第32話 黒衣の男爵夫人(2)
家の中は静まりかえっていた。
執事のトマスも、侍女のセイラも、すでにそれぞれの部屋で休んでいる。
夜が更けるにつれ、少し肌寒くなってきたアイリスは、ベッドの上に置かれていたストールを肩からかけた。
トマスが暖炉に入れてくれていた薪は炭火となり、ときおり赤い火の粉を散らしていた。
カーテンを引いていない窓から見えるのは、切れるような細い月。
セイラが用意したハーブティは、カバーを掛けたポットに入ったまま。テーブルの上で、手を付けられていないままで、残っている。
アイリスが時計に目をやった時だった。
窓の外、小さなバルコニーで、かさり、とかすかな音がした。
アイリスが息を止めて音のした方を見つめていると、音もなく窓が開き、全身黒の騎士服にマントを羽織った男がするりと部屋に入ってきた。
男は部屋の明かりに一瞬眩しそうに肩を揺らせたが、カーテンを引き、そっとマントのフードを下ろした。
短く整えた茶色の髪。
森のような、緑色の瞳。
少し痩せて、精悍になったように見える顔をほころばせて、男は言った。
「アイリス」
そう呼びかけられた瞬間、アイリスは立ち上がり、愛する夫を抱きしめた。
「ユーグ……!!」
アイリスは懐かしい胸に、自分の頭をこすりつける。
「心配したのよ。本当に来てくれるか、最後まで不安だった」
「心配させて済まない」
「いいの。……ねえ、何時までいられるの……?」
アイリスの問いに、ユーグは困ったように言った。
「夜明け前まで」
アイリスの明るい茶色の瞳に、透明な涙が盛り上がる。
ユーグはさっとアイリスを抱き上げると、ベッドに連れて行った。
「ユーグ……! 足りないわ。話したいことが、たくさんあるのよ? それに、オイスターとカカオにも会いたいでしょう? あの子達、一階の居間で寝ているのよ」
ユーグは大切な品物を運ぶようにアイリスを抱いて、たくさん積まれた枕にそっとその体をもたせかけた。
「ユーグったら」
「また来るよ。次は、オイスターとカカオを寝室に連れて来ておけばいい」
「ユーグ!」
「アイリス。陛下との話を、覚えているだろう?」
ユーグが子どもに言い聞かせるように言うと、一瞬、ぷうっとくちびるを尖らせたアイリスだったが、しぶしぶうなずいた。
「……ええ」
「永遠に続くわけじゃない。すべてが落ち着くまでの辛抱だ」
「わかっているわ」
「時々、二人でこっそり旅行に行ってもいいと陛下はおっしゃっていただろう? しかも、陛下の別荘を貸してくださると」
「今からとても楽しみで待ちきれないわ」
アイリスの言いように、思わずユーグはぷっと笑ってしまった。
それから真顔になると、アイリスの右手から指輪を外した。
アイリスの栗色の髪が青に変わり、明るい茶色だった瞳は、神秘的な紫色に変わった。
「アイリス」
ユーグは両手で愛する妻の頬に触れると、ゆっくりと口づけた。
「次期ノーフォーク女侯爵」
ユーグはささやいた。
「おめでとう。大任だが、きみなら立派にやり遂げられると信じているよ」
アイリスの瞳から、ついに涙がこぼれ落ちた。
「でも。こんなことになるなんて。あなたと一緒にいられなくなるなんて」
ユーグはアイリスをぎゅっと抱きしめた。
腕の中のアイリスは、まるで一回り小さく、細くなってしまったようなくらい、頼りなかった。
くったりと自分に体を預けてくるアイリスが愛しくて、そして切ない。
今日、ジグムンドとノーフォーク一族の会談で、今後の方針が決められた。
改めて、ジグムンドとノーフォーク侯爵との間で、盟約が結ばれた。
ジグムンドはノーフォーク一族を保護し、ノーフォーク家はその異能をもってノール王家に仕えること。
アイリスがノーフォーク侯爵家の次期当主となること。
近い将来、シンプソン男爵夫人であるアイリスはノーフォーク女侯爵となる。
そしてまもなく——ユーグ・シンプソン男爵は、この世界から消える。
アイリスは正式に未亡人となるのだ。
「きみを守るためだ。陛下は、今回のことを重く見ている。きみが、異能を持つ一族であるノーフォーク家が、イグナチオのような人間に利用されないようにするためだ」
