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黒衣の男爵夫人は、最愛を想いながら今夜も手帳を開く  作者: 櫻井金貨


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第34話 黒衣の男爵夫人(4)

「奥様、夜会はいかがでしたか?」


 侍女のセイラを連れて下町のシンプソン男爵邸に戻り、執事のトマスに迎えられると、アイリスはにっこりと笑顔を浮かべた。


「心配していたけれど、すごく楽しかったわ。皆さん、とてもご親切だったの」


「それはようございました」


 トマスは目を細めて女主人を迎え入れ、念入りに玄関の戸締りをした。


「寝室の暖炉に火を入れてありますよ。お茶の支度もしておきました」


「まあ、ありがとう。トマス」


「セイラも付き添いご苦労様だったね」

「トマスさん、お留守番をありがとうございました」


 セイラとトマスもお互いにねぎらい合う。


「いやぁ、ご婦人がいない家は、寂しいものですな。お二人が戻られてほっとしましたよ」


 トマスはそんなことを言ってセイラに笑われている。


 アイリスも微笑みながら二階に上がると、セイラに手伝ってもらって、ドレスから夜着に着替えた。


 最近、夜はだいぶ冷えるようになってきた。


 アイリスは夜着の上に暖かなガウンを重ねると、セイラに言った。


「セイラ、今日はお疲れ様。もう遅いから、お部屋でお休みなさい。わたくしの方は大丈夫よ」


「奥様、お茶をお淹れしますわ」


「大丈夫。自分でやるわ」


 アイリスはそう言ってセイラを労って部屋から送り出し、保温ポットからお湯をティーポットに注いだ。


 お茶を待つ間ももどかしく、黒の手帳を取り出すと、窓辺に置かれたテーブルにそっと置く。

 アイリスは椅子に座ると、ペンを手に取った。



 タイトルは ○婚約 である。


 ご令嬢、ついに婚約。

 しかし、お相手は義妹に関心?

 何もなければいいけれど、ご友人方も心配している。



「若いご令嬢達にとっては、婚約は一大事よね。でもお相手や家の思惑で自分の意志が及ばぬこともあるわ」


 アイリスはつぶやいた。


「令嬢達にとっては、他人事じゃないのよ。だから宮廷恋愛小説でも、婚約や婚約破棄をテーマにした作品がたくさんあるのね」


 アイリスは窓からそっと外を眺めた。


 カーテンを開けたままの窓。

 窓の外には、静まり返った、夜の町が続いている。


「愛する人と一緒にいたいと、そう願う心は皆一緒なのだわ」



***



 アイリスの前には、まだ何も書かれていない手帳のページが開かれている。


 アイリスの愛する人は、今、そばにいない。

 それでも、きっとどこかで無事にいてくれるだろう。


 アイリスはドレッサーの引き出しから、きれいに磨かれた銀の腕輪を取り出した。

 その腕輪は、ユーグの死を告げる手紙に同封されていたものだった。


 歪みも直され、綺麗に磨き上げられた腕輪は、ジグムンドによって魔法を付与されていた。


 身につけているユーグに何かあれば、アイリスの指輪を通して、それがわかるのだという。


 アイリスはその時のジグムンドとの会話を思い出した。


『あなたの指輪と揃えたその腕輪だが、それがユーグをエリザベスの魅了魔法から守ったんだよ』


『え』


 驚いて目を見開くアイリスに、ジグムンドは言った。


『お互いに贈りあったのだろう? あなたの魔力が無意識に込められていた。だから、ユーグは魅了がかかりにくかった。それでイグナチオは薬を使って暗示をかけたりしたようだが——』


『薬!?』


 アイリスのぎょっとした顔を見て、ジグムンドはその部分はそそくさとまとめてしまった。


『ああ、もうその薬の作用は抜けているから大丈夫だ。ともかく、心配したイグナチオがユーグを近くで監視しようとエリザベスの護衛騎士に仕立てたらしい。単にユーグの顔がエリザベスの好みだったのかもしれないが』


