第6話 別荘へ
「アイリスお嬢様、ごらんください。別荘が、見えてきましたよ。ほら、向こうに」
マーガレットが訪ねてきてから二日後。
アイリスと侍女のセイラは、ランバート侯爵家の別荘に向かう馬車に乗っていた。
他に誰もいない馬車の中では、セイラもつい、アイリスを昔のようにお嬢様呼びしてしまう。
アイリスを少女の頃から知っているセイラ。
そんな彼女が付いていてくれる安心感を感じながら、アイリスも顔を上げて、窓の外に視線を投げる。
ランバート侯爵家の別荘といっても、マーガレットが夫であるランバート侯爵から個人的に贈られた、こじんまりとしたコテージである。
何が本当かわからない状況で、少し気分が落ち着くまで王都を離れてはどうかと、マーガレットが別荘で過ごすことを提案してくれたのだった。
アイリスは迷ったものの、場所を離れて考えてみるのもいいと思い、最終的には申し出を受け入れた。
『長くはいないわ。数日だけ、滞在するつもり』
『奥様、留守中のことはご心配なさらないように。何かあればすぐご連絡します』
アイリスとトマスはそんなやりとりを交わし、アイリスはこうして別荘にやって来たのだった。
牧羊犬のオイスターと白猫のカカオは、迷ったけれど連れて行かないことにした。
初めて行く場所なので、様子がわからない。彼らにストレスになってはよくない。
それに自分もいつものように彼らの世話をしてやれないかもしれない。
アイリスはそう思ったのだ。
馬車はすでに別荘の敷地内の車道へと入った。
アイリスは背中に入れたクッションに体を預け、弱々しく微笑んだ。
「……わたくし、いざとなったら、一人では何もできないのね」
セイラは黙って首を振った。
「今は、お心が大変、疲れていらっしゃるのです」
セイラはそう言うと、座席に置いているバスケットを開け、そっと黒の小さな手帳をアイリスに差し出した。
「アイリスお嬢様、まずは日記を書くことから始められては? 書くことで、物事が整理されてくるかもしれません」
アイリスは手帳を受け取った。
それは何も特別なことはない、小さな手帳だった。
アイリスはその手帳に、思いつきでいろいろなことを書き記している。
食事のメニューを書いたページもあれば、気に入った町の名前が走り書きされていたり。
買い物リストを書いたページもあれば、お茶会での令嬢達の会話が書かれたページもある。
ユーグに思わず言ってしまったように、思いついて物語のアイデアを書き留めたページも。
「そうね、日記……」
アイリスはつぶやいた。
日記に書くだけなら、誰かを傷つけることも、心配させることもない。
この手帳は自分しか読まないのだから。
「それなら、できるかもしれない」
アイリスは黒い手帳の表紙を、そっと撫でた。
その時、馬車が止まった。
別荘に着いたのだ。
セイラはさらにバスケットから小さな缶を取り出した。
「どうぞ。——気分が少し、ほぐれるかもしれません」
セイラが差し出したのは、自家製の小さなカモミールキャンディ。
蜂蜜が入っている。
小さな庭で育てているカモミールとミントを使って、料理番のグレタが作ってくれたものだ。
ノール王国ではこうしたキャンディを作って、長い冬には喉をうるおすために口にしたりする、グレタはそう言っていた。
「ありがとう」
まるで魔法のバスケット。
バスケットの中から出てくるのは、心優しいセイラの思いやりだ。
アイリスはそっと、かすかに金色をしたキャンディを口に入れる。
「グレタが、ご旅行中に召し上がれるようにと作ってくれたんです」
ほのかな甘さが口の中に広がり、アイリスはかすかに微笑んだ。
「さ、奥様。出ましょうか」
セイラが声をかけた。
アイリスが姿勢を戻し、セイラが手早く手荷物をまとめていると、馬車の扉が開いた。
「奥様、お気をつけて」
御者に助けられて馬車を降りると、目の前には、こじんまりとして可愛いコテージが建っていた。
茶色いレンガ造りの建物で、屋根が赤いのがまるで絵本の中から飛び出してきたかのよう。
窓枠は緑で塗られ、コテージを囲むように整えられた庭では、たくさんの花が咲いていた。
