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黒衣の男爵夫人は、最愛を想いながら今夜も手帳を開く  作者: 櫻井金貨


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第31話 黒衣の男爵夫人(1)

「アイリス奥様……! おかえりなさいませ……!!」

「奥様、おかえりなさいませ。ご無事のお帰り、何よりでございます……!!」


 ノール王国の下町にあるシンプソン男爵邸の前には、執事のトマスと、侍女のセイラが涙ぐみながら立ち、待ちに待った女主人の帰宅の日を迎えていた。


 周囲は夕暮れの気配が濃く、近所の家々の明かりがひとつ、またひとつと灯っている。


 ようやく薄暗くなってきたが、大陸最果てとも言える、北のノール王国の日没は遅い。

 時刻はすでに夜中に近かった。


「遅くなって悪かったわね。心配したでしょう?」


 トマスと、そしてセイラと抱擁を交わしながら、アイリスは言った。


「実は今朝方、王宮から早馬の知らせをいただいておりまして。おかげさまでお迎えの準備もしっかり整えることができましたよ」


 トマスは穏やかに微笑むと、馬車からアイリスの荷物を下ろす。


「ええ、そうなんですよ、奥様。お茶の支度も、お夕食の支度も、お部屋の支度もすべて整っております」


 まずは居間でお茶を……そう案内しながら、セイラはアイリスの全身に素早く視線を走らせる。


 アイリスは出発時と変わらず、黒のドレスを着ていた。


 旅行用に、シワが出来にくい素材でスカート丈が少し短めの、実用的なデザインのドレスだ。


 さすがにアイリスの表情にも疲れは見えるが、足もとはしっかりしているし、食事もきちんと取れているようだ。


 ただし——セイラは馬車の中に、無意識に視線を向けてしまう。


 アイリス一人での帰宅なのか、と。


 そんなセイラの視線に気がついたのだろう。

 アイリスは柔らかく微笑むと、セイラの手を取った。


「お茶をいただくわ。きちんと話すから心配しないで」


「かしこまりました、奥様」


 セイラはアイリスからショールと巾着を受け取り、屋敷の中へいそいそとアイリスを招き入れた。


***



 居間にはアイリスを待ちかねていた牧羊犬のオイスターと白猫のカカオがいた。


「オイスター! カカオ!!」


 オイスターは久しぶりにアイリスを見て、興奮が止まらない。

 居間中をぐるぐると駆け回るオイスターに踏まれそうになったカカオは、不満そうにソファの上に飛び乗った。


「まあ……オイスターったら、落ち着いてちょうだい」


 アイリスは困ったようにオイスターに話しかけ、ようやく落ち着いたところで、セイラが持ってきたクッキーを与えた。


「お留守番、偉かったわね」


 床に座って、クッキーをかじり始めたオイスターに、アイリスの顔も思わず緩む。


「あなたもよ、カカオ。また会えて嬉しいわ」


 アイリスはカカオの柔らかい毛並みを撫でると、両手で抱き上げた。


「なーお」


 カカオが目を閉じて、喉を鳴らした。


「奥様、お待たせいたしました。お茶と一緒に、スープとパンもお持ちしました」


 美味しそうなスープの匂いがして、セイラが大きなお盆を抱えて入ってきた。


「お疲れでしょうけれど、少しお腹に入れてからお休みいただきたくて」


 セイラが眉を下げた。


 トマスはアイリスの体が冷えないようにと、暖炉に火を入れてくれていた。

 部屋の中はふんわりと暖かい空気に満ちている。


「セイラ。トマスも、座ってくれるかしら?」


 アイリスはまだ二階の部屋にも行っておらず、黒いドレスを着たままだ。


 セイラとトマスがソファに座ると、アイリスは言った。


「あなた方が心配してくれているのは、わかるわ。あのね、旦那様はご無事よ」


 アイリスは言った。


「まあ、奥様……!! よかったです——」

「奥様、おめでとうございます。陰ながら、私どもも心配でした……」


 セイラとトマスが顔を合わせて、涙ながらにうなずく。


「でも、今までと同じにはいかないの。明日の午後、わたくしは王宮に伺います。ジグムンド陛下との面会があるのよ。ノーフォークのお父様とお母様も来られます」


