第33話 黒衣の男爵夫人(3)
その日、アイリスは町のカフェで知り合った子爵令嬢に招待されて、夜会に来ていた。
夜会と言っても、子爵家、男爵家という下位貴族の会であり、裕福な商家のご婦人も招かれている。
「気楽な会ですの。ぜひ、いらしてくださいな」との言葉は、ご令嬢の本心だったと思われた。
キラキラと目を輝かせたご令嬢は、そっと名刺を巾着から出すと、アイリスに差し出した。
『わたくし、ミレー子爵家のロザンヌと申します。ね、シンプソン夫人、どうぞいらして? そして忘れずに最新版の王都新聞をお持ちくださいな。きっと、皆さんも読んでみたいと思われるに違いませんわ……!』
アイリスはカフェの小さなテーブルに王都新聞を広げ、コーヒーを片手に、本日のハイライトを黒の手帳にていねいにメモしていたところだった。
ノール王国でもご婦人方は紅茶を好むが、近頃の王都の流行は、紳士方のようにコーヒーを飲むことである。
アイリスも最近、カフェに行く時にはコーヒーを注文するのが習慣になっていた。
アイリスが熱心に読んでいる王都新聞には、大きく『【真相】失踪した少女——王子の婚約者から一転、何があったのか?』という見出しが踊っていた。
シェファン王国のフランシスコ王子の婚約者が突然亡くなり、裕福なカレンベルク商会の跡取り娘であるパルミラが新しい婚約者に内定し、世間をあっと言わせた出来事の、その続報である。
いくら王族並みに裕福でも、貴族ではない商人の娘。
婚約者になったとはいえ、実際に結婚できるのか。
ご婦人方をハラハラさせていたのだが、なんとその後の展開が報じられたのである。
それが『失踪した少女』である。
パルミラ・カレンベルク嬢は突然、失踪してしまったという。
もちろん、アイリスはパルミラに何が起こったのか知っている。
しかし、王都新聞にどのように報じられているのかと気になり、注意深く記事を読んでいたのだった。
一方、王都新聞にはアイリスお気に入りの連載小説がある。
こちらの続きも気になるしで、アイリスは黒の手帳を片手に、忙しいひとときを過ごしていた。
するとその時。
『あの……大変失礼ですが、何を熱心にお読みになっていらっしゃるのでしょうか……?』
礼儀正しく、そして好奇心を抑えきれない、という様子で、アイリスは隣の席の少女から声をかけられた。
アイリスは王都新聞から目を上げ、初めて隣のテーブルに座っている少女を見た。
侍女をお供にした、可愛らしいご令嬢である。
怪しくはない。
アイリスは口角をきゅっと上げ、完璧な微笑みを浮かべた。
すると、ご令嬢がほんのりと頬を赤くした。
『ふふ。これは王都新聞というものなのです』
アイリスはタブロイド新聞をよく見えるように広げて見せた。
『もともと文字の読める知識層の平民男性向けなのですが、宮廷恋愛小説の連載があったり、社交界のゴシップ記事もあったりするんです。わたくしのお気に入りなのですわ』
そう言って微笑めば、ご令嬢はまたしてもぱぱっと顔を赤くする。
『……? 何か……? あ、そうですわね。お若いご令嬢に、ちょっとはしたなかったですわね……』
アイリスはつい調子に乗ってしまったと、眉を下げたのだが——。
『い、いえっ!! 違いますわ。ごめんなさいませ。あの、もしかして……あなた——シンプソン夫人でいらっしゃるのでは……?』
今度はアイリスが顔を赤くする番だった。
あわてて膝の上から扇を取り上げ、口もとを隠した。
『ま、まあ。そのとおりですわ。——でも、どうしておわかりになったの?』
するとご令嬢はますます顔を赤くした。
『ええと。先日……率直に申し上げますと、お茶会で話題に上がったのです……お若い男爵夫人が、ご主人を亡くされて、未亡人となられたと。まるでお人形のようにお美しい、完璧なお顔だちで、いつも黒のドレスをお召しでいらっしゃると』
『え。あ、あら』
『たしかに、どちらかというと、失礼ながら地味めの色合いをしていらっしゃるのに……むしろ、金髪が多いノール王国では、逆に栗色の髪はとても新鮮で——それに、本当にお綺麗でいらっしゃって』
ご令嬢はそう言うと、ほおっと感嘆のため息をついた。
『そして夫人がまさかこんなに気さくな方だったなんて! そうだわ。ね、シンプソン夫人。来週、わが家で夜会をいたしますの。いえいえ、とても気楽な会なのですわ。それに、王都劇場に出演している新進女優の方をお呼びしておりますの。きっと気に入りますわ。宮廷恋愛小説の、朗読を披露してくださいますのよ?』
