四秒まで
朝、シアは片手で靴紐を結び直していた。
もう片方の手は、膝の上に置いたまま動かしていない。
リオが見ていると、一秒ほどして指が動いた。
「昨日の?」
「握力」
「一秒?」
「一秒」
シアは普通に結び目を締めた。
「本当に細かいな」
「返すのも細かいから楽」
「楽かな」
「私は」
それだけ言って、シアは立ち上がった。
替えの靴下は今日も乾いていた。
*
午前の調査は、昨日より遅かった。
道が悪いからではない。
測るものが増えたからだ。
古い擁壁。
排水穴。
階段の傾き。
崩れた石標から次の石標までの距離。
マーレが番号を読み上げ、シアが印を置く。
ヴァンが通行時の足場を確かめる。
リオはその間を行ったり来たりする。
昼前。
道は、山肌へ貼りついた古い階段に変わった。
谷側には低い石壁。
山側には崩れた斜面。
階段の途中に、測量用の荷をいったん置いた。
白い標識杭の束が二つ。
一本ずつ番号が振ってある。
一束は、いま歩いている本道用。
もう一束は、下の斜面へ迂回線を取る場合に使う予備だった。
「先に飯」
ヴァンが言った。
誰も反対しなかった。
少し広い踊り場へ座る。
リオは腕を膝に乗せる。
ちょうどパンを半分食べたところで、両腕から力が抜けた。
「あ」
パンは落とさなかった。
口の中にあったからだ。
ヴァンが見る。
「五?」
リオは頷く。
倉庫街の鉄門を開けたときの腕力。
返済が来た。
五秒。
今日は座っている。
困ることはない。
一秒。
二秒。
マーレが水を飲む。
三秒。
シアは干し果物を食べている。
四秒。
五秒。
力が戻る。
リオは残りのパンを持った。
「終わり」
シアが聞く。
「これで返済待ちなし?」
「なし」
「全部使える?」
「十秒」
「使う予定?」
「今はない」
シアは小さく頷いた。
なぜか、それだけで少し疑われた気がした。
*
飯を片づけた直後だった。
斜面の上で、石が一つ転がった。
小さい。
拳くらい。
階段へ落ちる。
跳ねる。
そのあと、土が続いた。
「離れろ!」
マーレが言う。
四人が踊り場の端へ寄る。
大崩れではない。
山側の浅い土だけが滑った。
ただし、置いていた荷に当たった。
標識杭の束が一つ、階段の下へ落ちた。
ころがる。
二段。
三段。
最後は、崩れた石壁の向こうに残った細い平場で止まった。
もう一束はヴァンが足で押さえていた。
土が止まる。
少し待つ。
マーレが斜面を見る。
「これ以上は来なさそう」
シアが残った束を拾う。
「一束あれば本道は取れる」
リオは下を見る。
落ちた束。
距離は遠くない。
階段から直接は行けないが、石壁の外へ出て、崩れた段差を二つ越えれば届く。
「下の線は?」
リオが聞く。
マーレが答える。
「予備杭があれば細かく取れる。なくても概略は書ける」
「じゃあ取ろう」
シアが言う。
「置く」
リオが見る。
「取れるよ」
「取れるかじゃなくて、要るか」
「あるほうがいいんだろ」
「いい。でも今日の報告に必要なのは一束」
マーレは落ちた束を見る。
「下の迂回線まで精度を上げられるのは確か」
ヴァンが空を見る。
西側に雲が出ている。
雨雲ではない。
ただ、山の日暮れは早い。
「何分」
リオが聞く。
「取りに行くだけなら?」
ヴァンが聞き返す。
「五分」
シアが鼻で笑った。
「帰りまで入れて?」
「七分」
「標識打ち直しもある」
マーレが言う。
ヴァンは少し考えた。
「十分」
「何が」
「十分で戻る。超えたら呼び戻す」
リオは笑う。
「了解」
「借りるなら先に言え」
「脚二、平衡二」
シアがこちらを見る。
「四秒使うの?」
「そのほうが早い」
「十分あるのに」
「早く戻れば、そのぶん下の線も見られる」
シアは何も言わなかった。
止めもしなかった。
*
石壁を越える。
脚二秒。
平衡二秒。
未来の四秒分を、今の二秒へ重ねる。
一段目。
崩れた石へ足を置く。
二段目。
谷側へ傾いた細い平場へ飛び降りる。
平衡の上乗せで着地を戻す。
二秒。
終わり。
あとは普通に歩く。
標識杭の束を拾う。
肩へ担ぐ。
戻りは急がない。
借りたのは、行きだけだった。
「四分」
戻ると、ヴァンが言った。
「七分って言っただろ」
「余った」
「時間は返済できないぞ」
シアが言った。
「使える」
リオは落ちた束をマーレへ渡す。
「下も見る?」
マーレは標識杭を見る。
少し考える。
「見る」
シアがため息をついた。
でも、反対はしなかった。
*
下の迂回線は、思ったより良かった。
本道の階段は短い。
ただし急だった。
荷馬車は無理。
下側は遠回りになる。
その代わり、斜面が緩い。
回収した予備杭を使い、シアが曲線を細かく取った。
最後の一本を打ったところで、マーレが地図を見る。
「これなら荷馬も行けるかも」
ヴァンが傾斜を見る。
「雨の日は?」
「排水見てから」
シアが答える。
リオは少し嬉しくなった。
「取ってよかった」
シアは地図から顔を上げない。
「役には立った」
「でしょ」
「そのせいで遅れた」
「まだ明るい」
「今日の寝床、まだ作ってない」
それはそうだった。
*
野営地へ着いたころには、空が青ではなく灰色になっていた。
暗くなる前にやることが多い。
水。
薪。
寝床。
道具の乾燥。
明日の測量箱の整理。
リオも黙って動いた。
ヴァンと一緒に天幕を張る。
マーレが水を汲む。
シアが杭の番号を帳面へ写す。
「手伝う?」
リオが聞く。
「自分の寝床先にやれば」
「もうやった」
「じゃあ薪」
「取った」
シアが顔を上げる。
「早いな」
「四分で戻ったから」
「そこ自慢する?」
「役立ったし」
シアは帳面を閉じた。
「役立ったよ」
今度ははっきり言った。
「でも、私はたぶん置く」
「杭?」
「今日の条件なら」
「四秒が惜しい?」
シアは少し考えた。
「四秒だけじゃない」
「じゃあ何」
「返済待ちが増えるのが嫌」
焚き火の向こうでヴァンが聞いている。
マーレは鍋を混ぜていた。
シアは続ける。
「仕事中は、だいたい四秒までにしてる」
リオが瞬く。
「上限?」
「自分の」
「十秒使えるのに?」
「使える」
「四秒で足りなかったら?」
「その時に考える」
「毎回?」
「毎回」
リオは少し笑った。
「面倒じゃない?」
「十秒まで埋めて、次に何か来るほうが面倒」
「今日みたいに、使ったら役立つこともある」
「ある」
シアは否定しなかった。
「だから、取ったことには文句ない」
「さっきずっと嫌そうだった」
「今日の寝床が遅くなったことには文句ある」
ヴァンが笑った。
「それは俺もある」
「ヴァンまで?」
「寝床は早いほうがいい」
リオは二対一になった気がした。
マーレが鍋を置く。
「食べるなら皿出して」
話はそれで終わった。
リオは自分の皿を出した。
四秒。
十秒。
どちらも使える。
どちらが正しいという感じは、まだしなかった。
ただ、シアは本当に四秒くらいで止めるらしい。
明日は、もう少し見てみようと思った。




