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黒衣の男爵夫人は、最愛を想いながら今夜も手帳を開く  作者: 櫻井金貨


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第7話 アイリスの心

「奥様」


 アイリスはセイラの呼びかける声で、目を覚ました。


「ん……」


 ゆっくりと目を開き、手足を伸ばす。


 全身が軽かった。

 ずっとぼんやりとしていた頭も、すっきりしている。


「セイラ」


 アイリスは声に出して、むせた。

 軽く咳をする。


「奥様、お水をどうぞ」


 アイリスは体を少し起こすと、セイラから差し出されたグラスを手にして、ごくごくと飲んだ。


 小花模様が散った愛らしい壁紙の張られた部屋だった。

 緑色に塗られた窓枠。

 おろされたままのカーテンの外は明るい。


 アイリスはベッドの上に、きちんと起き上がった。

 ベッドの脇に置かれた椅子に座っているセイラを見る。


「セイラ。わたくし、どのくらい寝ていたの?」


 セイラはアイリスが飲み干したグラスを受け取り、テーブルに戻した。

 テーブルにはお茶のセットも並べられている。

 セイラは微笑んだ。


「朝でございます。奥様はとてもお疲れだったのでしょう。昨日、一階のサロンでお茶を召し上がられた後、そのまま眠られて。お目覚めになることもなかったのですよ」


「まあ」


 アイリスは目を見開いた。


「今日は、消化のよいものがよろしいですね。ミンナさんがスープを作ってあります。パンも焼きたてですわ。お茶を飲んで、まずは少し何かお食事を取られては。入浴はその後に」


「そうね」


 アイリスはベッドを出た。

 セイラがアイリスの肩にガウンを着せかける。

 アイリスの微笑みは弱々しかった。

 困ったように眉が下がる。


「本当ね。疲れていたみたい。でも、今朝は気分はいいわ。お腹も少し……空いているみたい」


「それはようございました、奥様」


 アイリスはゆっくりと朝の紅茶を飲んだ。

 お茶が喉を通るごとに、体も少しずつ温まっていくようだった。


 セイラが朝食を運んできた。


 湯気の立つ熱いスープは、じゃがいもとにんじんとエンドウ豆のスープだった。

 塩漬け肉が入っている。

 スープに添えられているのは、少し酸味のあるライ麦のパン。

 添えられている濃厚なバターと風味が合って、おいしかった。


 アイリスはふと、開けられたカーテンの向こうに広がる景色を見た。


 まるで波のように揺れる、夏の草原が広がる。

 遠くに見える、樹肌の白い木々は白樺だろうか。


(その向こうに見えるのは、湖ね)


 行ってみたい、アイリスは思った。


 ユーグのことは心から離れない。

 考えなければいけないことは、たくさんある。


「今日は……少しお散歩などなさいますか?」


 まるでアイリスの心を読んだかのように、セイラが問いかける。


「ええ」


 アイリスはそう答えた後、瞳を揺らせた。

 散歩をする、ただそれだけなのに、アイリスの心は罪悪感で押しつぶされそうになる。


(散歩?)

(ユーグの生死も、真相もまだわからないのに——?)


 すぐに言葉を継ぎ足す。


「……でも今日は止めにする。たぶん、明日なら」


 セイラは「それがようございます」と受け止めた。

 アイリスは朝食のテーブルで目を閉じた。


 涙があふれてきそうだったのだ。


 アイリスはきゅっと銀のスプーンを握り直すと、スープを口に入れることに集中した。


 この日、アイリスは黒の手帳を開くことはなかった。


***



 そして二日後の朝。

 アイリスは別荘の一階にある居間にいた。


 居間の一角にある、八角形に作られた出窓のある一角に、丸い朝食用のテーブルが置かれていて、朝食を取るために使われていた。


 アイリスはセイラに椅子を引かれて、席に着く。

 朝食の席からは、白いレースのカーテンで飾られた出窓の向こうに、鉢植えのゼラニウムが置かれたウッドデッキ、その先に広がる緑色の芝生が見えた。


 芝生の先には木製の柵があり、柵の外には一面の草原が広がっている。


 アイリスは熱い紅茶が入ったカップを手にすると、ぽつりと言った。


「きれいな景色ね。今日は少し歩きたいわ。別荘の近くも歩いてみましょう」


 何も解決していない。

 それでも、なんだか今日は少し、体に力が湧いてきたかのような、そんな気がする。


 テーブルの上には、卵料理とソーセージが載った温かな皿。

 藤のカゴに入った自家製のパン。

 ガラスの器に入ったバターとコケモモのジャム。


 とろりとしたじゃがいものポタージュからは、湯気が立っている。

 六つに割られたオレンジの載った小皿が、目にもあざやかだ。


 ミンナとセイラの心遣いが形になっているように感じられた。


 ここは、安全な避難場所。

 でも——永遠にここにいるわけにはいかないことは、わかっている。


(動き出さなきゃ)


 アイリスは心を決めた。


 現実に立ち向かうのだ。


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