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黒衣の男爵夫人は、最愛を想いながら今夜も手帳を開く  作者: 櫻井金貨


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第28話 最愛のあなた(2)

 まず定められたのは、かんこう令だった。


 迎賓館の宿舎に戻ることができたアイリスは例外で、他の人々はまだ神殿に留め置かれている。


 聖女就任式の参列者も神殿で個別に部屋に案内され、お互いに話すことができない状態にあった。


「奥様、お部屋の外には、騎士が二人、立っております。指示があるまで、お部屋で待機していただきたいとのことです」


 アイリスはまず入浴して、体に付いた血をすべて洗い流す必要があった。


 アイリス付きの侍女が、入浴を手伝いながら、状況を説明した。


「……奥様、ご心配でしょうね? 旦那様はまだ神殿にいらっしゃるとのことです」


 アイリスは頭を振った。


「大丈夫よ。まず聞き取り調査があるのは理解しているわ」


 アイリスは髪もすっかり洗ってもらい、気分的にもすっきりしている。


「わたくしもそのうち呼び出しがかかるでしょう。それまではお部屋で待機とはいえ、部屋着というわけにはいかないわ。そうね……黒のクレープ素材のドレスがあるでしょう? それを出してくれる?」


 少し蒸し暑い午後にぴったりの、細かなシワ加工の入った黒いドレスは軽く涼しげで、リラックスしているけれど、砕けすぎない。


 着替えが済んだアイリスは窓辺の椅子に座り、テーブルに黒い手帳を開いて、ペンを手に取った。


 今わかっていることを箇条書きにして書いていく。



○聖女就任式



 最初にアイリスはそう書いた。

 それから、思い浮かんだことを書いていく。


 エリザベスにかけた忘却の魔法は成功した。

 エリザベスは聖女候補としての記憶を失っている。


 その一方、エリザベスはたしかに異能者だった。

 ただ、エリザベスの魔法は、聖女の使う回復の魔法ではない。


 エリザベスが聖女候補としての記憶を失ったと同時に、エリザベスに魔法をかけられていた人々は意識を失って倒れている。


「おそらくは、エリザベス様の魔法が解けたのね」


 パウルス国王。神官達。各国からの参列者のうち何名か。

 そして、ユーグ。


 ユーグは、黒いマントのフードを被り、仮面まで付けて、エリザベスの護衛騎士を務めていた。


「…………」


 アイリスの心が痛む。


 ユーグが生きていたことは、嬉しい。

 しかし、エリザベスに操られていたのだろうか? その目的は何だったのかと考えると、アイリスの胸は苦しくなるのだ。


 それに、ユーグは魔法にかけられている間の出来事を、どのくらい覚えているのだろう。


 なぜエリザベスの護衛騎士となったのだろう。

 なぜ、ユーグの気配はなかったのだろう。


 アイリスはペンをテーブルの上に置いた。


(今はまだ、真相がわからない)


