第15話 亡命者リンダ・エヴァンジェリーナ(1)
アイリスがノーフォーク侯爵を訪ねた日。
侯爵はその日の午後に、アイリスを伴って、外出した。
「アイリス、目隠しをするぞ」
「わかりました」
馬車の中で、侯爵はアイリスの目を黒い布で覆った。
目隠しをしたまま、アイリスは馬車に揺られ、目的地に到着してからは侯爵に手を引かれて歩いた。
いったい、どこに来たのかは、アイリスにはわからない。
軋む床。
扉を開ける時の重い音。
古い建物ではあるが、それでも清掃はきちんとされているのだろう。
かびの臭いや、ほこりっぽい空気は感じられなかった。
目隠しを外された時、アイリスの前には、一人の女性が座っていた。
女性、といっても、まだ若い。
少女というには成熟している。
ようやく成人したかどうか、という年齢に見えた。
肩先で切り整えられた、つややかな黒髪が印象的だ。
黒髪に似合う、紺色のシンプルなワンピースに身を包んでいる。
その髪型や身に付けている服からは、平民の女性であることが知れた。
しかし、色濃い疲労が隠せないにもかかわらず、背筋の伸びた姿勢、汚れのない整えられた爪からは、以前は裕福な家で暮らし、きちんと教育も受けた、そんな雰囲気が感じられた。
彼女は静かに窓から外の景色を見つめていた。
アイリスが椅子に座ると、女性はアイリスに向き直った。
ノーフォーク侯爵は、部屋の扉の脇に立ち、無言でアイリスを見守っている。
アイリスが視線を送ると、父はそっとうなずいた。
「……あなたは記憶を消したいのですか?」
アイリスは問いかけた。
「はい」
女性ははっきりとうなずく。
「どの記憶を消したいのですか?」
アイリスはそう質問し、返ってきた答えに、目を見開いた。
女性は言ったのだ。
「私がパルミラ・カレンベルクの名前で暮らしていた時の記憶を、すべて、消してください」
「……!!」
アイリスは目を見開いた。
パルミラ・カレンベルク?
まさか。
それは先週のこと。近所の奥さん方と話したばかりだ。
小さな黒い手帳に書き留めた文章が浮かんでくる。
○登場人物
シェファン王国、フランシスコ王子。
死んだ前婚約者。
新しい婚約者。
カレンベルク商会のパルミラ・カレンベルク嬢。
王子の婚約者になった、平民の女性。
(では、この人がそのパルミラだというの……!?)
アイリスはこの女性の噂を聞いただけで、本当の事情など、詳細なことはわからない。
(この女性の記憶を消す?)
それでいいのかと、父を見上げた。
父ははっきりとうなずいた。
「わかりました」
アイリスは女性の手を取った。
「わたくしを見て」
アイリスはそう言うと、ジグムンドに魔法を付与された指輪を外す。
一瞬にして、アイリスの髪は青に、瞳は紫色に変わる。
女性は驚いて、目を見開いた。
女性の目は、まるで琥珀のような、明るい黄色をしていた。
アイリスはしっかりと黄色の瞳を見つめる。
意識を集中する。
そして心の中ではっきりと意図を言葉にした。
『パルミラ・カレンベルクの名前で暮らしていた時の記憶よ、消えよ』
次の瞬間、女性の体は、まるで支えを失った人形のように、ぐったりとして椅子の上に崩れ落ちた。
「アイリス、よし。向こうの椅子に座って、待っていてくれないか」
「はい」
ノーフォーク侯爵は女性の体を抱き上げると、部屋に置かれていたソファに下ろした。
「あ」
すると、ソファに横たえられたとたん、女性が目を開けた。
「気分はどうかね? きみの名前は?」
「パルミラ・カレンベルクです」
黒髪の女性は黄色い目を瞬かせると、はっきりと言った。
同時に願っていた記憶が消えていないことに気づき、困惑の表情を浮かべた。
アイリスは息を呑んだ。
(……失敗したんだわ)
アイリスは落ち着いた表情を保ちながら、父を見た。
次はどうするのか。
アイリスにもう一度やらせるのか。
でも、忘却の魔法は、過去に一度しか使ったことがない。
その時も自分自身にかけてしまったもので、自分以外の他人にかけたことはないのだ。
やり方が間違っていたのか。
あるいは、もうアイリスに魔法の力がなくなっているのかもしれない——。
「お父様」
アイリスが思いきって父に声をかけると、意外にもパルミラ自身が声を上げた。
「あの」
アイリスとノーフォーク侯爵の目が、パルミラに集まる。
「この方と二人で少しお話をしたいのですが、だめでしょうか?」
パルミラはノーフォーク侯爵に許可を求めた。
「どのようなお話をなさりたいのですか?」
ノーフォーク侯爵が慎重に言葉を返した。
「個人的なことを話すのは、おすすめできません」
パルミラは一瞬、視線を落とした。
「私は、記憶を消したいと言いつつ、自分の中に抵抗があったような気がするのです。それで、うまくいかなかったような気がして。ですから、少し私の話を聞いていただけたらと。私自身も、自分の気持ちを整理したいのです」
ノーフォーク侯爵はしばらく無言だった。
アイリスは父が「いえ、次は私が行いますので」と言うだろう、そんな気がしていた。
しかし、ノーフォーク侯爵は意外にもパルミラの願いを聞き入れた。
「よいでしょう」
ノーフォーク侯爵はアイリスを見た。
「私は隣室で待機している。何かあれば呼びなさい」
「はい」
ノーフォーク侯爵が部屋を出ると、パルミラはほっと息を吐いた。
幾分、緊張が取れたような表情で、パルミラは改めてアイリスを見上げる。
「あなたがどなたかは存じません。でも、黒いドレスを着て現れたあなたを見た時に思いました。あなたに聞いていただきたいと。……私、パルミラ・カレンベルクは知るべきでないことを知ってしまったのです。ですから、生きるために——パルミラの生を捨て去る決意を、いたしました」




