第5話 ランバート侯爵夫人
旅立ちの時に、ユーグが楽しげに笑っていた馬上の姿が忘れられない。
鼻の奥がつん、と痛んだ。
「奥様」
侍女のセイラの声が聞こえた。
家の一階にある居間に降りてきたアイリスは、セイラに促されるまま、ソファに腰を下ろしていた。
目の前のテーブルには、湯気の立つティーカップが置かれている。
セイラがアイリスの隣に腰かけると、白猫のカカオが体を伸ばして、アイリスの膝に乗った。
アイリスの足もとには、牧羊犬のオイスターが座っていた。
「奥様、少しお腹に入れないと、体に悪いですよ」
執事のトマスが銀のお盆にクッキーを載せて居間に入ってきた。
「料理番のグレタはもう帰りましたが、お食事は保温器に入っていますので。後で少しでも召し上がってください」
通いの料理番が帰宅したということは、もう夕食の時間を過ぎているのだろう。
アイリスは改めて時間の感覚がなくなっていたことに気がついた。
無言でティーカップに手を伸ばし、なんとかお茶を飲もうとするが、何をしても涙がこぼれてくる。
そんなアイリスの様子を見て、セイラは思いきった様子で口を開いた。
「奥様、ご実家に連絡を取っては」
「でも。ユーグが本当に……死んでしまったのかも、わからないのよ?」
死。
その言葉を口にするだけで、またアイリスの目から涙が次々に流れ落ちる。
セイラがアイリスの手をしっかりと支えた。
「だからこそです。状況がわからないからこそ、ご相談しては」
「お父様とお母様に心配をさせたくないわ。わたくしはもう結婚して家を出た娘だし、これでも男爵家の女主人よ。他家に頼ることはできないわ」
「それなら、せめて」
セイラはなおも言葉を重ねる。
「マーガレット様にお手紙を送ってみては?」
「マーガレットお姉様に?」
アイリスは顔を上げた。
アイリスの姉であるマーガレットは、ノール王国のランバート侯爵に嫁いでいる。
ランバート侯爵は近衛騎士団長なので、他の騎士団の様子にも通じているだろう。
一方、アイリスとマーガレットの父であるノーフォーク侯爵もローデール王国から出て、ノール王国に移り住んでいる。
すでにノール王国でも侯爵位を拝領しているが、もう若くはない両親に心配をかけるよりは、マーガレットに話すことの方が気持ちが楽に感じられた。
「……あなたはどう思う、トマス?」
アイリスが執事のトマスに問うと、トマスもまたうなずいた。
「お手紙を書かれるなら、本日中にマーガレット様のお屋敷に届けるよう手配いたします」
「でも、もう遅いでしょう?」
「ご心配なく、奥様。お届けできます」
トマスはそう言うと、微笑んだ。
アイリスもようやく心を決めて手紙を書き、そして翌朝になって——。
下町には不似合いな、貴族の家紋が扉に入った黒塗りの馬車が勢いよくシンプソン邸の前に停まった。
近所の人々が目を丸くする中、馬車の後部に立って乗車していた二人の従僕が地面に飛び降り、手早く階段を備え付け、馬車の扉を開けた。
一人の貴婦人が従僕の手を借りて馬車を降りると、足早に家の玄関前に向かった。
「アイリス」
うやうやしく玄関の扉を開けたトマスに会釈をしながら、マーガレット・ランバート侯爵夫人が入ってきた。
朝まだ早い時間だったが、柔らかな金髪はすっきりと巻き上げ、華美ではないが上品な淡いラベンダー色のデイドレスを身にまとっている。
まだ肌寒い時間帯なので、肩にはふわりとした暖かそうなショールを巻いて。
ほっそりとした指先は白のレース手袋で覆われ、左手には小さなレースの巾着を下げていた。
「ランバート侯爵夫人」
セイラが出迎え、カーテシーをした。
マーガレットは柔らかく微笑んだ。
「セイラ、久しぶりね。マーガレットでいいのよ。アイリスは?」
「サロンにいらっしゃいます。ご案内いたします」
セイラに案内されて小さなサロンに入ったマーガレットは、アイリスを見るなり、ぎゅっと両手を握りしめた。
「アイリス……!」
すばやく部屋を横切ると、ソファに座っているアイリスの隣に腰を下ろし、妹をしっかりと抱きしめた。
「アイリス。ね、本当なの? ユーグに大変なことがあったというのは?」
「マーガレットお姉様」
アイリスはそう言ったきり、言葉が続かない。
マーガレットはしかし、テーブルの上に置かれている手紙に目を留めた。
「読んでもいいかしら?」
マーガレットの言葉に、アイリスはうなずく。
「ええ」
マーガレットはちらりとアイリスの表情をうかがった。
アイリスは栗色の髪に明るい茶色の瞳、という姿に戻っていた。
姉であるマーガレットはもちろん、アイリスの本来の髪色と瞳の色を知っている。
そしてアイリスが姿を変えている理由も、知っている。
貴族の婦人としては地味な色合いに姿を変えているアイリスだったが、本来の顔だちの美しさは変わらない。
形のよいアーモンド型の目に、色白で小さな顔。
完璧に整った顔だちなのだが、普段なら表情豊かな目もとと口もとで、アイリスはいつも天真爛漫で愛らしい、可愛い妹だった。
——『完璧令嬢』と呼ばれた、ある時期を除いて。
しかし、ソファに呆然とした様子で座っている今のアイリスは、その頃の彼女ともまた違う。
生気がなく、きれいな人形のようだった。
「アイリス、お父様とお母様には……?」
「いいえ」
アイリスは首を振った。
「ご心配をおかけしたくないのです。わたくし、これでもシンプソン男爵家の女主人ですわ。シンプソン夫人として、たとえ実家とはいえ、他家に簡単に頼るわけにはまいりません」
マーガレットは手紙を取り上げると、読んだ。
その短い手紙は、すぐに読み終わる。
「アイリス——」
「わたくし、ユーグが死んだなんて、信じられません」
アイリスは姉の言葉をさえぎるように言った。
うつむいていた顔を上げる。
涙に濡れた顔。
それでも、アイリスはマーガレットをまっすぐに見て、言った。
「お姉様。わたくしはユーグが死んだとは思いません」
「アイリス」
「ユーグは、わたくしだけの騎士になると誓ったのです。わたくしに何も言わずに死ぬなんて。そんなことはありえません——!!」
アイリスはそう言うと、大きく見開いた目から、宝石のような涙の粒をこぼした。
「アイリス——」
マーガレットは思わずアイリスをぎゅっと抱きしめた。
それだけが、今、マーガレットが妹のためにできることだった。