 ユーグは今頃、おそらくジグムンドによる聞き取り調査を受けているだろう。


 アイリスはテーブルの上に置かれた、紅茶が入ったティーカップをじっと見つめた。

 お茶はとっくに冷めてしまっている。


 それにも構わず、アイリスは紅茶を飲んだ。

 喉が渇いているのに気づき、アイリスはすっかりと飲み干して、カップを戻す。


「奥様。ジグムンド陛下から、神殿にいらしていただきたいとのことです」


 侍女がアイリスに声をかけた。


 同時に、部屋の前で待機していた騎士達が部屋に入り、頭を下げた。


「シンプソン夫人。ご同行を願います」


 アイリスは立ち上がった。


***



「よく来てくれたね。あまり休憩する時間はなかっただろう、申し訳ない」


 アイリスが案内されたのは、神殿に作られている貴賓客用の面会室だった。


 部屋にいるのは、ジグムンドと彼の補佐官、そして護衛騎士のみだった。


「しばらく、席を外せ」


 ジグムンドの一言で、補佐官と護衛騎士は退室する。


「アイリス、そこに座って」


 アイリスがジグムンドと向かい合って座ると、ジグムンドは両手を組んだ。


「あなたが忘却の魔法を使うことは、国家機密だ。知ることのできる人間は限定されなければならない」


 ジグムンドが言った。


「——あなたの魔法は初めて見たが、見事だった。エリザベスは、聖女候補だった記憶を失っている。それはもう確認済みだ」


 アイリスはうなずいた。


「ありがとうございます」


「事件の全貌は、イグナチオの回復を待ってからの取り調べを待たねばならない。……ああ、彼は助かったよ。厳重に監視を置いて、治療を続けている」


 ジグムンドはアイリスを見つめた。


 黒のドレスを着たアイリスは、少し顔色がすぐれないように見えた。


 かすかに口角を上げたアイリスの表情は落ち着いているのだが、どこか人形のように作り物めいている。


 ローデール王国の第二王子と婚約していた頃のアイリスは、完璧令嬢と呼ばれ、よくこんな顔をしていた。


 ジグムンドはそんなアイリスの表情に見覚えがあった。


 真相がわからない今、手放しには喜べない。

 アイリスの慎重さが見えるようだ。


「あなたに関わりのあるところで言うと……そうだな、エリザベスへの取り調べで、彼女はイグナチオが彼女の家族の家に来たことを覚えていた。エリザベスの家族にも聞き取りを行う必要はあるが、イグナチオがエリザベスの能力を見抜き、聖女に仕立て上げようとしたことは間違いないだろう」


 ジグムンドはまっすぐにアイリスの目を見ると、励ますようにうなずいた。


「ユーグの状態はいい。エリザベスにかけられた魔法も解けている。もっとも、ユーグにはなかなか魔法がかかりにくかったようだな。ユーグはかなり多くのことを説明してくれたよ」


「そうでしたか——」


「問題なのは、なぜユーグが巻き込まれたか、なのだが」


 ジグムンドはアイリスを見た。


「あなたを巻き込むためだろう。なぜ、イグナチオがノーフォーク一族の異能を知っていたのかは、まだわからない。しかし、今後のことがある。あなたは不本意かもしれないが、改めてあなたの今後のことは考えなければならなくなるだろう」


 アイリスは無言だった。

 ジグムンドはひとつため息をつくと、表情を和らげた。


「私は成り行き上、イグナチオの取り調べが終わるまでここにいる必要がある。それに、パウルス国王のこともある。パウルスの方は、いささか厄介なことになるだろう——あなたにもその間、まだロアノークに留まってもらう」


「わかりました」


「申し訳ないが、ユーグとは会えるが、同じ部屋にしてやることはできない」


「わかりました」


 アイリスがうなずくと、ジグムンドは書類の下から、折りたたんだ紙を一枚取り出して、アイリスに差し出した。


「これを。あなたに渡してほしいとユーグに頼まれた」


「!!」


 初めて、完璧だったアイリスの表情が崩れる。

 アイリスは驚いて顔を上げた。


「さあ、それを持って、部屋に帰りなさい。食事は部屋に運ばせる。今日はもう、食べたら寝てしまうといい。——何かあれば、連絡をする」


 アイリスはユーグからの手紙を大切に手帳に挟み、ドレスのポケットに納めた。

 立ち上がって、ていねいにカーテシーをする。


「陛下、ありがとうございます。それでは、お言葉に甘えて、失礼いたします」


「……ゆっくり休みなさい」


 アイリスの背中に、ジグムンドはそう声をかけた。


***



 それは、間に合わせの紙に書かれた、短い手紙だった。



『アイリス』


『心配させて悪かった。許可が出たらすぐ、きみに会いに行く。だからもう心配するな』


『一緒にノール王国へ帰ろう』


『俺の最愛は、おまえだけだ』



 アイリスは何度も、ユーグの短い手紙を読み直した。


 アイリスがローデール王国の王子の婚約者になる前、アイリスとユーグがまだ幼かった頃のように、最後の一文だけだけ、ユーグはアイリスのことを『おまえ』と呼んでいた。


 最後に、アイリスはきちんと手紙を元どおりにたたむと、黒の手帳にそっと挟んだ。


「ユーグ」


 アイリスはそっとユーグに呼びかけた。


「わたくしの最愛も、あなただけよ」


 アイリスは手紙を挟んだ手帳に、そっと口づけた。


 ユーグは無事だった。

 ユーグは、生きていた。


 それなら、アイリスはまだ待つことができる。

 もうすぐだ。

 もうすぐ、アイリスはユーグとゆっくり会えるようになるだろう。


「おやすみなさい、ユーグ」


 アイリスは黒の手帳を大切に枕もとに置くと、すぐに眠りに落ちた。


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