「わかっているわ」
「そして、きみを意のままに動かすために、俺を利用することは誰にも許さない」
「わかっているの」
忘却の魔法を使える、異能の一族であるノーフォーク一族は、かつて隣国であるローデール王国の王家に忠誠を誓い、保護を受けていた。
しかしそこで、アイリスが婚約者だった第二王子の独断で婚約破棄、侯爵令嬢の身分剥奪、国外追放という扱いを受けてしまった。
激怒した父のノーフォーク侯爵は、結局ローデール王国への忠誠を捨て、ノール王国に移ったという経緯がある。
そして今回はアイリスが、他国で拉致される結果になった。
ジグムンドは、イグナチオがアイリスに忘却の魔法を使わせるために、ユーグを利用したことを重く見ていた。
『髪と瞳の色を変えて、シンプソン夫人として暮らす。うまくいっていたのだが……アイリスを危険にさらすことはできない。そのために、ユーグは死亡したとして公表することにする』
『!!』
『ユーグは王宮騎士団からスレイプニル騎士団に移す。ユーグの住居も騎士団内で用意する』
『ユーグに、もう会えないですか……?』
『夜、秘密裏にあなたのところに行くのは許可する』
ジグムンドの言葉は明確で、迷いがなかった。
アイリスは呆然とジグムンドを見つめるしかなかった。
***
アイリスはベッドの上に座りながら、ユーグが衣装掛けに掛けていた黒のドレスに目を留めたのに気がついた。
アイリスは背筋を伸ばして座り直した。
「ユーグ。わたくし、これからも黒のドレスを着ることにしたの」
アイリスはユーグの頬をそっと撫でながら言った。
「ジグムンド陛下は、わたくしはノーフォーク家の次期当主だけれど、公式には社交はシンプソン夫人として続けるようにとおっしゃったわ。そうして安全のためにノーフォーク一族であることを隠せと。それで、決めたの。わたくし、未亡人として振る舞わなければならないのなら、黒のドレスを毎日着るわ。愛する夫は、今も、未来も、ユーグ、あなただけなのだから」
「アイリス」
ユーグの顔が苦しそうに歪んだ。
「アイリス、俺はおまえが毎日喪服を着ている姿なんて、考えたくない」
ユーグはつい、十代の頃のように、アイリスのことをおまえ呼びに戻ってしまっている。
「喪服ではないわ。黒のドレスよ。いろいろな素材とデザインがあって、素敵なのよ? あなたの生死が不明だった間も、わたくしは毎日、黒のドレスを着ていたの。それはわたくしの決意表明であり、戦いの服だったのよ——それに、わたくし、毎日夜会や舞台の招待状や、閨教師を依頼するお手紙をいただくのはもうごめんなの」
痛々しげな表情でアイリスの話を聞いていたユーグだったが、そこで怪訝な表情に変わった。
「……閨教師だって? なんだ、その話は」
「あなたにはまだ話してなかったわね。それはね……」
アイリスは疲れたのか、ベッドに横になると、隣をぽんぽんと叩いて、ユーグも横にならせた。
それからユーグの体にぴったりとくっつくと、自分に届いたおかしな手紙の話を始めたのだった。
伯爵家令息からの夜会の招待状。
侯爵家当主からの新作舞台鑑賞のお誘い。
ご婦人からのタイミングの合い過ぎるお茶会の招待状。
そして。
外国貴族家当主からの嫡男への閨教育指導のお願い——。
ユーグは顔を赤くしたり、青くしたり。
二人は時間を忘れるようにして、おしゃべりを続けた。
やがて。
疲れきって眠ってしまったアイリスの右手の指先に、ユーグはそっと指輪をはめた。
髪色が栗色に変わる。
「おまえを置いていくなんて、生半可な忍耐力ではできないと思い知ったよ」
ユーグはささやいた。
眠っているアイリスの額に、そっとキスを落とす。
「待っていろ、アイリス。もっと力を付けて、きっといつか、おまえと一緒にいられるように、おまえを守れるようになる」
もし、ノーフォーク女侯爵になるのが、アイリスの運命なのならば。
ユーグはそんなアイリスを守りきることが、自分の運命だと信じて疑わなかった。
「たとえ、俺自身が表に出ることは叶わなくても、おまえをあらゆる危険から守ってやる」