そう言って、ご令嬢は目を輝かせたのだ。
ご令嬢はアイリスに名刺を渡してくれたのだが、心を込めて、「お待ちしておりますわ」と言ってくれた。
そんな経緯で、アイリスは夜会用の黒のドレスに扇と巾着と、そして最新版の王都新聞を抱えて、やって来たのだった——。
***
ミレー子爵家の夜会は、楽しかった。
アイリスは未亡人ということで、いつもどおり黒のドレスで出席した。
夜会ではあるが、夫を失ってまもないということで、光沢のある素材も使っていない。
しかし、控えめな黒のドレスに、きちんと結い上げた栗色の髪。
黒のビーズの巾着、唯一、扇だけは亡き夫の瞳の色ということで、緑色のものを持ったアイリスは、終始ていねいに遇された。
ロザンヌが母である子爵夫人にも紹介してくれたので、ご令嬢方だけでなく、男爵夫人、子爵夫人達とも知り合いになれた。
アイリスにはエスコート役を頼める男性の友人がいなかったので、侍女のセイラを付き添いに連れてきたのだが、エスコートの不在を笑うような女性達は会場に一人もいなかった。
むしろアイリスは大人気で、さっそくご夫人方からお茶会に招かれたくらいだった。
「はあ……ドキドキいたしますわ。このお話の続き、どうなるのでしょう!?」
ロザンヌが王都新聞の連載小説を堪能した後に、そう言ってため息をついた。
「来週になれば、新しい新聞が出ますわよ」
アイリスはふふ、と笑いながら教えてあげた。
「いいですわねえ……王都新聞。どうにかして、手に入れられないかしら」
「ロザンヌ様のお父様はおそらくお読みになっていないでしょうから、執事の方にこっそりお願いしてみては? 買ってきてくださると思いますわ」
「そうですわね。きっと手に入れますわ」
アイリスとロザンヌは夜食の用意されているテーブルについて、他のご令嬢方と一緒におしゃべりを楽しんでいるところだった。
「わたくし、そろそろ婚約者が決まりそうなんですの」
突然、一人の令嬢が声をひそめて言った。
「でもね……その方、わたくしの義妹にご執心なんですのよ。わたくし、ちょっと心配で——なぜ、わたくしの方に婚約を申し込もうとしているのかしら」
令嬢達がいっせいに息を呑む。
扇がぱっと花のように開いて、令嬢達の口もとを覆う。
「まあ……!」
「たしかですの? エラ様に婚約を申し込むというのは?」
「ええ。内々に父に話したそうなのです」
「妹さんって、まだ十四歳でしょう? 学園にも上がっていませんでしたよね……?」
「ええ。でも——もう、あの子はすごくはっきりした子なんです。だから、心配で。何か裏があるような気がして。年下とはいえ、わたくし……怖いのですわ」
本来だったら、おめでたい婚約に向けた話。
令嬢達から歓声が上がってもおかしくない。
なのに、まるで宮廷恋愛小説のような展開に、令嬢達は息をひそめた。
令嬢達は周囲を確認すると、小さな声で話し合い始めた。
そんな様子を静かに観察しながら、アイリスはもちろん、令嬢方の前で黒の手帳にメモをするようなことはしない。
心のノートにメモをするに留めた。
(婚約……! そうよね。令嬢にとっては、一大事だわ。なのに、義妹が気になると。それはそうよ……大丈夫かしら。心配だわ)
アイリスが見守っていると、ロザンヌがぼんやりとして黙ってしまったエラの手をそっと握った。
「エラ様、あまり心配なさらないで。実は義妹を愛していた……そんな、まるで小説のようなお話になるとは、限りませんわ」
ロザンヌの言葉には、思いやりが込められていた。
「何かありましたら、いつでもお手紙をくださいね。でも、エラ様。エラ様はご自分の物語を作ればいいのですわ。誰かの作った物語を生きるのではなく——」
アイリスは、ロザンヌの言葉に惹き込まれた。
(素敵な言葉。エラ様も、少し表情が楽になられたよう)
自分の物語を作る。
——なんて、素敵なのかしら。
その一言が、アイリスの心にも、すっと降りてきた。
アイリスは、思った。
わたくしだったら、どんな物語を作れるだろう——、と。
夜食もおいしかったし、新進女優の朗読も素晴らしかった。
それに、心の中には新しいアイデアがある。
アイリスは夜が更けてから、ロザンヌとミレー子爵夫妻にていねいに礼を述べて、夜会会場を後にした。