 アイリスは一気に言った。


「もちろん、あなた方にはすべて説明するわ。でも、今はまだ何も言えないの。わかってくれるかしら……?」


 アイリスの表情は落ち着いていた。

 右手の指輪をはめており、アイリスの髪は栗色で、瞳は明るい茶色をしている。


 背筋をすっと伸ばし、口角を上げて、かすかに微笑みながら、アイリスは二人を見つめた。


「かしこまりました」


 トマスが言った。


「はい、奥様」


 セイラも涙をこらえながら、うなずく。


「さ、奥様。お茶をどうぞ、冷めないうちに」


 アイリスは二人を見つめた。


 居間に灯された明かりは温かな黄色い光を投げかけている。

 アイリスを慮ってセイラとトマスの言葉は少なめだ。


 興奮して疲れてしまったオイスターとカカオは、それぞれの寝床で丸くなっている。


「ありがとう」


 アイリスは香り高い湯気が漂うティーカップを持ち上げた。


 紅茶の味は格別だった。

 体の中に、温かいものが広がっていく。


 帰ってきた。

 ここが、自分の家なのだ。


 アイリスはようやく肩の力を抜いた。

 ようやく、空腹感を感じ始め、アイリスはテーブルの視線を向ける。


 スープは冷めないように、蓋つきのスープ皿に。

 パンは布巾で包んで保温されていた。

 そっと布巾を外して、セイラが言う。


「奥様、どうぞ」


 なじんだ家の、いつもの時間。

 セイラとトマスの心配りが、心に沁みた。


 そうして、シンプソン男爵邸の夜が更けていった。


***



「ノーフォーク侯爵、ローズマリー夫人。ランバート侯爵夫人、シンプソン男爵夫人。今日はご足労ご苦労だった」


 ノール王国王宮。

 ノーフォーク侯爵夫妻と二人の子ども達、マーガレットとアイリスが案内されたのは、ジグムンドの執務室に近い、名前のない一室だった。


 執務室の控室から、隠し扉を使って入る。


 そのような部屋の存在を初めて知ったマーガレットとアイリスは、お互いに顔を見合わせた。


 ジグムンドは一人ではなかった。


 傍に気配を消すようにして、ひっそりと立っているのは、騎士。


 ほぼ白に近い金髪。

 ノール人男性にしては細身だったが、腰には剣がある。

 ただ、普通の騎士とは思えなかった。


「あなた方には初めて引き合わせる。この男はスレイプニル騎士団で団長を務めている。名前は、ない」


 ジグムンドは言った。


「騎士団の名前も聞いたことがないはずだ。なぜなら、スレイプニル騎士団は表に出ることはない。表立ってできない仕事を担当している部隊だ」


 つまりは、大陸の王家で言われる、『影』ということなのだろう。

 国王直属の、秘密の部隊だ。

 アイリスはそう理解した。


 ジグムンドは薄青い瞳を、ノーフォーク侯爵、ローズマリー、マーガレット、アイリス、と順番に向ける。


 そしてジグムンドはためらうことなく、今日の用件をずばりと言った。


「今日、ノーフォーク一族に来てもらったのは、ほかでもない。後継者を選定してもらうためだ」


***



 その日の夜。


 アイリスは夕食後、入浴を済ませ、少し早めではあったが、寝室に入った。


 窓際に置かれたテーブルに黒の手帳を広げ、アイリスはペンを持った。


 夜着に着替え、ナイトガウンを羽織っているのに、眠る気配のないアイリスに、侍女のセイラは少し心配そうに声をかけた。


「奥様、もしまだ眠くないのでしたら、ハーブティをお持ちいたしましょうか……?」


 アイリスは長い栗色の髪を下ろし、背中でゆるく編んでいた。

 そうして髪を下ろしていると、アイリスは少し幼く見えた。


「そうね。お願いしようかしら」


「カモミールでよろしいですか? コケモモのお茶とブレンドしたものもありますけれど」


「そうね」


 アイリスは少し思案した。


「コケモモのお茶とブレンドしたものがいいわ。セイラ、ポットで二人分を用意してちょうだい」


 セイラは目を見開いた。

 しかし、何か問うこともなく、頭を下げた。


「かしこまりました、奥様」


 アイリスは黒の手帳に、書いた。

 文章をたったひとつ。



『来てくれるかしら?』


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