第19話 国王パウルス
『義兄上、お疲れではないですか? お茶にしませんか?』
ふと、懐かしい、そんな声が聞こえたような気がして、パウルス国王は書類を確認する手を止め、顔を上げた。
「……陛下? 何かご不明な点が?」
執務室でパウルスの補佐をしていた秘書官が、あわてて姿勢を正した。
「いや。大丈夫だ。ちょっと頭に浮かんだことがあって」
「さようでございましたか。——お疲れでしたら、少し休憩になさいますか?」
「う……ん」
パウルスは言葉を濁すと、目の前の机に積まれた書類を見る。
いよいよ各国要人も招いた、聖女の就任式が数日後に迫っている。
もっとも気を使う、ノール王国国王ジグムンドもすでに宿舎入りしたとの報告があった。
(いつもより働いている気持ちなのだが、なかなかはかどらないな。もし、イーサンがいたら……)
ふっと意識に上がる、異母弟のことを考えてしまう。
あざやかな赤い髪が印象的だったイーサンは、書類仕事よりも騎士として鍛錬する方が好きだと言っていたが、どうして優秀な頭脳の持ち主だった。
父王を助けて、見えないところであれこれと手を回してくれていた。
王位継承争いの当人同士であるにも関わらず、亡くなった王妃の遺した第一王子である自分をいつも立て、おかしな噂などはいっさい許さない、そんな強さと優しさも持ち合わせた男だった。
いつでも敬意を持って「義兄上」と呼んでくれる。
現王妃の産んだ男子。第一王子ではあるが、後ろ盾のいないパウルスと違い、もし第二王子のイーサンが望んだのなら、王太子となるのは難しくなかったはずだ。
しかし、イーサンは、王太子候補から自ら降りた。
パウルスはため息をついた。
ここは自分でやるしかないのだ。
イーサンはもう、いないのだから。
気を取り直して、集中しようとした。
その時だった。
執務室のドアを叩く音がした。
「パウルス陛下、イグナチオでございます。エリザベスの本日の神殿でのお勤めが終わりましたので、ご挨拶にまいりました」
はっとしてパウルスは顔を上げた。
「通してくれ」
「かしこまりました」
急いで秘書がドアを開けると、白いドレスを着たエリザベスを従えて、背の高い、黒髪の男が入ってきた。
「パウルス陛下には、ご機嫌麗しくお喜び申し上げます」
挨拶を述べる男の後ろで、エリザベスもちょこんとカーテシーをしている。
「楽にしてくれ。イグナチオ、エリザベス嬢」
「恐れ入ります」
イグナチオが顔を上げた。
秘書官にうなずきかける。
「……茶を用意してくれないか。ちょうど休憩しようと思っていたところだし」
「かしこまりました」
秘書官が控室に下がって行く。
「二人とも、座ってくれ。せっかくだからお茶を」
「ありがとうございます」
執務室の一角に用意されているソファに、イグナチオとエリザベスが座る。
「陛下、少しお疲れなのではありませんか」
パウルスもソファに座ると、イグナチオが気遣わしげに言った。
パウルスは黒髪に、灰色の瞳をしていた。
彼の容姿は母親似だった。
前王妃アグネスと同じ色合いを持っているのだが、こうして黒髪のイグナチオと向かい合って座っていると、不思議にも、パウルスはどことなくイグナチオとも似たところがあった。
背が高いところ。
少し痩せているところ。
表情に乏しい顔には、生真面目で、少し融通が利かない性格が垣間見えているように思えた。
そんな親しみがあったせいだろうか。
パウルスは、それこそ子どもの頃から自分を気にかけてくれていたこの大神官を、ひそかに叔父のように慕っていた。
とりわけ、明るく、華やかな容姿に恵まれたイーサンと比べると、どうしても暗い印象になる髪と瞳の色を持った自分。
そんな自分にも分け隔てなく接してくれる、宮廷でも地位のある人物。
イグナチオは、パウルスにとってはまさに頼りになる存在と言えた。
(母上はとうに他界され、新しい妃を娶った父上との距離は遠かった)
(義母上はいつも丁寧に接してくれたが——そんな優しい義母上が私を王太子に推したのは、私という存在自体が義母上に負担をかけてしまっていたのでは)
自分は王家にとって不要な存在なのではないか。
自分は国王に相応しい存在ではないのではないか。
そんな想いが、パウルスから離れることはない。
パウルスはイグナチオにそっと首を振った。
