第17話 亡命者リンダ・エヴァンジェリーナ(3)
アイリスはパルミラの待つ部屋に戻ると言った。
「わたくしを見て、リンダ・エヴァンジェリーナ」
パルミラは顔を上げると、期待に満ちた表情でアイリスを見つめた。
パルミラの黄色の瞳と、アイリスの紫色の瞳が視線でつながる。
(今だけ、相手を自分の中に入れる)
(記憶を消すことだけを考える)
(相手と共鳴する)
「そうよ。あなたはこれから、リンダ・エヴァンジェリーナとして生きるの」
これからも生きるために。
生まれ育ったローデール王国を後にした時の、アイリスの気持ちが蘇ってきた。
人生はきっと、やり直せる。
きっと、あなたも。
アイリスはパルミラの心の中に、自分と同じ再生への想いを感じた。
まるで自分のもののように、パルミラの記憶を自分の中に感じる。
その時、アイリスは前回は感じなかった、体の中から生まれる、強い力を感じた。
その強い力は、まぶしい光となってアイリスの体の中を駆け上がった。
アイリスの紫の瞳が、光を帯びる。
アイリスは心の中ではっきりと意図を言葉にした。
『パルミラ・カレンベルクの記憶よ、消えよ……!!』
***
「奥様、おかえりなさいませ」
長い一日だった。
意識を失ったままのパルミラはすみやかに部屋から運び出されていった。
父であるノーフォーク侯爵によると、別室で意識が戻るまで経過を観察されるという。
『心配はいらない。おそらく、しっかりと魔法はかかっている』
ノーフォーク侯爵はそのままアイリスをシンプソン男爵邸に送ってくれた。
『一度、忘却の魔法をかけたなら、それまで。その後相手と関わることはもうない』
ノーフォーク侯爵はそう言うと、そっとアイリスを抱きしめて馬車に戻った。
時刻はすでに夕方になっている。
ようやく自宅に入ると、玄関で執事のトマスと侍女のセイラがアイリスを出迎えた。
「奥様、まずはゆっくりなさってください。お茶をすぐご用意いたしますね」
セイラはいそいそと台所に向かう。
「お疲れでございましょう。……ロアノークへのご出発は明後日でしたね?」
「ええ。でも明日には陛下が迎えを寄越してくださるの。王宮で一泊するのかもしれないわ」
「でしたら、今夜はゆっくりなさらないと。セイラはもう、お荷物の準備を済ませていますよ」
「まあ」
アイリスは居間に入っていった。
わふ! と声を上げて、牧羊犬のオイスターが走り寄ってくる。
白猫のカカオは、ソファの上で目を覚まし、体を大きく伸ばした。
「オイスター、カカオ、ただいま」
アイリスがソファに腰を下ろすと、オイスターがアイリスの膝に頭を載せて、尻尾を振った。
カカオはアイリスの腕に擦り寄り、体を伸ばして喉を鳴らす。
アイリスはカカオを抱き上げ、ふんわりとした白い毛並みに鼻先を埋めた。
「あなた達が家にいてくれて、嬉しいわ」
アイリスはそうつぶやくと、オイスターとカカオが家に来た経緯を思い出した。
***
それは、借家を出て、ユーグが下町に見つけた現在の家に移り住んだ頃のことだった。
『まあ……ユーグ……!!』
そう言うと、アイリスは驚きのあまり言葉を詰まらせた。
困ったような顔をしたユーグが、アイリスにそっと黄色がかったベージュ色の子犬を差し出す。
アイリスは思わず手を伸ばして、子犬を抱き寄せた。
温かな子犬の体が、迷うことなくアイリスに体重を預けてくる。
『騎士団の詰所に迷い込んで来たんだ』
ユーグが大きな体を屈めて、子犬の頭を撫でてやる。
『うちで飼えないかと思って』
ユーグの言葉に、アイリスは目を丸くする。
『俺は夜勤もあるし、いつもアイリスのそばにいられるわけじゃない。……きみが寂しくないように』
ユーグがためらいながら言った。
アイリスはユーグの気持ちを察しながらも、戸惑いは隠せない。
『でも、犬を飼ったことなんてないのよ? どうお世話すればいいのかしら?』
ユーグは子犬を抱くアイリスの頬に、そっとキスをする。
『きみならきっと大丈夫。騎士団に犬を飼っている人もいるんだ。わからないことがあったら、聞くから』
そうして、ユーグに押されるようにして、アイリスは子犬を迎え入れることに同意して、オイスターと名付けた。
