第4話 回想:ユーグが出発した朝
『ケガしないでね。無理しないでね。いつも無事でいてね?』
夫を見上げて、矢継ぎ早にアイリスが訴えると、ユーグは我慢できずにぷっと吹き出した。
アイリスは早朝にもかかわらず、栗色の豊かな髪を既婚婦人らしくきちんと結い上げ、ユーグの好きな深い森の色をしたドレスを身につけていた。
形のよいアーモンド型の目はきれいに見開かれていて、くるりと自然に巻き上がった濃いまつげに囲まれている。
小さな顔に合わせたかのような、高さも長さも完璧な鼻。
完璧なバランスの口もとは表情豊かで、ひゅっと口角が上がって微笑みを作ったかと思えば、不満そうにくちびるを尖らせたりもする。
少女の頃から変わっていない、ユーグの大好きなアイリスのいきいきとした顔。
黙っていたら冷たく見える美貌も、アイリスらしい豊かな表情のおかげで、けして冷たく見えることはない。
しかし今朝のアイリスは少し表情が硬い。
愛らしい口もとも、少し赤みが少ないようにも見えた。
大陸で最北に位置するノール王国では、夏の間は夜明けがかなり早い。
王都下町にあるシンプソン男爵邸の玄関先。
朝の空気は夏とはいえ、まだまだ肌寒かった。
一家の主人であるユーグ・シンプソン男爵が馬の準備を整え、出発前の最後の挨拶を愛する妻であるアイリスと交わしている。
アイリスの脇には、クリーム色をした牧羊犬のオイスターが座り、侍女のセイラが白猫のカカオを抱いている。
家のもう一人の使用人、執事のトマスは玄関ドアの前に立ち、主人夫妻を見守っていた。
『セイラ、アイリスに何か羽織るものを』
『はい、旦那様』
セイラはトマスに猫を預け、家の中に入ると、すぐに大判のショールを持って出て来た。
ノール王国の王宮騎士団の制服である、ロイヤルブルーの騎士服を身に付けたユーグは、まるで少女のように生真面目な表情をした妻に目を細めながら、そっときゃしゃな肩をショールで包んでやる。
『遠征先は機密事項で詳しく言うことはできないが、長くて一ヶ月と聞いている。アイリス、留守番を頼むよ。心配はしないで』
ユーグがそう言うと、アイリスは不服そうに眉を寄せた。
『騎士の夫が遠征に出るのに、心配しない妻はいないわ』
ユーグは緑色の瞳を和らげて、アイリスを困ったように見つめる。
二人のもともとの出身国である、ローデール王国でも、ユーグは騎士だった。
ユーグは王子の婚約者だったアイリスの護衛騎士を務めたこともあるくらい、実力のある騎士なのだ。
しかし、ノール王国の騎士団は想像の上をいった。
北国の大柄で屈強な男達に容赦なく鍛えられたユーグは今では体格が一回り大きくなり、剣を扱う右手には無数の傷が刻まれている。
ノール王国でも通用する、一人前の騎士に育ったユーグだったが、アイリスが大好きなユーグの森のような色の瞳は、いつも優しくアイリスに向けられている。
ユーグが上体を屈めて、アイリスの頬にキスをした。
それからアイリスの脇で行儀良く座っているオイスターの頭を撫でて言う。
『オイスター、アイリスを頼んだよ。カカオも』
陽気な犬のオイスターはふさふさとした尻尾を振り、マイペースな猫のカカオはトマスの胸で目を細めた。
『アイリス。困ったことがあったら、迷わずにお義父上や義姉上を頼るんだよ』
その思いがけない声の真剣さに、アイリスは大きく目を見開いた。
『ユーグったら。……そんなことを言われると、心配になるわ』
『ごめん。でも、アイリスはときどき思いきりがいいから。何かあった時が心配なんだ。きみは大人の女性だし、俺達は結婚して十年になる。きみが大抵のことは対処できるのも知っている。でも——それでも、自分ではどうしようもない時には、人に頼ることも覚えていてほしい。いいね、アイリス』
『ユーグ……!』
『たまには夫らしいことを言わせてくれ。……十年経っても、きみは全然変わっていない。あいかわらず天真爛漫で、泣き虫で、お人好しで、有能だ。それに——』
ユーグは真剣な顔でアイリスを見つめた。
『忘れないで』
ユーグはそっと右手の指先で、アイリスの右手の薬指にはめられた銀の指輪に触れた。
『いいね、きみの安全が、一番大切なのだから』
ユーグは言葉にはしないが、暗にあることを含めてアイリスに言い聞かせる。
『……わかったわ』
『いざとなったら、義姉上を通してジグムンド陛下を頼ることもできるだろう?』
一介の男爵夫人が、一国の国王を頼れと?
そこまで心配するユーグにアイリスは困った顔をするが、ユーグの意図はわかっている。
アイリスは素直にうなずいた。
『わかったわ。ちゃんとそうするから、心配しないで』
その言葉を聞いて、ユーグはようやく表情を緩めた。
アイリスはユーグのそんな顔が好きだった。
そっと視線を動かして、大好きな夫の顔を見つめる。
宮廷の紳士達とは違う、化粧っ気のない顔。
どこで付けたのか、頬にはかすり傷がある。
整った顔だちだが、美男、というのとは違う。
実用重視の短髪。
太い眉とはっきりとした目もと。
鼻は少し高めで、こっそりと本人が気にしているのをアイリスは知っている。
愛想笑いをしない口もとは厳しいが、自分には優しい表情を見せてくれる。
アイリスはそのすべてが大好きで、愛おしい。
『アイリス』
あまりにも妻がじっと自分の顔を見つめているので、ユーグは少し困ったように言った。
『一ヶ月なんてすぐ過ぎるよ。楽しいことをするんだ。きみはいつも何かを書いているだろう?』
『え』
『きみの黒い手帳。いつも持ち歩いてるの、知っているよ』
アイリスは真っ赤になった。
『い、いやですわ、ユーグ! あれは、ただの備忘録です! ただ見聞きしたことを書いているだけで——たまに物語のアイデアを書いたりはするけど——あわわわわ! け、け、けして秘密の手帳などではありませんのよ!?』
アイリスが慌てて言い訳を始めると、ユーグは今度こそ楽しげに笑い、馬にまたがった。
こうしてユーグはアイリスに手を振って、出発して行った。




