第23話 非情な取引
「お目覚めですかな、シンプソン夫人?」
まるで深い海の底から、急激に体を引き上げられたかのようだった。
アイリスは突然、覚醒した。
「けほ…けほっ……」
喉が痛くて、アイリスは体を丸めて咳をした。
鼻の先に、何かつんとする匂いのハンカチを押し付けられている。
たまらずアイリスが手で押し退けると、大神官イグナチオは薄く笑った。
「お体は大丈夫そうですね」
アイリスはようやく体を起こすと、ぐらぐらする頭を抱えつつも、必死で周囲を見回した。
何があったのか。
ここはどこなのか。
聖女候補エリザベスと会っていたのに、なぜ今はイグナチオが目の前にいるのか。
何もかもがわからないことだらけだ。
今、アイリスがいるのは、小さな部屋だった。
アイリスはベッドの上に座っていた。
薄い毛布が一枚掛かっているだけの、簡素な寝台だ。
すぐそばには小さな丸テーブルがひとつ置かれている。
部屋の中も、殺風景で、窓は一箇所のみ。
窓に鉄格子ははまっていないが、小さい上に高いところにあるので、手は届かないだろう。
部屋の扉も一箇所のみで、まるで囚人を閉じ込めるような、鉄製の扉だった。
アイリスは青ざめて、目の前のイグナチオを見つめた。
「ここは、どこなのです? わたくしはなぜこんなところにいるの?」
「落ち着いてください、シンプソン夫人」
イグナチオの声は淀みなかった。
「あなたはこの部屋で、明日の聖女就任式までお過ごしいただくのですから。なに、不自由はありませんよ。お食事も後で運ばせましょう。今夜はここから出して差し上げることはできませんが、明日は侍女も呼び、就任式に出席する支度も整えますから、安心しなさい」
アイリスはイグナチオの言葉に絶句した。
仮にもノール王国使節団の一員を拉致しておいて、安心しなさいとはどういうことなのか。
アイリスの片眉がひゅっと上がった。
自然と、厳しい言葉が出る。
「いいえ。わたくしはこんなところに留め置かれる理由はありません。今すぐここから解放しなさい」
イグナチオはまじまじとアイリスを見た。
「……懐かしいですね。不正は許さない、そうおっしゃるおつもりですか? 実は私は、あなたが王子の婚約者だった頃にお見かけしているのですよ。完璧令嬢、そう言われていた頃のあなたとね。あなたは物腰柔らかなご令嬢でしたが、なかなか芯が強い方のようにお見受けした」
「な……!」
「あなたがお元気そうで安心しましたよ。さっさと話を進めてしまいましょう」
イグナチオの暗い色の瞳が鈍く光った。
「聖女の就任式がどのように行われるか、ご存知ですか、シンプソン夫人?」
突然の話題の転換に、アイリスは瞬いた。
イグナチオはそんなアイリスの様子を気にも止めず、言葉を淡々と続ける。
「就任式に先立ち、聖女の認定の儀が行われるのですよ。その認定を行うのが、ジグムンド陛下なのです」
その話は、ジグムンドから聞いている。
アイリスは何も言葉を返さず、イグナチオの言葉を待った。
イグナチオはベッド脇のテーブルに置かれていた、水の入ったグラスを持ち上げた。
「どのように聖女を認定するのか、わかりますか? 聖水を使うのです。こうして。杯を持って、魔力を込めるのです。今、杯を満たしているのはただの水ですが、回復魔法を使える聖女が魔力を込めると、水には癒しの力が宿ります。そして、水はエメラルドグリーンに色を変えるのです」
「!!」
「そうなのです。聖女認定は、何もジグムンド陛下でなくても、子どもにだって判定できるくらいに明確なのです。だからこそ、問題なのですよ、わかりますか?」
そう言うと、イグナチオは首をかしげた。
「不正の入る隙間もないくらい、明らかなのです」
イグナチオの言葉は、まるでぜひ不正をしたいと言っているように聞こえた。
アイリスはじっとイグナチオの目を見つめた。
