第16話 亡命者リンダ・エヴァンジェリーナ(2)
「私はパルミラ・カレンベルクと名乗りましたが、もうひとつの名前があります」
パルミラはそう言うと、柔らかい微笑みを見せた。
「リンダ・エヴァンジェリーナといいます」
パルミラとアイリスは、改めて二人、椅子に座って向き合っていた。
「実は、私は銀細工が大好きで、いつか父の商会に銀細工の専門店を立ち上げるのを目標にしておりました。父の援助で優秀な銀細工師も抱えていて、市場に出す新しいデザインの試作を進めていました」
そう言うと、パルミラは微笑んだ。
「銀細工のデザイナーとしてリンダ・エヴァンジェリーナと名乗るつもりで、将来は名前を冠した店を開くのが夢です」
パルミラはカレンベルク商会の跡取り娘だという。
シェファン王国のフランシスコ王子と婚約した裕福な商人の娘、パルミラその人だったのだ。
「本当に戸惑いました。なぜ、平民の子女である私が、と」
パルミラは目を伏せた。
「たしかに父の商会はおかげさまで順調で、シェファン王家にも数々の商品を納めさせていただいています。また、父の勧めで、平民ではありますが、王都の学園で教育を受けることもできました」
アイリスはパルミラの話に耳を傾けた。
「王子殿下は私に結婚の申し込みをされた時におっしゃいました。前の婚約者は隣国の王女だったが、ある日突然亡くなってしまわれたと。あまりの衝撃と悲しみの中、日々を過ごしていた時に、父とともに王宮へ商品の納入に伺った私の姿を見たのだと」
アイリスは黙ってパルミラを見た。
少しためらったが、ポケットから小さな黒い手帳を取り出す。
「もし差し支えなければ、メモを取ってもいいかしら?」
「はい。どうぞ」
パルミラはうなずいた。
「……殿下は、私が王女殿下によく似ているとおっしゃいました。私がそばにいると悲しかった心が癒されると。そして結婚を申し込まれたのです」
アイリスは膝の上に黒の手帳を開き、ペンを手にしながら、耳を傾けた。
「私は亡き王女殿下を存じ上げません。なので、本当に私と似ていらしたのかは、わからないのです。絵姿は拝見しましたが……正直、似ているかと言われても、よくわかりません」
パルミラは今でも困惑していた。
王女の絵姿は、父が見せてくれたという。
「殿下は私に婚約の印と言って、銀の指輪を贈ってくださいました。古い指輪で、王家の品だと。でも……」
パルミラは表情を曇らせた。
話の核心に近づいているのがわかった。
アイリスはそっと手を伸ばして、パルミラの手を励ますように握った。
「わたくしはその指輪を家でよく見た時、違和感を感じたのです。それは、王子の亡くなった婚約者であった王女殿下が絵姿の中で、婚約指輪として身につけていた指輪と同じものに見えました」
銀の婚約指輪。
将来は銀細工の店を出そうと考えているパルミラである。彼女は指輪のデザインをよく覚えていた。
「亡くなられた婚約者である、王女殿下が身につけていた指輪を、新しい婚約者に贈るものでしょうか……?」
パルミラは続けた。
「もともと、できれば婚約のお申し込みは断りたいと思っていました。いただいた銀の指輪もお返しするつもりでした。王家の方の所蔵する宝飾品には、由来があるものが多いでしょう? 調べてみて指輪の由来がわかったら、それを理由にして、受け取れませんとお断りできるのではないかと考えました」
パルミラは王子から渡された指輪を商会の銀細工師に見てもらった。
その結果判明したのは、パルミラの予想を大きく超える一事だった。
「その指輪には毒薬が仕込んであったのです——すみません、そのペンと手帳をお借りしても?」
パルミラはそっと手を伸ばし、アイリスから手帳とペンをを受け取ると、サラサラと指輪の絵を描いた。
流麗で、細かな線が銀の指輪の細かな細工まで見事に描いていく。
「銀細工師が、指輪の台座裏に仕込まれた極細の針を見せてくれました。台座の宝石の下には隠し場所があり、毒薬が仕込まれていました」
パルミラの持つペンが、すっと針の隠されていた場所を示す。
「指輪自体はとても美しいものなのです」
パルミラは手帳をアイリスに返した。
「殿下の意図はわかりません。でも、前の婚約者である王女殿下が突然死亡したことは事実です。もし、私が死亡したら、王子殿下に何か利益があるのでしょうか? 私にはわかりません。でも、この指輪は危険だと思いました。王女を殺したかもしれない指輪。そして私を殺すかもしれない指輪。殿下の意図がわからなかったからこそ、私は怖かった。それで私は父にも真相を伝えず、国を出たのです」
「そして辿り着いたのが、ノール王国だったのですね」
