第8話 黒のドレスと、黒の手帳
アイリスが実際に散歩に行こうと決めたのは、その日の午後のことだった。
「奥様、お召し物はどうなさいますか?」
外に出るために支度を整えるアイリスに、セイラは何枚かドレスを抱えて、広げて見せた。
アイリスの好きな深緑色のドレス。
落ち着いた風合いの、灰色のドレス。
明るいアプリコット色のドレス。
しかし、アイリスは何度も視線を往復させた挙句、自分自身で衣装戸棚の前に立った。
アイリスがどれくらい長く別荘に滞在するかわからなかったので、セイラは結構しっかりとした数のドレスを持ち込んでいた。
セイラが見守っていると、アイリスは黒のドレスを選んだ。
「セイラ、このドレスにしましょう」
黒、といっても、シフォン生地のそれは軽やかで、喪服のようなドレスではない。
「わたくし、明るい色のドレスは、今は着られない」
そんなアイリスにセイラは何も言葉を挟まず、散歩のために軽く髪を整えた。
髪はすっかり上げてしまわずに、ハーフアップにして、ゆるく巻いた長い髪がふわりと背中に流れる。
部屋を出る前に、アイリスはテーブルの上から、黒の手帳を取り上げた。
手帳は、まるでアイリスを待っているように見えた。
(外出する時はいつも持って行くのだもの)
アイリスはそう自分に言って、手帳をそっと、ドレスのポケットへと滑り込ませた。
***
セイラがグレーのパラソルを差してくれる中、アイリスはゆっくりと別荘の周りを歩いていた。
夏の花が咲き、草木は青々と茂っている。
数日ぶりに感じる、外の空気は清々しい。
アイリスは花の香りを、深く吸い込んだ。
「ノーフォーク侯爵ご夫妻には、お知らせしないのですか?」
セイラの問いに、アイリスは首を振った。
「今はまだ、何も言いたくないの。もうお姉様から連絡が行っているかもしれないけれど——わたくしからは、まだ」
アイリスはセイラを見つめた。
セイラは気遣わしげな表情でパラソルを握っていた。
「……ユーグはまだ死んだと決まったわけではないと思うの」
アイリスは言葉を絞り出すようにして言った。
「でも、お父様にユーグが死んだかもしれない、そう告げてしまったら、まるで本当にユーグが死んでしまったかのような気持ちになると思うの」
「アイリスお嬢様——」
「お母様はわたくしを心配するでしょう。お父様はわたくしに侯爵家に戻るようにと言うでしょう。侯爵家には、後継がいないわ。わたくしが結婚していても——いずれ爵位を継いでほしいとお父様が願っていらっしゃること、わかるの。わたくしは次女だけれど、子どもはいないし。ノーフォーク一族に伝わる——あの力を受け継いでいるから」
アイリスは目を閉じた。
(——考えなければいけないことが多すぎる)
ノーフォーク一族に伝わる力。
侯爵家の二人の娘達。
共にその力を受け継いだが、姉であるマーガレットは、すでにノール王国のランバート侯爵家に嫁ぎ、子どもも産んでいる。
ランバート侯爵夫人であるマーガレットが、今後ノーフォーク侯爵家に戻ることはないだろう。
(わたくしに、子どもはいない)
自分の体に受け継いだ異能。
あれから一度も使っていないが、その力はまだ自分にあるだろう。
アイリスは首を振った。
(ううん。今はそんなことを考えている場合ではないわ。まず、ユーグのこと)
アイリスはセイラを見た。
「向こうのベンチで少し座りましょうか」
「はい、奥様」
アイリスは屋外に置かれたベンチに腰を下ろした。
ポケットに入れていた黒い手帳を取り出す。
セイラはそんなアイリスの様子を、黙って見守っていた。
落ち着いて考えてみれば、ノール王国の王宮騎士団に属しているユーグが死亡したのに、騎士団から何の連絡がないのもおかしい。
「あの手紙の差出人は、誰だったのか」
アイリスは手帳を開いた。
そういえば、差出人をよく確認しなかった。
手紙を持ってきた騎士の身分も、結局わからずじまいだ。
執事のトマスも確認できていない。
(あの手紙に書いてあったことが正しいとは限らない……!)
○ユーグの死、要確認
簡単にそう書いてみる。
そう書くだけで、ただ悲しむだけでなく、何かすることが見えてくる気がした。
「もう一度、マーガレットお姉様に会って、近衛騎士団長のお義兄様への協力をお願いするわ」
○ノール王国国王、ジグムンド陛下
アイリスは続けて記す。
「マーガレットお姉様に、国王陛下への個人的な謁見が可能か、伺いましょう」
アイリスのひとりごとを聞いても、セイラはじっと黙っている。
アイリスはユーグと共にノール王国に正式に移住した際、挨拶するためにジグムンドに会っている。
しかし、自分から求めてジグムンドに会ったことはない。
今回もきっと会ってくれるとは思ったが——。
男爵家当主であるユーグがいない中、どうやって謁見を願うのか、その手順も確認しないといけない。
「まずは、王宮騎士団長でしょうね。ユーグの直属の上司になるわけだから」
「……さようでございますね。では、お手紙を?」
アイリスは思案した。
「王都に戻ってから手紙を書くわ」
「はい、奥様」
セイラがそう言った時だった。
別荘の台所のドアが開き、エミルが何かを振りながら声をかけている。
「奥様! 王都からお手紙が届いております!」
ちょうど午後のお茶の時間だった。
アイリスはセイラとともに別荘に戻り、一階のサロンでお茶とともに手紙を渡されたのだが——。
そこに書かれていた衝撃の内容に、アイリスは目を丸くすることになる。
アイリスは王都に戻ることを、決意した。