「そこで、あなたの出番というわけです。アイリス・ノーフォーク侯爵令嬢」
イグナチオは無言でアイリスに近づくと、額と額が付くくらいに距離を縮めた。
イグナチオの暗い瞳が、アイリスをじっと射竦める。
「ジグムンド陛下に、『忘却の魔法』を、かけていただきます」
イグナチオはゆっくりと口角を上げた。
「ジグムンド陛下に魔法をかけたら、儀式の参列者にも。二十人ほどいますが、なに、心配はいりません。一人ずつかければいい——聖女認定の儀を覚えている者がいなくなるように」
イグナチオは悠然と微笑んだ。
「後の心配はいりません。簡単でしょう……?」
アイリスは沈黙した。
もう、ここまで来れば明らかだった。
エリザベスは聖女ではない。
エリザベスは回復魔法を使えない。
ジグムンドを筆頭に、参列者から聖女認定の儀の記憶を消し、うやむやのうちにエリザベスが聖女であるという事実を作り上げるつもりなのだ。
周到な計画がすでに立てられている。
アイリス自身は囚われ、明日の儀式まで身柄を拘束される。
アイリスは高すぎる窓と、一ヶ所しかない扉、余分なもののいっさいない小さな部屋を見回した。
イグナチオはアイリスの力を使い、エリザベスを聖女にしたい。
そしてその方法に自信があるのだろう。
もし、アイリスが協力すれば。
「……わたくしが協力するとでも?」
アイリスが低い声で言うと、しかし、イグナチオは楽しげに指を鳴らした。
「あなたの夫君はまだ……生きているかも、しれませんよ……?」
イグナチオはアイリスを見た。
「あなたのご決断ひとつです」
暗い灰色の瞳をしたイグナチオは、今では楽しげにも見える表情を浮かべていた。
「あなたは、夫を救いたいですか? シンプソン夫人?」
***
ジグムンドは少し体を休めたいという口実で、宿舎の寝室にいた。
すでに人払いをしていて、補佐官も侍女も退室している。
『陛下、ユーグ・シンプソンの気配はありませんでした。一箇所、あることはあったのですが、新しいものではありません。過去のものです』
ジグムンドは報告に訪れた『影』に視線を向けた。
『影』と呼ばれるだけに、その姿は隠れていて見えない。
しかし、ジグムンドには『影』が潜む場所を感じられるかのようだった。
「どこだ」
ジグムンドは独り言のように言葉をつぶやいた。
『神殿の地下牢です。強い気配が残っていました。そこにいたのは、間違いありません』
「地下牢か」
『はい』
よい兆候ではない。
どんな理由があったにせよ、地下牢に囚われていたということは。
「その後は、追えないか?」
『魔法を使える者にも見せましたが、痕跡がないと』
「…………」
ジグムンドは沈黙した。
「処刑されたのか?」
『死の痕跡はありません。ノールから派遣された騎士を一人、殺す。その理由が不明です。ユーグ・シンプソンは消えた、そう申し上げます』
『影』の返答を聞いたジグムンドは薄く笑った。
「生存の可能性はあるということだな。まあいい。もしノールの騎士を殺したのなら、友好国であろうと、聖王国であろうと、容赦はしない。対価を必ず支払わせる。ノール女騎士団のもたらす安らかな死など与えない。恐怖と苦痛に満ちた死を贈ってやるのみ」
『御意。陛下、報告がもうひとつ』
「何だ」
『ユーグ・シンプソンの夫人が、神殿に囚われております』
「何だと?」
ジグムンドの表情が変わった。
『聖女候補とのお茶会の後、薬で意識を失わされ、神殿の奥深くに連れて行かれました』
「彼女に付けていた『影』はどうした」
『申し訳ございません』
遅れを取ったのか。
それとも、現場に『影』が介入できない人物がいたのか。
高位の人物か——。
ジグムンドは沈黙した。
深く考えの中に沈む。
『影』もまた、沈黙した。
やがてジグムンドが『影』に指示を与えると、『影』はすぐに気配を消し、主人の命令を実行するために動き出した。