「はい。私は幸運でした。行き倒れていた私を助けてくださったのが、女性騎士だったのです。そして、その方から上官へ、そしてジグムンド陛下へと話が伝わりました」
陛下が私を保護するとおっしゃった時には、本当に心が楽になりました、とパルミラはつぶやいた。
「ジグムンド陛下にすべてをお話しして、私は記憶を消すことを決断したのです。パルミラ・カレンベルクとしての記憶……王子に関わる記憶を消す。そしてリンダ・エヴァンジェリーナとしてこれからは生きると」
「パルミラとして知ったことが、とても危険であると思いますか?」
「そう思います。そしてそれは私一人の手では何ともできない——。それはどうしたって、前婚約者である王女の死に結び付きます。真相を暴こうとも思っていません。知りたくもないのです。それは私の力を超えることです」
「リンダ・エヴァンジェリーナの名前を使うことは、安全ですか?」
「わたくしの新しい銀細工の店の名前です。ずっと準備をしてきて、でも、公にはしていませんので、この名は、父しか知りません。私には、この名前と銀細工の記憶だけあれば、きっと——」
「あなたのお父様は……?」
「わかってくれます。きっと。生きるためだと。たとえ私が記憶を失っていたとしても、きっと私だとわかってくれると思っています。リンダ・エヴァンジェリーナの名前を見たら」
アイリスはパルミラの顔を見つめた。
たしかに、そこには怖れがあった。
自分ではどうにもできないものに巻き込まれてしまったのだ。
しかし、かすかな希望も見ることができた。
「ジグムンド陛下は、すでにパルミラの行方を追っている人物がいるとおっしゃいました。お願いです。どうか助けてください。私が新しい人生を生きられるように——」
自分を見つめるアイリスの表情を、難しい顔と思ったのだろう、パルミラは重ねて言った。
「心配しないでください」
パルミラは微笑んだ。
「私、リンダの記憶さえあれば、きっと生きていけます」
「——少し失礼いたしますね」
アイリスはパルミラに断って、隣室の扉を叩いた。
「入りなさい」
すぐにノーフォーク侯爵の声が聞こえた。
「お父様、パルミラ様のお話を伺いました。二度目に、挑もうと思います」
「わかった」
父の返答は短かった。
「もし、失敗したら、どうなさいますか?」
アイリスの問いに、しかしノーフォーク侯爵は落ち着いていた。
「その場合は、私が魔法をかける」
黙ってうなずくアイリスに、ノーフォーク侯爵は言った。
「アイリス。あの時の出来事を思い出すのだ。おまえが自分自身に忘却の魔法をかけてしまった時、おまえの心の中には、このことを忘れてしまおう、そんな気持ちだけがあったはずだ。もう他のことはどうでもいいと思わなかったか?」
「おっしゃるとおりだったかと……思います。でも、自分の記憶は消せても、他人の記憶をどう消せばいいのか——」
ノーフォーク侯爵は、アイリスの言葉を聞くと、静かに言った。
「他人の記憶を消す感覚が難しいのなら、自分の記憶を消すつもりで行えばよい」
アイリスは目を見開いた。
「集中しなさい。おまえはかつて、たしかに自分の記憶を消した。おまえにはできるのだ。ただ、記憶を消す、そのことだけを考えなさい。そして、その瞬間、相手を自分の中に入れること」
「相手を自分の中に……?」
「そうだ。その時だけでいい。自分とは異なる存在。自分だけの記憶も考えも持った相手だ。しかし、記憶を消す時には、その存在を自分の中に取り込む。そして自分自身の記憶の一部を消す。そんな感覚でやってごらん。魔法をかけた後は、ふたたびそれぞれの存在に戻せばいい」
「そんなことが、できるでしょうか……?」
「かつて、ノーフォーク一族の中には、相手の記憶を消す際に、口づけをした者もいるそうだ。相手を自分の中に入れるために。その時だけ共鳴すると考えれば、感覚がわかるだろうか?」
アイリスは目を見開いた。
「共鳴……」
「そうだ。その時、魔法をかけられる相手もおまえのことだけを考えていると、より高い精度で魔法をかけることができるからな。さあ、戻りなさい、アイリス。失敗したらと不安になる必要はない。もう一度やってみなさい」
「はい」
アイリスはパルミラのもとに戻った。
父は長年ローデール王家に仕え、表には出さずに密かに記憶を消したことも数多くあるだろう。
それが、異能を持つノーフォーク一族の当主としての、王家との盟約だった。
(パルミラは望んでいる。それは生き延びるためだわ。そう、かつてのわたくしのように)
アイリスが自ら失った記憶。
それは、王子の婚約者としての記憶だった。
(わたくしは王子と婚約した記憶を、消した。これからも生きていくために。新しい旅に出るために)
アイリスは心を決めた。
「やってみよう」




