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黒衣の男爵夫人は、最愛を想いながら今夜も手帳を開く  作者: 櫻井金貨


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第30話 大神官イグナチオの告白(2)

 その日の午後、ジグムンドは宮殿の敷地内にある離宮で静養している、国王パウルスを訪ねた。


「これは……ジグムンド陛下自らこのようなところにまでご足労をいただき」


 パウルスはベッドで寝ておらず、小さなサロンで、一人ソファに座って庭を見つめていた。


 立ち上がろうとしたパウルスを制し、ジグムンドはソファの近くにあった椅子に腰掛けた。


「パウルス殿、その後お体の方はいかがか?」


 ジグムンドはそう言うと、この数日で少し痩せたように見える、黒髪の若者を見つめた。


 しかしパウルスは「失礼いたします」と言って、やはりソファから立ち上がり、部屋を出ようとする。


「パウルス殿、どちらへ」


 ジグムンドが目を細めて尋ねると、パウルスはうっすらと顔を赤くした。


「……失礼とは存じますが、少々台所へ。その……お茶をお持ちしようと」


 ジグムンドは珍しく驚いた。


「茶を」


「はい。離宮には召使いをあまり置いておりませんで……今は誰もいないのです。私が休みたいからと帰ってもらいました」


「護衛騎士は」


「不在です」


 ジグムンドは呆れながらも再度パウルスを促した。


「まず座ってください。そして私の質問に答えてほしいのだが」


 パウルスは慌ててソファに腰を落とした。


「は……い。その、おかげさまで、体の方はすっかりよくなったと思います。届けていただいた処方薬は、すべて取っています。その……ただ、気が塞いでいるだけで。そろそろ宮殿に戻らねばと思っていたところです」


「普段はこの離宮でお住まいなのか?」


 パウルスはうなずいた。


「はい。宮殿に部屋はあるのですが、幼い頃から暮らしたこの離宮が暮らしやすく」


 パウルスの声は小さくなった。


「……申し訳ありません」


 ジグムンドはため息を押し殺した。

 じっとパウルスを見つめる。


 黒髪に、灰色の瞳。

 それはたしかに、前王妃アグネスの持っていた色合いである。

 ジグムンドはもう二十年も前に亡くなったアグネスを覚えていた。


 しかしアグネスは小柄だったが、この男は背が高い。

 痩せているところも、アグネスとは違う。


 真面目は、真面目なのだろう。


 ジグムンドは考えた。


(しかし、頑なで、融通が利かない性格が見えているような気がするな)


「パウルス殿、あなたは何歳でおられるのです?」


 ジグムンドのいささか失礼な問いにも、パウルスは生真面目に答えた。


「三十一歳になりました」


 ジグムンドはまた無言になった。


 まるで野生の狼のような、薄青い瞳だけが、じっとパウルスを見つめていた。


「そろそろ、公務に戻られるべきだと思いますね」


 ややあって、ジグムンドはそう言った。


「宰相のベネト殿も頑張っておられるが、決めるべきことは多い。取調べも一段落ついている。聖女候補だったエリザベス、大神官イグナチオの処遇を決めるのに、あなた不在では話が進まない」


 パウルスはうなずいた。


「はい。おっしゃるとおりです。着替えて、この後宮殿に戻ります」


「それがよろしい」


 ジグムンドはパウルスの黒い髪、灰色の瞳、そしてどこかで見たような顔だちをそっと見やった。


「ひとつお尋ねするが、あなたにとって、イグナチオはどのような存在ですか?」


 パウルスは驚いて目を見開いた。


「イグナチオでございますか。……そうですね。彼は有能で、そして己をわきまえた男だと思っております。後見のいない私を気の毒に思われたのか、子どもの頃から、いろいろと気にかけてもらったとも思っています。そうですね、強いて言えば、叔父のような存在かと……」


 叔父のような存在。

 パウルスがイグナチオについて、何も気づいていないのは明らかだった。

 ジグムンドはパウルスの言葉に、うなずいた。


(ならば、私からは何も言うことはない)


「いずれ、調書を見ればわかることだが、ひとつだけ言っておく。イグナチオは今回の件について、あなたのためにやったと述べている」


「!!」


 パウルスは驚愕のため、目を見開き、口をぽかりと開いた。


「私はイグナチオにそれではあなたのためにならない、と申し上げた」


 ジグムンドは淡々と言葉を続けた。


「パウルス殿。あなたの中に流れる血がどうであれ、あなたが今、王なのだ。生まれの事情もまた関係ない。あなたが王座にいる以上、王に相応しい人間になることは、あなたの義務である。それをお忘れなさるな」


「ジグムンド陛下……!?」


「私は明日、ノール王国へ帰国します。もちろん、使節団も全員。聖王国騎士団に派遣していた者のなかで、必要な騎士もまた連れ帰ります」


「かしこまりました」


「後のことは、ロアノーク聖王国の問題だ。あなたにお任せします」


「!!」


 ジグムンドは会話を切り上げると、そのまま退出した。


 パウルスは深く腰を曲げ、頭を下げたまま、北国の王を見送ったのだった。


「ありがとうございます、ジグムンド陛下——」


 パウルスはジグムンドの姿が見えなくなっても、下げた頭を上げられずにいた。


 ジグムンドが言った、血という言葉。

 パウルスの中で、閃くものがあった。


『ひとつお尋ねするが、あなたにとって、イグナチオはどのような存在ですか?』


 叔父のような、とパウルスは答えた。


 黒髪に灰色の瞳は、母の持っていた色合いだったから、今まで一度も疑問に思ったことはない。


 しかし、イグナチオもまた、黒髪に灰色の瞳の持ち主だった。


(…………もしや)


 パウルスは目を閉じた。


 なぜ、今まで気がつかなかったのか。

 多少の機転さえあれば、とうの昔に気づいていただろう。


 現に、ロアノークに来て一ヶ月も経っていないジグムンドは気がついた。

 はっきりと言葉にしなかったのは、彼の気遣いだろう。


 自分の中に流れる血がどうであれ、王となったのは、自分。

 たとえ自分に王にふさわしい、完璧な血が流れていないとしても。

 今、自分以外に王となることができる人間はいない。


 この時パウルスは初めて、異母弟イーサンのことを思い切ることができた。


 遅かったかもしれない。

 しかし、まだきっと、間に合う。


(この世界に、完璧なものなど、ないのかもしれない)


 パウルスはようやく、そう気がついた。

 王の責任を、引き受けるのだ。


「——ありがとうございます——」


 パウルスは心を込めてつぶやいた。


 下げたままのパウルスの頭。

 涙が溢れ、ぽつりと床に落ちた。


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