「大丈夫です。たしかに疲れてはいますが。仕事が——お恥ずかしいが、私がまだ要領よくできていないためだと思います」
イグナチオとエリザベスがそっと顔を合わせる。
次の瞬間、エリザベスは突然、パウルスの額に手を当てた。
「エリザベス嬢!?」
思いがけないエリザベスの行動に、パウルスは顔を赤くして後ろにのけぞった。
「あら。ごめんなさいませ、パウルス様」
「エリザベス。陛下をお名前で呼んではいけない。陛下、と。それに、許可も得ず突然お体に触れてはいけない」
イグナチオが厳しい声でエリザベスを咎めた。
エリザベスはわかりやすいくらい、すぐに表情を曇らせた。
「イグナチオ。まあ、公的な場所ではないから、そこまでは——」
「いえ、陛下。エリザベスは聖女となる身。聖女らしい身の振る舞い方をしっかりと身に付けなければなりません」
エリザベスはしゅん、とうつむいたが、ふっとまるで花が開くように微笑むと言った。
「陛下、失礼なことをして申し訳ありませんでした」
まるで子どものようにぴょこん、と頭を下げる。
その様子に、パウルスは思わず、ふっと微笑んだ。
(宮廷にこんなに素直で可愛らしい女性はいないな)
「どうして、私の額に触れようと?」
パウルスが言うと、エリザベスはふふっと笑った。
笑うと、左の口もとにえくぼが出来た。
「お疲れと聞いて。ご病気だったらいけないと思いましたの。それでお熱を測ろうと。下町では、皆そうしてお熱を測るんですのよ」
エリザベスの言葉を聞いて、パウルスも笑い出した。
「私が? 熱を?」
「えぇ。たとえ国王陛下でも、お熱は出されるでしょう?」
そう言ってこてりと頭をかしげたエリザベス。
ストロベリーブロンドの髪が、ふわりと揺れた。
「そうか。……そうだな。たしかに、国王でも時には風邪を引いて、熱も出すだろう」
——まるで平民の母親のように、額に手を当てて熱を測る。
そんな女性は、宮廷にはいないだろうけれど。
エリザベスには、いきいきとした、人間らしい感触がある。
礼儀正しい宮廷の貴婦人達とは、違う。
そう思うと、エリザベスは特別な存在のように思われてきた。
「陛下」
イグナチオが穏やかな口調で言う。
「エリザベスをお部屋に行かせましょう。回復魔法をかけさせればよろしいのです」
「しかし、私は病気ではない。貴重な魔力を病気でもない私に使うのは」
イグナチオはにっこりと笑った。
「王家に仕えるのも、聖女の立派な役割です。病気ではなくとも、かなりお疲れのようにお見受けいたします。エリザベスの回復魔法は、気力、体力の衰えにも効果があるのです。夜もゆっくり、眠れるようになりますよ」
「それは——ありがたいが。エリザベス嬢は神殿でもう参観者に回復魔法を使っているだろう。あまり魔力を使い過ぎるのはよくないのではないか」
「陛下」
イグナチオとパウルスのやりとりを聞いていたエリザベスが言った。
「わたし、お部屋にお伺いします! 陛下のお役に立ちたいのです」
エリザベスはじっとパウルスの目を見つめた。
エリザベスの青い瞳が潤んだ。
「このままでは陛下がお気の毒だわ。少しでも元気になっていただきたいのです」
「エリザベス嬢——」
「でも、ご迷惑でしたよね……? いくら貧民街の聖女と呼ばれていたって、わたしは何の教育も受けていない、ただの平民の娘ですもの」
「エリザベス嬢。いや、何もそんな」
「…………いいんです。陛下、わたしが身の程知らずだったんです。陛下を癒そうだなんて——。イグナチオ様は、聖女は王家に仕えるものだとおっしゃるけれど、さすがに、わたしのような者が陛下のおそばにいることは……」
エリザベスは両手を祈るように組んだ。
両腕に押されるようにして、豊かな胸が盛り上がった。
エリザベスは悲しそうな表情でパウルスを見上げる。
純真な、無垢な乙女。
そんな彼女にこんな悲しい顔をさせるなんて。
パウルスは折れた。
「……もし、負担でないなら。執務後に来ていただけたら嬉しい」
「はい!!」
エリザベスはぱっと笑顔になった。
「わたし、一生懸命やります! 陛下のために!」
パウルスは困っように笑った。
「そうか——ありがとう」
聖女候補エリザベスに個人的に回復魔法をかけてもらう。
この決断が、パウルスの今後を大きく変えることになるのを、彼はまだ知らな
かった——。