『え!?』


 困惑するアイリスを、たしかにジグムンドは楽しんでいたように思う。


 ともあれ、ユーグの身を守るためなら、どんなものでも利用したい。

 アイリスは次にユーグが訪れた時に、銀の腕輪を渡そうと思っていた。


 時計はまだ、夜中前を指している。

 もう少し時間があるだろう。


 アイリスは銀の腕輪を机に置くと、代わりにペンを取った。

 開いた手帳のページをそっと、左手で押さえる。



 ペンが自然に一文を記した。

 アイリスの心の中から、物語が生まれた瞬間だった。



 アイリスは普段離れて暮らさなければいけない最愛の夫を思って、物語を書き始めた。


 愛の物語だ。


 夜会で出会った令嬢達が微笑むような、そんな物語。

 空想を膨らませて、たくさんの愛の物語を書こう。

 たくさんの願いを込めて、書こう。

 そうすると、寂しい心や悲しい想いが慰められるから。

 わたくしの心も、そして令嬢達の心も——。



 まだ、生まれた物語がどうなるのかは、彼女は知らない。


 遠く離れた愛する夫を想う夜。

 アイリスは一人、机に向かって愛の物語を書き続けている。


 特別な道具は何もない。


 愛用の黒い小さな手帳とペン。

 使い慣れたペンを持って、アイリスは小さな手帳に物語を書き続ける。



***



 もし、アイリスが未来を見ることができたら、彼女はきっと目を丸くするに違いない。


 未来は、アイリスが物語を書いていることを知ったジグムンドが、無理を言ってアイリスの手帳を持ち出すところから始まる。


 その手帳が、ジグムンドの息子である王太子トールの手に渡り、そこから妻のシグリッドのもとにたどり着いた。


 やがて困惑したジグムンドから、「王太子妃に会ってはくれないか」とアイリスに手紙が届くことになる。


 アイリスが王宮に上がると、待ちかねたシグリッド王太子妃が黒の手帳を胸に抱いて、アイリスに飛び付かんばかりにして訴えるのだ。


『シンプソン夫人……!! この、つ、続きはどうなるんですの!? わたくし、こんなに泣いたのは、生まれて初めてです——!!』


 シグリッドは無事、アイリスに物語の続きを書くことを約束させた。

 大成功である。

 これで、シグリッドは続きを読むことができる。


 シグリッドはアイリスを見送ると、さっそく私室に戻って、手紙を書き始めた。


 知り合いの伯爵夫人が、シグリッドと同様、宮廷恋愛小説が大好きだった。

 彼女が王都の出版代理人を知っているので、紹介してもらうつもりである。


 その日、義父であるジグムンドと、夫のトールと囲んだ夕食の席で、シグリッドは自信を持って言い切った。


『お義父様。きっとシンプソン夫人は人気の宮廷恋愛小説家になれますわ! わたくしの目はたしかです。あの方、ご主人を早くに亡くしたのでしょう? それに爵位は男爵夫人だとか。パトロンが必要だと思うのです。宮廷文化の保護は、王太子妃であるわたくしの務め。……ふふ。腕が震えますわ……いえ、震えるのは、王都中の貴婦人達の心ですのよ。近い将来に。ふふふ……』


 あまりにも興奮しているシグリッドに、ジグムンドは言葉を挟めない。


 しかも。なるほど『宮廷恋愛小説家のシンプソン夫人』は、ノーフォーク女侯爵の身分を隠すのにぴったりだ、とジグムンドも思い至り、うなずいた。


 ノーフォーク一族の仕事を任されたなら、アイリスは各国の宮廷に顔を出すことになるだろう。

 表向きの顔があるのはいいことだった。


 そんなわけで、ジグムンドはシグリッドに好きなようにさせている。



 アイリスはもちろん、そんな未来はまだ知らない。

 ただ最愛の夫を想って、窓辺の机に黒の手帳を広げ、愛用の椅子に腰かけている。


 若くして最愛の夫を失い、黒のドレスを着続ける『黒衣の男爵夫人』。

 今、社交界で実は一番の話題の人物だったりする。


 ところが当人であるアイリスはまだそのことに気づいていなくて、もうすぐユーグに会えること、会えたら銀の腕輪を渡すことばかり考えて、わくわくしていた。


 寝室に入れてもらえた牧羊犬のオイスターと白猫のカカオははしゃぎすぎ、遊び疲れて、丸くなって寝てしまっていた。


 ベッドの足もとに、ふわふわの毛玉がふたつ寄り添っている。


「きっと、もうすぐね」


 アイリスは柔らかな微笑みを見せながら、黒の手帳にペンを走らせた。


 窓のカーテンが揺れて、最愛の夫が自分の名を呼ぶ瞬間を待ちながら。




 ——黒衣の男爵夫人。シンプソン夫人は、今日も愛の物語を書き続ける——。


☆☆☆☆☆

ほぼ最終話!なのですが、最後にここまで読んでくださった皆様に、アイリスとユーグの幸せなエピソードをひとつ読んでいただきたくて、もうひとつ書きました。

次話で最後です。

どうぞ最後までお楽しみいただけましたら幸いです。


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