子犬の毛並みが、ノール王国名物料理の牡蠣の色に似ていたからである。
その次の年には、ユーグは白猫を抱えて帰宅した。
『オイスターにも友達が必要だろう?』
『ユーグったら。オイスターは犬よ。この子は、猫でしょう? それに旅行に行く時が心配だわ。連れて行けない時がかわいそうよ。動物はもうダメよ…………この子が最後』
顔を赤くしてささやいたアイリスに、ユーグは表情を緩めた。
『可愛い子だろう? きっとアイリスは気に入ると思った』
アイリスはふわふわとした白い毛並みに覆われた、柔らかな体の猫を抱きしめる。
抱きしめてしまえば、この子を手放すことはもう不可能だ。
猫の目が糸のように細くなり、ごろごろと喉を鳴らす音が聞こえた。
『今度も、名前はわたくしが付けるわよ?』
『もちろん』
ユーグは猫の頭をぽんぽんすると、その流れでアイリスの頭にも同じように触れた。
「まあ、ユーグ。わたくしは猫じゃないわよ?」
そうアイリスが言うと、ユーグは今度こそ明るい笑い声をたてた。
『きみが寂しくないように』
アイリスには、ユーグが本当に彼女のことを心配しているのがわかっていた。
当時、アイリスの家族はまだローデール王国におり、ノール王国には姉が一人いるだけ。
その姉も侯爵夫人で、そうそう会えるとは限らない。
ノール王国で暮らし始めてまだ年数も短く、アイリスには家族も友人と呼べる人も少なかった頃だ。
王宮騎士団に入って日々忙しくしている自分と違って、アイリスは一人ぼっちで家に残り、寂しい想いをしているのではないか——?
ユーグはいつもアイリスに優しい。
いつもアイリスのことを心配していた。
でも、まさかこんな事態を想定して動物達を連れてきたわけではない、そう信じたい。
アイリスはカカオを胸に抱き抱えたまま、自分の膝に足を載せてきたオイスターの頭に額をつけた。
動物達の体温が温かい。
我慢しようとしても、涙がこぼれ落ちる。
「ユーグ」
アイリスの苦しげな声が漏れた。
アイリスはそれでも必死に涙をこらえようとした。
すっと顔を上げる。
「……わたくしは侯爵令嬢として育って、ローデール王国第二王子の婚約者として、王子妃教育を受けたわ。でも、それだけ。何か特別の技能があるわけではない」
そう言った後、アイリスは少し考えた。
「ううん。一族に伝わる異能は受け継いだわね。でもそれが何かの役に立つかは、わからないわ」
アイリスは深呼吸をした。
「……それにロアノーク聖王国でわたくしに何ができるかもわからない。それでも、ユーグのために、わたくしが動かなければ。今度は、わたくしがユーグを守らなければ」
ユーグは死んだ、と告げられた。
しかし、アイリスはまだ、ユーグの死を目の当たりにしていない。
事実は巧妙に隠されている。
「しっかりしなくちゃ!」
アイリスはわざと大きな声を出した。
「だめね、わたくしったら。もう大丈夫だと思ったのに……気が緩むと、ついめそめそしちゃうわ」
アイリスはカカオを両手で高々と掲げる。
カカオはびっくりして、抗議の鳴き声を上げた。
「あら。ごめんね、カカオ」
アイリスは腕を下ろすと、カカオを胸にぎゅっと抱きしめる。
すると、カカオは再び抗議の声を上げて、ソファに飛び乗ってしまった。
「しつこいって言っているのね? カカオったら」
アイリスはそう苦笑し、ふと、視線を窓に向けた。
外は少しずつ暗くなり、窓ガラスには黒のドレスを着た自分の姿が映っていた。
わたくしは大丈夫、そうアイリスは思う。
黒いドレスを着ていても、背筋はまっすぐに伸びている。
自分の顔も、けしてうつむいてはいない。
(そう、黒のドレスは戦闘服。わたくしがユーグの死を受け入れて喪服を着ているように思う人には、そう思わせておけばいい。その間に、わたくしは証拠を掴んでみせる……!)
アイリスは立ち上がった。
オイスターとカカオはすっかりくつろいで、眠たげにソファにもたれていた。
(ユーグを助けるなら、自分しかいない)
待っていて、ユーグ。
わたくしがきっと、あなたを助ける。
この想いは、どこかにいるユーグに届くだろうか?
(だから、ユーグ)
(無事でいて——)




