第10話 謁見(1)
『聞こえなかったか? アイリス・ノーフォーク! おまえとの婚約を破棄する、そう私は言ったのだ』
ローデール王国の第二王子であるエドワード殿下は、そうわたくしに宣言したのだという。
わたくしは青い髪をハーフアップに結い上げ、ロイヤルブルーのドレス姿。
金の首飾りと耳飾りを付けていた。
十八歳だったわたくしは、そうして夜会会場で婚約破棄された——。
でも、わたくしの心に痛みはない。
今のわたくしはエドワード殿下と婚約していたことを、すっかり忘れてしまっているから。
わたくしの記憶に残るのは、体の下から感じた、冷たい大理石の床の感触だけ。
王子と婚約していた記憶は、わたくしの中から永久に消え去っていた。
その時のわたくしはきっと、迷子になった子どものように、途方にくれていたのだと思うの。
何が起こったのかわからない。
自分がどこにいるのかもわからない。
頭が真っ白になっていたんじゃないかと想像しているわ。
でも——。
『アイリス!!』
『アイリス!!』
必死に何度も呼びかけてくれたあなたの声。
その声が、わたくしの心をこの世界に繋ぎ留めてくれたのよ。
わたくしの目に入ったのは、まるで静かな森のような、緑色の瞳。
その瞳がまるで今にも泣きそうに見えて、わたくしは思わず両手を差し出した——。
***
アイリスはゆっくりと目を開いた。
あれは夢ではない。
過去の記憶の断片だった。
そういえば、エドワード王子が書いた、『アイリス・ノーフォークとの婚約は破棄。王家反逆の罪にて、国外追放。侯爵令嬢の身分は剥奪』というチマチマした汚い直筆のメモは、家のどこかにあるはずだ。
アイリスは捨てようとしたのだが、思いきり嫌そうな顔をしたユーグが「一応は証拠品だから保管する」と言って、どこかへ持って行ったのを覚えている。
案外几帳面なユーグだから、大切な証明書や公文書の中に入れたのかもしれない。
(もちろん、王家反逆の罪というのは、エドワード殿下が勝手に言ったことで、根拠はない。殿下は可愛い男爵令嬢と結婚したかっただけだと聞いたわ)
(後になってローデール国王陛下から国外追放と侯爵令嬢の身分剥奪を取り消すというお手紙もいただいたのだっけ。それもユーグが保管しているのかしら)
(もう十年以上経つのね……)
カタカタと王都の舗装された道を進む馬車の揺れが伝わってくる。
目の前には、心配そうな表情を浮かべた、侍女セイラの姿。
「奥様、まもなく王宮に到着します。ご気分はいかがですか?」
セイラの問いに、アイリスは静かにうなずいた。
数日前に、ノール国王ジグムンドに送った手紙。
その返信は、早かった。
詳細はなく、ただ謁見の日時が指定された手紙が返ってきた。
「大丈夫よ。しっかり支度をしてきたもの」
アイリスは目線を下げた。
アイリスが選んだのは、黒のドレスだった。
華やかなデイドレスではない。
明るい色のドレスを着たくない——。
そんな自分の気持ちに従った選択だった。
ただし、喪服には見えないように、素材とデザインには気を遣ったつもりだ。
つるりとしたシルクタフタの黒のドレスに、ハリのある黒のチュールを重ねている。
黒のドレスのシルエットは、シンプルすぎず、華美にはならず。
開いた胸もと、肘からふわりと広がる袖のラインは凝っていて、すらりとした体を華やかに飾ってくれる。
(喪服ではないわ。ユーグの死を、受け入れたわけではないのだから)
(それでも、ユーグの生死を確認するまでは、華やかなドレスは着たくない)
——この黒のドレスは、わたくしの戦いの衣装なのだわ。
アイリスは口もとを引き締めた。
令嬢ではない自分。
未亡人でもない自分。
夫にただ守られている貴族夫人でもなく。
貴族社会の中で、曖昧な存在になってしまった自分。
でも、『自分自身』は、わたくしが決めるの。
アイリスは馬車の中で、しっかりと背筋を伸ばした。
既婚の婦人に見えるように。
でも、若々しさは失わずに。
たっぷりとチュールを重ねた印象的なスカート部分は、黒のドレスに華やかさを添えてくれるはず。
(わたくしの気持ちはまだ、折れていない)
(わたくしにはまだ、行動する力がある)
(そう、印象づけることができるかしら?)
涙にくれる未亡人として、ジグムンドの前に立ちたくはなかった。
ユーグの死の知らせに動揺しつつも、本当のことを知りたいと立ち上がった、そんな自分自身の強さを見せたい。
謁見のために支度を整えていた時、アイリスはドレッサーの上に、自ら選んだ小物を並べていった。
黒の手袋に黒のビーズをあしらった巾着を合わせ、靴も黒で揃えている。
そして扇。
扇は深い緑色を選んだ。
ユーグの色。
アイリスの大好きな色。
(ユーグ。わたくし、行動を開始するわよ)
アイリスは想いを込めて、きゅっと口角を上げる。
気持ちの準備は、できた。
あとは最後の仕上げだけ。
アイリスの髪と化粧は、セイラがていねいに仕上げた。
目もとにすっと青を入れたのは、ノール国王の前で本来の姿に戻る可能性を考慮したのだろう。
アイリスは鏡の中の自分に向かって、ふわりと微笑んだ。
ユーグが大好きだと言った、アイリスの笑顔がそこにある。
準備は整った。
馬車は金色に塗られた華やかな門を走り抜けた。
あちこちに王宮を守る衛兵の姿が見える。
馬車が止まった。
アイリスが視線を上へ向ければ、整然と並んだ窓が並ぶ王宮がそびえているのが見えた。
手袋をはめた震える手で、アイリスは巾着と扇を持つ。
アイリスは落ち着いた声で、セイラに声をかけた。
「行きましょう」
まずは、第一歩を踏みしめるのだ。




