第9話 王都で待っていたもの
「ただいま、トマス」
アイリスは下町の自宅に戻ると、大喜びをした牧羊犬のオイスターと白猫のカカオが飛びついてきた。
「オイスター! カカオ! お留守番頑張ったわね」
アイリスはかがみ込んでオイスターの首に両手を回し、ふかふかした毛並みにキスをした。
次に、なーお、と鳴くカカオを抱き上げて、その柔らかな体に鼻先を埋める。
「奥様、お帰りなさいませ」
トマスが年老いた顔に皺を寄せて、微笑んだ。
「留守をありがとう」
「ご無事のお帰りで、何よりでございます」
セイラもトマスと挨拶を交わしている。
「トマスさん、わたし、奥様にお茶を用意いたしますね。荷物をお願いしても?」
「ええ。ではさっそくお部屋に運んできましょう」
二人はてきぱきと分担して動いていく。
アイリスは一階の居間に入ると、小さな巾着とストールをソファの背にかけた。
ふう、と少し疲れた顔で室内を見回す。
何もかもがいつもどおりだった。
きちんと、あるべき場所にあるべきものが置かれている。
クッションが両側にきちんと並べられたソファ。
手が伸ばしやすい位置に置かれた、コーヒーテーブル。
暖炉の上の壁に掛けられている、アイリスとユーグ、それぞれの家族の肖像画。
表通りではなく、小さな裏庭に面した窓。
窓から見える、膨らみ始めた蕾を付けた、バラの茂み。
庭に続くテラスに降りられるガラス張りのドア脇には、アイリスが庭の手入れの際にかぶる、素朴な麦わら帽子がいつもの場所に掛けられていた。
いつもどおりに整えられていることに安心して、アイリスはソファに腰を下ろした。
「奥様、二階のお部屋もきちんとしておりますよ。せっかくだからと、留守中にトマスさんが掃除夫を二人入れて、大掃除をしてくれたそうです。留守中のお手紙は奥様の書斎にありましたが、こちらでご覧になりますか?」
お茶の支度を整えてワゴンを押してくると、セイラがアイリスに尋ねた。
トマスも留守中の報告をしたいに違いない。
アイリスは手紙を居間で見ることにした。
「ええ。そうするわ。持ってきてくれるかしら?」
「かしこまりました」
ティーポットからお茶をカップに注ぎ、お茶菓子をテーブルに並べると、セイラは二階に上がっていった。
しばらくして手紙の束を持って戻ってくる。
「……たしかに、多いわね」
アイリスは思わず真顔になって、持っていたティーカップをテーブルに戻した。
セイラが普段手紙を載せる銀盆ではなく、大きめの書類箱に入れて、手紙を運んできたからだ。
トマスも二階から戻ってくる。
「奥様、そうなのでございます。お手紙にてご連絡した件なのですが……突然、たくさんのお手紙が届きまして。しかも、その……」
いつも穏やかなトマスが、何やら言いにくそうにしている。
アイリスは手紙を入れた箱をソファに置き、上から一通取り出した。
「……夜会の、招待状?」
アイリスは差出人を見た。
差出人は、とある伯爵家令息。
独身の紳士である。
「どういうことなの? おかしいわね」
アイリスは目を細めて、次の手紙へ。
「新作舞台鑑賞のお誘い? ——侯爵家のご当主から?」
「そちらも……未婚の方でございます。しかも同様のものは他にも」
トマスがそっと付け足した。
「これは。お茶会の招待状?」
「はい。複数のご婦人から、お茶会のご招待が届いています」
アイリスの表情はますます困惑の色を深める。
「なぜこんなに急に。招待状ばかりが来たのかしら?」
アイリスは細い指先でガサガサと箱をかき回し、さらに一通、手紙を取り出した。
そこには外国の貴族家の紋章が押されていた。
眉を寄せながら、アイリスは手紙を開封して読み始める。
そして——。
「なんなの、これは!?」
アイリスはばん!! と手紙を床に叩きつけた。
「お、奥様!?」
トマスとセイラがあわてて手紙を取り上げる。
「トマス、セイラ、いいからあなた方も読んでみてちょうだい。どういうことなの、これは。ふざけているのかしら?」
トマスとセイラはおそるおそる手紙を開き、目を走らせた。
「「シンプソン夫人に、当家嫡男の閨教育のご指導をお願いいたしたく」」
「閨教育!?」
セイラが思わず声を上げ、トマスがあわててセイラの手から手紙を取り上げた。
「奥様。これは、なんとも失礼なお話ではありませんか」
憮然としてトマスが言ったが、アイリスは首を振った。
「そうよね。でも、もしわたくしが本当に未亡人になったとしたら、それほど失礼ではないかもしれないわね。まあ、それにしても、未亡人になって数日後にこんな提案をするのも早すぎると思うけれど」
「……!!」
「ここを見て。『お若くして未亡人になられたこと、心より同情申し上げます。この度の件につきましては、当家の嫡男にご指導いただけましたら、謝礼は十分な額をご用意いたしますので』——とあるわ。つまり」
アイリスは不穏な目をしながら、低い声で言った。
「わたくしが未亡人になったと思われているのよ。いったい、どういうことなのかしらね? ユーグの死は公表されていないはず。葬儀などもいっさいしていないのに、どうしてこの人達はわたくしが未亡人になったと思っているのかしら?」
トマスとセイラは沈黙した。
しかしトマスは意を決して顔を上げると、話し始めた。
「……公表前に届いたというなら。理由のひとつは、他に先んじて、ということもあるかと。もしや王都の社交界で、噂らしきものが流されているのやもしれません。そしてその噂に踊らされた輩もいるのでしょう」
トマスが鼻に皺を寄せて、低い声で言う。
「まったくもってけしからんと言わざるを得ませんな、奥様。きっと奥様がまだお若くて、ご聡明で、とてもお美しくていらっしゃるから、他の男に取られる前に声をかけようと思われたのではありますまいか——当家にとって、まったくの侮辱でございます!!」
実直でまっすぐなトマスは、自分でそう言っている間に腹が立ってきたのか、拳を握って、ふるふると震えている。
馬車旅の疲れは一瞬で吹き飛んだ。
アイリスは怒りで顔を赤くしながら、立ち上がった。
「何か気持ち悪いことが起こっているのよ。トマス、セイラ、わたくしは、これを放ってはおけないわ」
全員が目を合わせて、しっかりとうなずきあった。
愛妻である自分がまだ何も知らないのに。
勝手に死んだことにされるものですか……!!
わたくしが、真相を突き止めなければ。
しかも、閨教育。
(——お陰で涙も吹っ飛んだわ。泣いている暇なんて、ない! 冗談じゃないわ。ユーグ、わたくし、戦いますからね……!!)
アイリスは、心を決めた。
その日の午後、シンプソン男爵家から、二通の手紙が発送された。
一通は、アイリスの父である、ノーフォーク侯爵へ。
もう一通は、ユーグの属するノール王国王宮騎士団長に宛てた手紙だった。




