第26話 忘却の魔法
聖女就任式は新しい聖女の誕生どころか、大混乱の状況へと変わってしまっていた。
聖女候補エリザベスは床に倒れており、大神官イグナチオは青ざめたまま立ち尽くしている。
神官席、来賓席だけでなく、神殿のあちこちで意識を失って倒れている者がいる。
エリザベスに忘却の魔法をかけたアイリスは、エリザベスの護衛騎士に掴みかかられ、一緒に床に倒れた。
ジグムンドと騎士達に助けられて、アイリスはようやく護衛騎士の体の下から抜け出したが、アイリスは仰向けになって倒れているその男から目を離せない。
しかし、アイリスがジグムンドに声をかけようとしたその時、エリザベスが動いた。
「痛いわ……」
エリザベスが目をこすりながら、上体を起こした。
「どうしたのかしら。ここはどこ……? 早く家に帰らないと、お父さんとお母さんが心配するわ」
エリザベスは立ち上がって、スカートの裾をはたこうとして、その手を止めた。
「いやだわ。何、このドレス? なぜわたしは真っ白なドレスなんて着ているの……?」
エリザベスは本当に戸惑ったように、自分の着ているドレスを見下ろした。
「エリザベス嬢」
ジグムンドは床に落ちて転がっていた聖杯を取り上げた。
祭壇に置かれていた水差しから、もう一度水を聖杯に注ぐと、エリザベスに渡した。
「エリザベス嬢、この聖杯にあなたの魔力を注いでくれないか」
「はい?」
最初はきょとんとしていたエリザベスだったが、周囲を見回し、誰も何も言わないのを見ると、ジグムンドから聖杯を受け取った。
目を閉じて、胸の前に掲げた聖杯に、魔力を注ぐ。
再び、キラキラした光が、聖杯に降り注いだ。
「ありがとう」
ジグムンドは聖杯を受け取る。
中の水は、透明なままだった。
「大神官イグナチオ殿、何か手違いがあったようですね。たしかにエリザベス嬢は魔法を使えるようですが、これは回復魔法の色ではない。つまり、エリザベス嬢は聖女ではありません」
はっきりと断言したジグムンドに、会場内からどよめきが広がった。
イグナチオはこれ以上ないほど顔を青くして、無言のまま、ジグムンドを見つめるしかない。
「エリザベス嬢の魔法を詳しく解析したいのであれば、私もお力になりましょう。ノール王国から専門家を派遣してもいい。ともあれ——今日の、聖女就任式は終了です。改めて、聖女が現れるのを待つしかあるまい」
参列者達は固唾を呑んでジグムンドとイグナチオを見守っている。
もはや、形式的な聖女就任式は破れた。
ロアノーク国王パウルスまでもが床の上に倒れ伏しており、まだ意識を回復した様子はない。
「今回の経緯は、神殿評議会としても経緯を詳しく確認する必要がありましょうな。イグナチオ殿には、正式に諮問会が開かれるまで、身柄を確実にしておきたいが、異論はないでしょうな?」
イグナチオはうなだれた。
「ご覧なさい」
ジグムンドは会場を示した。
「エリザベス嬢の護衛騎士、ロアノーク国国王パウルス陛下、神官達……少なくない人数の方々が、意識を失っておられる。彼らはエリザベス嬢の魔法の影響下にあったと考えられるでしょう。改めて、調査が必要です」
「あの……!」
か細い悲鳴のような声が響いた。
白のドレスを着たエリザベスがかたかたと全身を震わせて立ち尽くしていた。
「わ、わたしはなぜここにいるのですか? ここは、どこですか? わたし——わたしは何か大変なことをしてしまったのでしょうか——」
両手を握りしめ、なんとか震えを抑えようとしつつ話すエリザベスの姿は、年齢より幼く、哀れにさえ見えた。
「エリザベス嬢、あなたからも聞き取りが必要です。あなたが覚えていることを話していただきます。それまで、用意された部屋で過ごされるように」
ジグムンドが視線を送ると、騎士が二人、エリザベスに近寄り、彼女の腕を左右から拘束した。
「連れて行け」
「はい」
「ジグムンド陛下」
アイリスがジグムンドを呼んだ。
アイリスは床の上に倒れ込んだエリザベスの護衛騎士を抱き抱えるようにして、座っていた。
仰向けになった護衛騎士から、いつもは深くかぶっていたフードが外れ、顔があらわになっている。
しかし、その顔は——。
「この方、仮面を付けておられます」
アイリスは動揺した様子で言った。
倒れた時に、マントのフードは外れてしまっていた。
しかし、男の顔の上半分は、仮面で覆われていたのである。
顔の形に沿った薄い銀色の金属は、目もとだけではなく、額から頬の上半分、鼻先に至るまで覆い隠していた。
ジグムンドはアイリスの傍に膝をつくと、護衛騎士の仮面に手をかける。
その時だった。
「ノーフォーク一族の恥さらしめ……! 命じられたこともできないとは!!」
アイリスとジグムンドの背後で、騎士に拘束されていたはずのイグナチオがその腕から抜け出し、騎士の剣を奪って、アイリスに振りかぶっていた。
アイリスとジグムンドが振り返る。
「……!!」
ジグムンドもとっさに腰の剣に手をやるが、間に合わない。
「アイリス!!」
ジグムンドが叫び、魔法を発動させようとした瞬間、まるで空中から突然現れたかのような二人の騎士が、瞬時に左右からジグムンドを確保して、退避させた。
さらにもう一人の騎士がイグナチオの背後に現れ、右肩に剣を叩きつける。
しかし、イグナチオの足は止まらなかった。
アイリスは目を見開いた。
銀色の剣が目の前に迫ってくる。
しかしアイリスにはなす術がない。
剣を避けることも。
逃げることすらできない。
アイリスはぎゅっと目を閉じることすらできなかった。
(もう、だめ——っ!!)
そうアイリスが心の中で叫んだ次の瞬間。
アイリスは強い腕に抱き込まれ、視界がぐるりと反転する。
背後に鈍い音が響き、生温かいものが、アイリスの頬にぽたりと落ちた。
「すまない……きみの顔を、汚してしまった」
アイリスは床の上に横たわりながら、自分の身をかばってくれた人物に目を向ける。
黒のマント。
血だらけになってしまったマントを着た、仮面の騎士だ。
騎士が剣を抜くと、イグナチオの体は静かに床に沈んだ。
「申し訳ありません、陛下。急所は外したつもりですが……すぐに手当てをしないと、命が危ないかもしれません」
言葉をいっさい発することのなかった、エリザベスの護衛騎士が、喋っている。
その淡々として落ち着いた声に、アイリスは恐る恐る手を伸ばし、騎士の仮面に触れようとした時、騎士は激しく咳き込むと、そのまま床に倒れ込んでしまった。




