第3話 最愛の死(3)
今、アイリスの目には、家の中を寄り添いながら歩く自分とユーグの姿が、幻のように見えている。
アイリスは階段を上がり、二階の廊下に立っていた。
表情のない顔で、アイリスは周囲をゆっくりと見回す。
何度も磨かれた古い木の床。
廊下から見えるのは二つの扉だけ。
(なぜこんな時に、幸せな思い出が浮かぶのかしら)
アイリスは涙をこらえて、そっと頭を振った。
アイリスは静かに寝室に入ると、背後に扉を閉めた。
まっすぐ浴室に入り、洗面台の上に掛けられている鏡の前に立った。
ユーグがあちこち探し回って手に入れてくれた高価な鏡は、歪みひとつなく、アイリスの姿を映し出している。
握りしめていた紙を開く。
「『シンプソン男爵夫人、アイリス様。誠に残念ながら、ユーグ・シンプソン男爵が亡くなられたことをここにお知らせいたします』」
アイリスは声に出して読んだ。
「嘘よ……!!」
こらえきれず、アイリスは叫んだ。
ついにアイリスの目から、涙がこぼれ落ちた。
泣きながら、顔を上げる。
栗色の髪に、明るい茶色の瞳をして、落ち着いた深緑色のドレスを着た婦人が鏡に映っている。
襟もとは詰まっていて、真珠の飾りボタンがまっすぐに並んでいるドレスだ。
ドレスの素材は上質だが、装飾の少ないデザインで、富裕な高位貴族の家に勤める家庭教師のように見えなくもない。
しかし、男爵夫人という自分の身分には合っている、そうアイリスは思った。
(だって、わたくしはユーグの妻。シンプソン夫人なのだもの……!)
なのに。
なのに。
もう我慢できない。
貴婦人らしく振る舞うなんて、できない。
大きく見開かれた明るい茶色の瞳から、涙がぽたぽたと止まることなく落ちる。
そう、正式にユーグと結婚した時、どんなに嬉しかったことだろう。
侯爵令嬢だった頃に着ていたような、高級な素材、手の込んだ細工のドレスに別れを告げても、全然心は痛まなかった。
ユーグが隣にいてくれたから。
どんなドレスを着ても、ユーグはいつも微笑みながら褒めてくれたから。
アイリスは視線を落とした。
封筒の中に、まだ何か入っている。
震える指先で、封筒の中から引き出した。
「……!!」
銀の、細い腕輪だった。
繊細な蔓草の模様が刻まれたそれは、ノール王国に来てからお揃いで購入したものだ。
ユーグは腕輪。
アイリスは右手の薬指に同じデザインの指輪をはめている。
銀の腕輪がシャランと洗面台に落ちた。
アイリスは右手から指輪を抜いた。
次の瞬間、アイリスの栗色の髪が、あざやかな青色に変わる。
鏡を見つめる瞳は、神秘的な紫色だった。
「ユーグ」
アイリスはかたかたと震える指先で指輪をつまみ、銀の腕輪と並べる。
ところどころ形が歪み、乾いた血が散っている銀の腕輪と。
死————?
「——!!!!」
もう、こらえることはできなかった。
「なぜ!? どうして!? ユーグ、何があったの!?」
アイリスは叫んだ。
鏡に映る自分が、苦しげに顔をゆがめて、涙を流している。
「あなたは本当に死んでしまったの!? わたくしを置いて? ユーグ、答えて!! わたくしを一人にして平気なの!?」
アイリスは浴室の冷たいタイルの床の上に、崩れ落ちた。
洗面台の上にきちんと並べられていた化粧道具やヘアブラシが大きな音を立てて床に落ちる。
きちんと整えられていた青い髪が解けて、アイリスの白く小さな顔の周りに広がった。
「ユーグ、あなたは言ったじゃない。俺は、おまえだけの騎士なんだ、って! おまえが旅に出るなら、俺もついていくって!! そうして二人でこの国に来たんじゃない。それは嘘だったの? あなたは——もう、この世界に、いないの……?」
アイリスは絶望の中、よろよろと立ち上がって、洗面台の上に手をついた。
亡霊のように表情の抜け落ちた顔。
人々が完璧な美貌と讃えるその顔には生気がない。
紫色の瞳が、鏡の中から自分を見つめている。
止まることのない涙を流しながら。
そして思ってしまったのだ。
ほんの一瞬。
すべてを忘れたら、きっとこの苦しみも楽になるかもしれないと。
すべてを、忘れたら?
紫色の瞳が大きく広がったように見えた。
(わたくしには、できる。もし——わたくしが、心から望むのであれば)
アイリスは魅入られたように、鏡に向かってもう少し顔を近づけた。
(わたくしはその方法を知っている。記憶を。そうよ。記憶を消してしまえば、もう心が痛むこともない)
わたくしには、できる。
アイリスがそう思った次の瞬間だった。
「奥様!! ——アイリスお嬢様!!」
浴室の扉が勢いよく開けられ、侍女のセイラが飛び込んできた。
セイラの胸には、真っ白な猫が抱き抱えられている。
同時に、明るい茶色の毛並みをした大型犬も飛び込んできた。
「——セイラ……?」
「お待ちください、アイリスお嬢様! 早まってはいけません。ユーグ様の記憶を消してはいけません! オイスターも、カカオもいることを忘れないでください。アイリスお嬢様、もう一度——私と、トマスと一緒に考えましょう。まだ決めてはいけません。アイリスお嬢様、今は、大切なことは何も決めてはいけません!!」
セイラは泣きながらアイリスを抱きしめた。
白猫のカカオが喉を鳴らしながら、床に飛び降り、アイリスの足もとでくるりと回った。
牧羊犬のオイスターが、一声高く、ワオン! と吠えた。
いつもおだやかなオイスターは、滅多なことがなければ吠えることはない。
それだけに、愛犬の一声は、アイリスの心を打った。
うなだれて視線を落としたアイリスの手を、セイラはそっと握った。
「トマスが温かなお茶をご用意しています。どうぞ……居間に戻りましょう。ここは後で私が片付けます。今は階下でお茶を飲みましょう。皆で。一緒に」




