第2話 最愛の死(2)
かし、かし、かし。
寄木細工の床を歩く、犬の爪が床に当たる音がする。
『奥様』
『奥様』
何度も自分に呼びかける声。
若い女性の声は、侍女のセイラだ。
年配の男性の声は、執事のトマス。
ぺろっと心配げにアイリスの手を舐めたのは、牧羊犬のオイスター。
『奥様』
『奥様』
自分は何かの紙を手にしている。
「奥様……」
まるで水の中で響いているように、くぐもって聞こえてきていた音が、次第に鮮明になってきた。
アイリスは自分がまだ玄関に立ち尽くしていたことに気がついた。
ようやく、自分の手を握って懸命に話しかける侍女のセイラの声が、耳に入ってくる。
「奥様、聞こえますか? どうぞお返事くださいませ。少しこちらにお座りになって、お休みください」
「セイラ。あの方はもうお帰りに?」
「はい」
「トマス。あの方は、どちらの方か、おっしゃった?」
「それが。大切な用件なので、直接奥様に申し上げると」
アイリスは眉を寄せた。
「……何もおっしゃらなかったわね」
「はい。ただ、あの方はノール人ではないでしょう」
トマスの言葉に、セイラも相槌を打つ。
「着ていた服も、この国のものではありませんし、言葉のアクセントも、もっと南方の人間のもののように思いましたわ」
アイリスは何かを思案げにしていたが、頭を振ると、足もとに座っている大きな犬に視線を投げた。
「オイスターが悲しそうだわ。台所に連れて行って、何かおやつをあげてちょうだい。それに猫のカカオの姿が見えないわ。トマス、家の中を探してみてくれない?」
「……かしこまりました、奥様」
トマスは軽くお辞儀をして奥に向かったが、セイラはアイリスの手を取ったまま、不安げにアイリスを見つめている。
「奥様——」
「セイラ、わたくしは大丈夫よ。ちょっと上に行って、この手紙を読み直すわ。オイスターをお願いね。戸棚にクッキーがあったでしょう? オイスターはお腹が空いているのかもしれないわ」
アイリスは落ち着いてそう言うと、セイラに口を開く機会を与えず、一人で古い木の階段を上がっていく。
貴族街にある、貴族達のタウンハウスとは違う。
下町の庶民街にある、他の家々よりは大きな一軒家。
それがシンプソン男爵邸だった。
近所の人々はお屋敷と呼ぶけれど、高位貴族の生活を知っているアイリスにとっては、ごくごく簡素な住まいだ。
それでも、故国を追われ、身ひとつで飛び出したアイリスにとっては、厳しい状況にあった自分とユーグを守ってくれた家。
ユーグとの思い出がたくさん詰まった、大好きな家なのだ。
隣の家と軒を接し、家の前の小道では、近所の子ども達が賑やかに駆け回っている。
その様子に黙って目を丸くしたアイリスの肩を、ユーグは励ますように抱いた。
『古くて小さいけれど、いい家だよ。アイリス、一階には玄関の脇にサロン、食堂、居間、朝食室、台所があるんだ。二階には俺達の寝室と、もう一部屋あるよ。きみの書斎にしたらどうかと思うのだけど』
そう穏やかな声で言ったのは、茶色の髪を短く整え、アイリスが大好きな、森のような緑色の瞳をしたユーグ・シンプソン。
いい家だよ、そう言うユーグ自身だって、故国であるローデール王国では騎士団長令息だった。
その彼が言うのなら。
(わたくしにとっても、いい家よ)
何よりも、アイリスの愛する夫だ。
アイリスはユーグを全面的に信頼していた。
『……でも。当主の部屋がないわ。あなたの書斎も必要でしょう? わたくしはいいから、あなたの部屋にしては』
『きみも知ってのとおり、俺は根っからの騎士で、書類仕事には向いていない。ノール国王陛下に男爵位を頂いたが、領地があるわけでもないしな。必要なら食堂のテーブルで書くよ。きみは本を読んだり、何かを書くのが好きなんだから、一部屋自由に使うといい』
『まあ、ユーグ』
アイリスの小さな抗議は、優しいキスで封じられた。
『それより、俺達の寝室をきちんと整えよう。家の蓄えを少し使って、上質なベッドを買おう。それに美しい奥様には、使いやすいドレッサーも必要だろう?』
『まあ、ユーグ……』
アイリスはにっこり笑うと、背の高いユーグの首にしっかりと腕を巻きつけて、キスを返した。
ユーグは無言だったが、細められた目はキラキラしていた。
嬉しいのだ。
そんな様子を見られる自分も、すごく嬉しくなる。
アイリスも微笑んだ。
『セイラとトマスの部屋はあるのかしら?』
『一階に、使用人用の部屋がふた部屋ある。料理人は通いの人を頼もう。ここは下町だから、近所の料理上手で人柄のよさそうな奥さんに来てもらえると思うよ』
ノール王国にやって来てから、二人はずっと小さな家を借りて暮らしていた。
いよいよ、初めて、一軒の家を所有して暮らし始めるのだ。
アイリスはユーグの肩にもたれかかりながら、念願だった二人の新居を見て回った——。




