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黒衣の男爵夫人は、最愛を想いながら今夜も手帳を開く  作者: 櫻井金貨


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第1話 最愛の死(1)

「見て、お姉ちゃん! ほら、ぼく、竹馬に乗れたよ!」

「ニルス、こら! お姉ちゃんじゃなくて、奥様と呼びなさいってば!」


 そろそろ晩ごはん、という時刻。

 しかし北国であるノール王国では、夏のこの時期、太陽は夜中近くにならないと沈まない。


 灰色の石畳が細く伸びる下町。

 お互いの屋根が重なるくらい接している小さな家々が連なる。

 ひときわ大きな家の前では、竹馬に乗った子ども達がにぎやかに遊んでいた。


「いいのよ。ニルス、竹馬が上手ねえ」


 そう言って北の子どもらしい、プラチナブロンドのニルスにおっとりと微笑んだのは、ほっそりとした体を落ち着いた深緑色のドレスに包んだ若い婦人だった。


 栗色の髪を巻いて結い上げ、明るい茶色の瞳は優しげで、愛しそうに子ども達を見つめている。


 地味な色合いに、穏やかな物腰の婦人だったが、よく見るとその顔だちは完璧なまでに整っていて、たたずまいにも品があり——。


(まるで、貴族のお姫様みたいだ)


 婦人の完璧な形をしたアーモンド型の大きな目が柔らかく細められ、同じく完璧に整っている口もとがきゅっとほころんだ時、七歳のニルスは思わず顔を少し赤くした。


 一方、ニルスの母親は子ども達をニコニコと見守りながら、世間話を続けている。


「本当にねえ。こんな下町に、貴族の奥様が引っ越して来られるなんて、最初はびっくりしたもんですよ」


「しかも、本当にお綺麗で……! 最初は恐れ多くて声をおかけすることも無理でしたよ」


「まあ、そんな。普通にお話してくださいな。夫もわたくしも、本当にこの町の暮らしを気に入っているんです。貴族街はお家賃も高いんですもの。夫は根っからの騎士ですし、貴族といっても領地を持っているわけでもなし。生活しやすいのが一番ですわ」


 あっけらかんと、当の『貴族の奥様』が言い、にっこりと笑った。

 子どもを遊ばせている、他の女性達も立ち話に加わった。


「そうなんですよ、奥様。この辺りは治安もいいですし、何より、生活しやすいのがね、一番ですから」


 そうだ、奥様だった。

 ぼくも、奥様と言わなくちゃいけないんだった。


 ニルスははっとして、もごもごと口を開く。


「お、おくさま……?」


 慣れない言葉に照れる。

 照れたとたん、竹馬に乗っている足もとが怪しくなってきた。

 ニルスはバランスを崩して、竹馬から崩れ落ちた。


「「ニルス!!」」


 あわててニルスの母親と栗色の髪の婦人が駆け寄る。


「ニルス、大丈夫かい?」


 母親の問いかけにうなずいたニルスだったが、膝から血が出ているのに気づくと、泣き出してしまった。


「あらあら」


 栗色の髪の婦人が、そっと背後に控えている侍女に声をかけた。


「セイラ、消毒薬があったでしょう? 柔らかい布と一緒に急いで持ってきてちょうだい」

「はい、奥様」


 セイラは飛ぶようにして戻り、婦人に薬と柔らかい布を差し出した。


「大丈夫よ、ニルス。ちょこっと切っただけ。すぐお薬をつけてあげますからね」


 まるで本当の姉のように、優しい声。

 ニルスは泣いてしまったことも忘れて、大好きな『おくさま』にこくん、とうなずいてみせる。


 泣いているニルスの足もとに屈み込み、栗色の髪の婦人が消毒薬を浸した布を、そっと傷ついた少年の膝に押し当てた。


「ニルス、大丈夫そうね?」


 栗色の髪の婦人が尋ねると、少年は恥ずかしそうに「おくさま、ありがとうございます」と言って、ぺこりと頭を下げた。

 すぐに竹馬を楽しんでいる仲間達の方へ駆けていく。


「奥様、ありがとうございました」


 ニルスの母親も栗色の髪の婦人に頭を下げる。


「あら、いいのよ。気にしないで」


 そう婦人が返したところだった。

 様子を見守っていた若いお母さん達の一人が、タブロイド版の新聞を差し出した。


「奥様、王都新聞の最新版ですよ! もうご覧になりましたか?」


「まあ……!」


 栗色の髪の婦人の顔がぱっと輝く。


「ふふ。奥様は連載小説がお好きですものね?」


 続きはどうなったのかしら、と口々に言いながら女性達は新聞を広げた。

 すると、一際大きな見出しが飛び込んでくる。


「あ、これ。今話題ですよね。とある王子様の婚約者が突然亡くなって、新しい婚約者に平民の少女が内定したとか」


「奥様は男爵夫人でしょう。この話はご存知でしたか?」


「え? いいえ、知らなかったわ。ノール王国のお話じゃないでしょう?」

「なんでも、南の方の小さな王国らしいですよ」


 女性達がわっと盛り上がる。


「王子様の名前は、フランシスコだったかしら。シェファン王国の」

「そうそう。そんな名前のお国だったかも」

「ともかくねえ、まあびっくりなお話なんですよ」


「そうなの? それは気になりますわね…!」


 栗色の髪の婦人も興味を持って、タブロイド新聞を覗き込んだ。


 それはシェファン王国のフランシスコ王子の婚約者が突然亡くなり、裕福なカレンベルク商会の跡取り娘であるパルミラが新しい婚約者に内定したと伝える記事だった。


 いくら王族並みに裕福とはいえ、貴族ではない商人の娘。

 婚約者になったとはいえ、実際に結婚できるのか。


 婦人は無意識にドレスのポケットに手を入れると、小さな黒い手帳を取り出した。

 挟んであるペンを手に、しばし考え込む。


(たしかに、話題を呼びそうなお話ね。まるで小説のようだわ。宮廷貴族達も、きっと噂話に余念がないでしょうね……あら、わくわくしますわ)


 婦人は美しい筆跡でさらさらとメモを取っていく。

 その横顔はまるで女学生のように真面目で。

 近所の女性達はそんな彼女を微笑ましそうに見守っていた。


○登場人物


 シェファン王国、フランシスコ王子。

 死んだ前婚約者。

 新しい婚約者。

 カレンベルク商会のパルミラ・カレンベルク嬢。


 簡単なメモがすぐ出来上がる。


(本当。まるで物語のようね。平民の少女が王子の婚約者に。どんな理由があったのかしら)


 婦人がそんなことを考えていた時だった。


「奥様……?」


 はっとして、侍女セイラが声を震わせた。

 セイラの普段とは異なる声に、婦人は顔を上げた。


 逆光で、背の高い騎士姿の男性、としか判別できない。

 栗色の髪の婦人は、目の前に立った男を見上げた。


「……失礼いたします。あなた様がアイリス・シンプソン男爵夫人でよろしいでしょうか?」


***



「どうぞ、中へ」


 アイリスは騎士を屋敷の中に招き入れ、玄関脇の小さなサロンに案内しようとしたが、男はていねいに断った。


「お手紙をお届けにまいりました」


 玄関に立ったままで、そっと懐から出した書状を差し出す。


 静まり返った屋敷の中で、アイリスが紙をめくる音が響いた。

 顔色は青ざめ、表情は次第に凍っていく。

 アイリスは問いかけるように騎士を見つめた。


 騎士はうなずいて、淡々と述べた。


「はい。お気の毒ですが、ユーグ・シンプソン男爵はお亡くなりになりました」


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