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黒衣の男爵夫人は、最愛を想いながら今夜も手帳を開く  作者: 櫻井金貨


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第24話 夜の鳥

 アイリスは狭いベッドに座り、じっとしていた。


 大神官イグナチオに毅然と振る舞うのは、難しくはなかった。

 かつて王子の婚約者として過ごした長い年月の中で、体に染み付いている。


 しかし、そのことと、たった一人で、異国の小さな部屋で監禁されている恐怖とは別だ。


 部屋の中は、だんだんと暗くなっていく。


 やがて夜になると、騎士が一人やって来て、明かりを点けたロウソクを一本、置いていった。


 か細い炎は、部屋の中を照らすには心もとない。


 アイリスは目を閉じ、何も考えないようにした。

 時計のない室内で、時間だけがゆっくりと過ぎていく。


 ときおり、扉の向こうで、衛兵が巡回する固い足音が響いた。


 そうして夜が更けるにつれ、大きく明るい月が顔を出し、ようやく簡素な部屋の中を照らしてくれた。


「月の光って、明るいのね。部屋の中より外の方が明るいように見えるわ」


 アイリスは部屋に置かれた数少ない家具である粗末なベッドの上に座り、手の届かない高さに開けられた小窓から見える月に目を向けた。


 鉄格子もない窓。


 しかし、そこから逃げ出すには小さすぎ、何よりも位置が高すぎて、アイリスには手も届かない。


「鳥だったら問題なく通り抜けられるのでしょうけれど」


 そうつぶやいて、ため息をついた時だった。


 突然、大きな羽音がしたかと思うと、一羽の鳥が小窓をすり抜け、アイリスの前に降り立った。


「!?」


 ベッドに着地する前に広げた両翼は、部屋の左右の壁に付いてしまいそうなくらい大きく、アイリスは思わず息を呑んで、ベッドの上で後ずさった。


『アイリス』


「……え?」


 鳥はたしかにアイリスの名前を呼んだ。


 鳥は灰色の頭部から、胸、足にかけて色合いが濃くなっている。

 器用に畳んだ大きな羽は、ほぼ黒かった。

 くちばしと鋭そうな爪は黄色で、その瞳は薄青い。


「ええ……?」


 その瞳をどこかで見たような気がして、アイリスは首をかしげた。


「まさか」


『私だ』


「!!」


 アイリスは恐る恐る大きな鳥を見つめる。


「陛下……?」


 鳥はうなずいた。

 おまえの言葉はわかる、と言いたげに。


『あなたに話す必要があった。「影」が、あなたが捕えられたと報告してきた。傷つけられてはいないか?』


 そう言いつつも、鳥はせわしく薄青い瞳を動かして、アイリスの体を確認している。


「——大丈夫です。午後に、エリザベス様とお茶をして。お部屋を出た直後でした。何か薬を含んだ布を鼻に押し付けられて、意識を失いました。気がついたらここに」


『なぜ監禁された』


「大神官イグナチオ様に、聖女就任式で、陛下に忘却の魔法をかけるようにと命令されています」


『そうか』


「参列者の方々にも——」


 鳥は目を閉じた。


『アイリス。イグナチオは明日、あなたを就任式に連れて行くつもりだな?』


「はい。ユーグが生きているかもしれないと匂わされて、協力を求められました」


 鳥が羽を広げ、体を揺らせた。


『アイリス。私に魔法をかけると見せかけて、エリザベスに魔法をかけるのだ』


 アイリスは息を呑んだ。


「エリザベス様に——!?」


『私に忘却の魔法をかけようとするのは、聖女の認定が通らないのを知っているからだろう。だから、エリザベスに魔法をかける。もし本物の聖女ではなく、聖女を装っているだけなら、記憶を失ったらもう聖女としては振る舞えないはず』


 アイリスは鳥の薄青い目を見つめる。


『エリザベスの聖女候補としての記憶を消せ』


 室内は静かだった。

 時々聞こえていた、衛兵の靴音も、まったくしない。


 聖女候補エリザベスに、忘却の魔法をかける。


 ジグムンドを始め、大神官イグナチオや各国からの参列者がいる中で。

 イグナチオの配下の騎士もいるだろう。


 そんな状況の中で、失敗のできない魔法をかける……?


 アイリスは深呼吸をした。


(失敗はできない。チャンスはただ一回。でも)


 やるしかない。


「はい。わかりました、陛下」


 アイリスはしっかりとうなずいた。


 そんなアイリスの様子を見届けると、鳥は羽を広げた。


『もう戻らなければ。いいか、アイリス。影に探らせたが、神殿にユーグの気配はなかった。しかし、神殿の地下牢にだけ、ユーグの気配が見つかった』


「それは、どういうことになるのですか」


『ユーグの生存の可能性がまだある』


「あ」


 アイリスは予期せず涙が頬を伝うのを感じた。


『アイリス・ノーフォーク・シンプソン。ユーグを信じろ。希望を捨てるな。ノーフォーク一族の人間として、全力を尽くせ』


 鳥はその言葉を最後に、羽を広げて飛び上がった。

 小さな窓から、器用に体をすり抜けさせる。


「ふ」


 アイリスは両手で顔を覆った。

 ひとしきり泣いて気持ちが落ち着くと、ドレスのポケットに隠し入れているハンカチを取り出して、目もとを拭った。


 目の前には、かぼそく揺れる、一本のロウソクがあった。

 朝までの時間は限られている。


(練習をしよう。集中するのよ。明日、大勢の人の前で、エリザベス様に忘却の魔法をかけなければならない。失敗はできないわ——ユーグの命が、かかっている……!)


 ユーグはまだどこかにいる可能性がある。

 どこにいるかはわからない。

 それでも。


(このチャンスは潰さない)


 アイリスはロウソクを見つめる。

 炎に意識を集中させ、エリザベスの顔を思い描く。

 エリザベスを自分の中に入れることはできるだろうか……?

 自分の中の一部になれば、記憶を消すのはたやすい。

 アイリスは自分の記憶を、間違いなく消すことができるからだ。


 アイリスは、エリザベスの目を見つめ、聖女候補としての記憶を消すイメージを、繰り返し作った。


 明け方近くになって、アイリスはようやく納得したようにうなずいた。

 ロウソクの炎はほぼ消えかけていた。


「少しでも眠りましょう。わたくしは、あきらめない……!」


 アイリスは硬いベッドの上に体を横たえ、目を閉じた。


(まだわたくしにもできることがある。ならば、全力でやり抜くのみ)



 聖女認定を含む、聖女就任式の開始まで、十時間を切っていた——。


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