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黒衣の男爵夫人は、最愛を想いながら今夜も手帳を開く  作者: 櫻井金貨


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第14話 秘密の一族の後継者(2)

「一人、記憶を消したい女性がいる」


 はっきりと言われて、アイリスは思わず息を呑んだ。


「わたくしに、忘却の魔法を使えとおっしゃるのですか」

「そうだ」


 ノーフォーク侯爵は言った。


「詳細は明かさない。その女性は、ノール王国に亡命してきている。そして陛下は本人の安全のために、記憶を消した方がよいと考えられた」


「でも……忘却の魔法なら、お父様が……あるいは、お母様やお姉様だって——」


 ノーフォーク侯爵は低い声で言った。


「私とローズマリーの魔力は、年齢を重ねるとともに落ちている。そしてマーガレットは他家に嫁いだ。当初は魔法の力を維持していたが、出産後、ほぼ力を失っている」


「!!」


 今まで知らされていなかった事実に、アイリスは思わず息を呑んだ。


「わたくしも、結婚しております」


「……おまえには子どもがいない。おまえはまだ力を維持しているはずだ。このノーフォーク一族に伝わる力は、おまえを次期の当主と認めているのではないか、と私は思っている」


 アイリスは思わず立ち上がった。


「……お父様! わたくしは以前、申し上げたはずです。わたくしはユーグとともに生きると。シンプソン夫人として生きるのだと。わたくしはもう、忘却の魔法は使いません」


「そうだ。使わないのだ。使えないのではない」


 アイリスは沈黙した。


「アイリス。人を助けるためでも、使わないか?」


 アイリスは一瞬、びくりとした。


「この女性は、命を狙われている。故国を捨てて、新しい国で、新しい自分となって生きることを、本人が望んでいるのだ」


「その方が——記憶を失った方が、よいと、決断されたのですか?」

「そうだ。人生をやり直すために」


 ノーフォーク侯爵は言った。


「おまえには彼女の気持ちが、よくわかるだろう。自分自身で、王子と婚約していた時の自分の記憶をすべて消してしまったのだから。そして、ローデール王国を出て、ユーグとともにノール王国で生きることを決めた」


「それは」


『きっと大丈夫よ……、人生はいつでもやり直せるわ……』


 アイリスの頭の中に、かつての自分が呟いた言葉が響く。



 アイリスはうつむいた。


「アイリス。お父様はああおっしゃっているけれど、あなたの気持ちが辛いのなら——」


 アイリスは母にそっと首を振った。


「わかりました。ご本人がそこまで望んでいらっしゃるなら——引き受けます。でも」


 アイリスは父を見上げた。


「あの時は、無我夢中で。自分で魔法をかけようと思ってできたことではありません。あれから一度も魔法は使っていませんし、他人に魔法をかけられるかもわかりません。成功するかどうか」


 ノーフォーク侯爵はうなずいた。


「試してくれるだけでいい。もしだめだったら、私が何とかしよう——アイリス」


 ノーフォーク侯爵はアイリスの肩に手をかけた。


「おまえに忘却の魔法を使う力が受け継がれているのは、わかっている。力があるのならば、自分自身で力をコントロールする方法を知っていた方がいい。そろそろ……その時だと思うのだよ」


 アイリスは父を見つめる。


 幼い頃から母とともに厳しくアイリスに接し、教育を施し、厳しい貴族社会でも生き抜ける力を育んでくれた父。


 王子の完璧な婚約者となるよう、家でもいっさい甘やかすことのなかった父。


 そんな父が、秘密の異能を抱えるノーフォーク一族の後継者という重大な問題に関して、今までずっと沈黙を守っていてくれたのだ。


 婚約破棄。王家叛逆の罪にて国外追放。侯爵令嬢としての身分剥奪。


 それは婚約者だった王子から受けた理不尽な仕打ちだったが、アイリスは彼と戦うよりも、過去は忘れて、国を出る道を選んだ。

 新しい人生を生きるために。


 そんなアイリスを、何も言わずずっと見守り続けてくれた、そんな父なのだ。


「はい」


 アイリスの答えは、短かった。

 しかし、今まで遠ざけていたものへの覚悟が、宿り始めていた。


 アイリスは、すっと立ち上がった。

 右手の薬指にはめた指輪を、外した。


 栗色の髪が青に変わり、明るい茶色の瞳は、紫に変わった。

 まっすぐに父を見つめると、すっとドレスの裾を持って、腰を落とした。


 黒のレースを使ったドレスが、ふわりと床の上に広がる。


 アイリスは十分その姿勢を維持すると、ゆっくりと体を起こした。


「アイリス——」


 アイリスは微笑んだ。


「かしこまりました」


 アイリスの紫色の瞳が、父であるノーフォーク侯爵をじっと見つめる。


「お父様のお力になれるよう、全力を尽くします」


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