使わなかった一秒
三日目の朝は、少し冷えた。
リオは起きてすぐ、寝床の石が一つ背中に当たっていたことへ気づいた。
「昨日のうちに取ればよかった」
ヴァンが言う。
「寝るまで気づかなかった」
「寝てから気づいたなら遅い」
「起こしてよ」
「なんで俺が」
隣では、シアがもう靴下を履き替えていた。
濡れていない。
それでも替えている。
リオは何も言わなかった。
言うと長くなりそうだった。
*
午前の道は、昨日より高いところを通った。
山肌に古い石の棚が続いている。
人が二人並べるほどの幅。
昔の道だったらしい。
ところどころに、錆びた鉄杭が刺さっている。
「ここ通せたら早いな」
リオが言う。
マーレは答えず、壁を見た。
シアもしゃがむ。
ヴァンは谷側へ槍の先を出して、棚の縁を軽く叩いた。
一部が欠ける。
「軽い」
「古いからね」
マーレが言った。
しばらく進むと、棚が一度切れていた。
二歩ぶん。
崩れた石が斜面へ落ちている。
向こう側の棚は残っている。
距離だけなら、リオは普通でも越えられそうだった。
普通に跳ぶ。
必要なら一秒だけ脚を借りる。
それで向こうへ行ける。
「俺、先に渡る?」
リオが聞いた。
シアがすぐ言った。
「渡らない」
「なんで」
「そこ、道じゃない」
「向こう残ってるよ」
「見えてる」
シアは崩れた部分ではなく、その手前へしゃがんだ。
石棚の山側。
細い排水穴が三つ並んでいる。
指で触る。
白っぽい粉がついた。
「これ」
リオも見る。
「石の粉?」
「新しい」
次に、古い鉄杭。
一本がわずかに外へ曲がっている。
「昨日の雨?」
「もっと前から動いてる」
シアは槌の柄で棚を軽く叩く。
こん。
少し離れて。
こん。
崩れた部分の近く。
こおん。
音が違う。
中が空いているみたいだった。
「表だけ残ってる」
シアが言う。
「棚の外側が山から剥がれてる」
リオは向こうを見る。
二歩。
「でも俺一人なら渡れる」
「渡れると思う」
シアは普通に言った。
否定されなくて、逆にリオが止まる。
「じゃあ」
「調査するのは、お前が渡れる道じゃない」
マーレが割れ目を見る。
「どこまで剥がれてる?」
「少なくとも、ここから向こうの二本目の杭まで」
「根拠」
シアが順番に示す。
白い粉。
外向きの杭。
空洞音。
排水穴の縁にできた細い段差。
マーレが自分でも叩く。
同じ音。
「閉鎖」
短く言った。
リオはまだ向こうを見る。
「一秒あれば、向こうまで行って状態見られる」
ヴァンが聞く。
「見て何する」
「先が使えるなら」
「ここを通れない」
「縄張れば」
「再開する道だぞ」
ヴァンは棚を指した。
「毎回リオを置くのか」
リオは口を閉じた。
「普通に歩く人が、普通に通れる線を出す」
「分かってる」
「顔が分かってない」
「顔で決めるな」
シアが少し笑った。
「昨日と逆だ」
「何が」
「今日は置いてく日」
リオは崩れた棚を見る。
一秒。
たぶん、それで渡れる。
でも、渡った先を残しても、この二歩が戻らない。
「じゃあ、どこ」
マーレが地図を広げる。
シアは山側を指した。
「杉林の中に古い作業道があるはず」
「遠い?」
「一刻くらい増える」
リオはため息をついた。
ヴァンが言う。
「歩け」
*
作業道は、本当にあった。
ただし、道というより獣道に近かった。
倒木。
根。
湿った土。
昨日の荷馬向け迂回線より、ずっと歩きづらい。
リオは枝を払いながら言う。
「これを再開路にするの?」
「仮線」
マーレが答える。
「整備前提」
「さっきの棚直したほうが早くない?」
シアが後ろから言う。
「直せるなら」
「直せない?」
「山側から全部組み直すなら」
「大工事じゃん」
「だから切った」
リオは振り返る。
「そういうの、すぐ切れるね」
シアが眉を上げる。
「悪い?」
「まだ分かんない」
「じゃあ分かってから言って」
「言ってない」
「言い方で分かる」
ヴァンが前から笑った。
「それ、使えるな」
「使うな」
リオが言った。
*
昼を少し過ぎたころ。
遠くで、低い音がした。
ごろごろ、ではない。
どん、と一度。
そのあと長く石が擦れる音。
四人とも止まる。
振り返っても、木で元の道は見えない。
マーレが言う。
「戻る」
少しだけ引き返し、斜面の開けたところまで出る。
向こうの山肌が見えた。
さっきの石棚。
半分ほど消えていた。
崩れた場所だけではない。
その先まで、外側の石がまとめて落ちている。
リオは黙って見る。
シアが何も言わない。
「言わないの?」
リオが聞く。
「何を」
「ほら、言ったでしょ、とか」
「言ったでしょ」
即答だった。
リオは笑った。
「言うんだ」
「聞いたから」
マーレが地図へ赤い線を引く。
「旧棚線、全面閉鎖」
ヴァンが言う。
「一秒使わなくてよかったな」
リオは少し考える。
「渡るだけなら、まだ渡れた」
「そうだな」
「でも道にはならなかった」
「そういうこと」
それなら、今回は使わなくてよかった。
*
午後。
作業道を抜けた先で、山が開けた。
遠くに屋根が見える。
小さい。
谷の向こう。
「中継所?」
リオが聞く。
マーレが地図を確認する。
「そう」
シアが測量棒を地面へ立てる。
「明日には着ける」
「今日じゃない?」
「まだ測る場所ある」
リオは少し残念だった。
でも、見えている。
昨日までは地図の端にしかなかった目的地が、今は本当に向こうにある。
四人で休憩した。
リオはシアの隣へ座る。
「どうやって決めてるの」
「何を」
「置いてくやつ」
シアは水筒を飲む。
「戻れないものから切る」
「戻れない?」
「壊れた道とか。終わった時間とか」
「あとで取れるものは?」
「あと」
簡単に言った。
リオは昨日の標識杭を思い出す。
「昨日の杭は」
「あとで取れた」
「取ったの俺だけど」
「取らなくても今日の仕事はできた」
「役立ったよ」
「役立った」
シアは認める。
「でも、あとで拾えるものだった」
リオは少し考える。
「誰のあと?」
シアが見る。
「何それ」
「俺にはあとでも、依頼人には今かもしれない」
シアはすぐに答えなかった。
「そういうのは、依頼人に聞く」
「聞けないときは?」
「自分で決める」
「どうやって」
「だから、戻れないものから」
最初へ戻った。
たぶん、シアの中ではちゃんとつながっている。
リオには、まだ全部は分からない。
ヴァンが立ち上がる。
「休憩終わり」
シアも立つ。
リオも続く。
向こうに中継所が見えている。
今日はそこまで行かない。
でも、道は続いていた。