つるバラのアーチが正面にあり、その先には玄関扉が見える。
玄関前で立ってアイリスを待っているのは、まるで双子のようによく似た老夫妻だった。
アイリスは目を見張って、目に入る光景を眺めた。
アイリスが今、何よりも欲しかった、穏やかな空気がそこにあった。
「シンプソン夫人、ようこそおいでくださいました」
そう言って二人は深々と頭を下げる。
「私は別荘の管理を任されているエミル、隣は妻のミンナでございます」
再び、二人は頭を下げる。
「マーガレット奥様からご指示をいただいております。何もないところですが、どうぞごゆっくりとお過ごしくださいませ」
別荘の周囲はどこまでも草原が広がっていて、遠くには銀色にキラキラと光る湖が見える。
アイリスはすうっと深呼吸をした。
空気の中には、どこからか漂ってくる、花の香りがあった。
「ありがとう。お世話になります。わたくしはマーガレットお姉様の妹のアイリス、こちらはわたくしの侍女のセイラです。どうぞよろしくね」
セイラも頭を下げた。
「エミルさん、ミンナさん、どうぞよろしくお願いいたします。私もお手伝いをしますので、遠慮なく言いつけてくださいね」
セイラが明るく言うと、老夫婦は微笑みを深くした。
「お美しい奥様に、お若い侍女の方もいらして。賑やかになって私達も嬉しいですよ。さあ、どうぞお入りください。中をご案内いたしましょう」
御者はアイリスの荷物を玄関に入れると、馬車を車庫へと移動させていく。
御者と馬車もマーガレットが用意してくれていて、アイリスの滞在中は別荘で待機してくれるのだ。
王都に戻る際も、家まで送ってくれることになっていた。
別荘での滞在の間、アイリスが心配するものが何もないように。
マーガレットのそんな心遣いを、アイリスはしっかりと感じ取っていた。
「素敵なところですね、奥様」
二人きりではないので、セイラもアイリスを奥様呼びに戻す。
それにうなずきながらアイリスは言った。
「本当。こんなにしてくださって、お姉様には本当に感謝しかないわ」
***
アイリスとセイラは別荘の一階にあるサロンに座っていた。
ミンナに連れられて、すでに一階と二階の部屋は見て回っていた。
アイリスの部屋は二階の東向きの角部屋。
続きになった控えの部屋があり、そこはセイラが使える。
「可愛らしいお部屋でしたね、奥様」
セイラが感心した様子で言う。
別荘の内部はクリーム色の地に花柄の壁紙が張られており、ほとんどの部屋の家具は白に統一されていた。
そのため、室内はとても明るくて女性らしい雰囲気に満ちている。
「アイリス様、セイラさん、お茶をどうぞ」
台所に引っ込んでいたミンナがワゴンの上にお茶の用意を整えて戻ってきた。
ティーポットからティーカップ、シュガーポットなどの茶器はピンクの縁取りのある花柄模様で揃えられていた。
焼きたてのお菓子のバターの香りと、熱いお茶の香りがサロンに広がる。
「マーガレット奥様がお越しの際は、朝食が八時、昼食が正午、お茶が十時と三時、夕食が六時でご用意しています。伝統的な、ノール王国の習慣ですが——アイリス様はどうなさいますか?」
アイリスがうなずいた。
「ええ。その時間でお願いするわ」
「ではそのように」
ミンナはにっこり笑って、部屋を下がった。
静かだ。
別荘の中には、アイリスとセイラの他は、エミルとミンナしかいない。
別荘の外には草原が広がり、町の喧騒もなく、小鳥の明るい鳴き声が響くのみ。
時間がゆったりと流れていく。
アイリスは少し眠たくなってきたのを感じた。
「アイリス様、お夕食までお時間があります。少しお部屋でお休みになっては?」
優しいセイラの言葉に、アイリスは素直にうなずいた。
(そうね。今何かすることもない)
アイリスは立ち上がった。
別荘は迷うほどの広さはない。
階段を上がって、アイリスはすぐに自分のために用意された部屋に入った。
ふらふらと体が浮いているような感覚がある。
アイリスは迷うことなく、ベッドの上に体を横たえた。
すっと軽くなる意識。
(ユーグ)
最後に浮かんだのは、愛する人の、穏やかに微笑む姿だった。
あっという間に、アイリスは眠りに落ちていった。




