした。
でも、言い訳はしなかった。
「欲しかったから」
それだけ。
リオは笑いそうになった。
やめた。
「そっか」
「何」
「別に」
「絶対何か言いたいだろ」
「言わない」
ヴァンが遠くで笑った。
「それ、もう全員使うな」
*
午後の調査を終えたころには、中継所の屋根がかなり近くなっていた。
あと少し。
行こうと思えば行ける。
リオが言う前に、マーレが地図を閉じた。
「今日はここまで」
「見えてるのに」
「最後の排水線が残ってる」
「中継所で寝たほうが楽じゃない?」
「調査終わらせてから入る」
シアが帳面を抱えたまま頷く。
「明日の朝すぐ終わる」
リオは中継所を見る。
屋根。
煙突。
たぶん中には床がある。
壁もある。
「ベッドあるかな」
ヴァンが言う。
「期待するな」
「屋根あるだけでいい」
「昨日まで野営嫌がってただろ」
「だから屋根がいいんだよ」
シアが言った。
「靴下乾かせれば何でもいい」
「そこは違う」
リオは即答した。




