第13話 秘密の一族の後継者(1)
「奥様、お疲れ様でした」
ノール王国国王との謁見を済ませたアイリスと侍女のセイラを乗せた馬車は、夕方になってから下町にあるシンプソン男爵邸に戻ってきた。
ほっとした表情でアイリスを迎えた執事のトマスだったが、何か心配ごとでもあるかのような様子が見える。
はたして、まず居間に座ってお茶を飲み始めたアイリスに、トマスはためらいながら一通の手紙を差し出した。
「奥様、お留守中にこちらが届きました」
差し出された手紙をアイリスが見れば、見慣れたノーフォーク侯爵家——実家の封蝋が施されている。
アイリスは困ったように微笑んだ。
「お姉様に話した時点で、これは予想できたことね。それにジグムンド陛下からも連絡があったでしょうし」
そう言って、アイリスはティーカップをテーブルに戻すと、封を開けた。
さっと目を通すと、手紙をたたんだ。
「トマス、実はね、ジグムンド陛下から、ロアノーク聖王国への同行を打診されて、お受けしたのよ」
「ロアノーク聖王国へ、でございますか?」
「ええ」
アイリスはうなずいた。
「もちろん、旦那様の行方に関わることよ」
トマスは驚いたようにアイリスを見つめた。
「それでね、数日中には出発することになると思うわ。お父様はお手紙の中で、話があるから会いたいとおっしゃっているの。もう時間はあまりないわ。会うなら、明日の午前中に伺うのがいいと思うのよ。これから手紙を書くわ」
トマスもうなずいた。
「お手紙は、今夜中にお届けいたします」
「ありがとう」
アイリスはセイラを見た。
「セイラ。その間、あなたには旅行の荷造りをお願いしたいけどいいかしら」
「かしこまりました、奥様」
トマスが労りを込めた目で、アイリスを見た。
「お忙しくなりますね、奥様」
「ええ」
アイリスはそう言って、ふたたびティーカップを手に取る。
貴婦人らしく、すっと伸ばした背中。
淡い微笑みを浮かべた表情。
一見、アイリスは落ち着いて、もう普段どおりに振る舞っているように見えた。
しかし大きく見開かれた目は、美しかったけれど、まつげが微かに震えている。
「きっと、その方がいいのよ」
アイリスは一瞬、視線を下に落とした。
まるで涙をこらえるかのように。
「今は、わたくしがしっかりしなければ」
まるで自分に言い聞かせるようにアイリスはそう言うと、静かに立ち上がった。
「二階にいるわ。手紙を書いたら、セイラに持たせます」
トマスは頭を下げた。
「かしこまりました」
***
翌日。
午前中のお茶の時間に合わせ、アイリスは王都の貴族街に堂々と構えている、ノーフォーク侯爵家のタウンハウスに到着した。
侍女であるセイラの付き添いもなく、単身での訪問である。
しかし馬車が正面玄関前に止まり、御者がドアを開けて、アイリスを助け下ろすと、大きく玄関の扉が開き、年配の男性と女性が飛び出して来た。
「……アイリスっ!!」
艶のある、上品なグレーのデイドレスを着た貴婦人と、落ち着いた茶色の上着にスカーフタイを合わせた紳士。
貴婦人はアイリスに駆け寄ると、ぎゅっとアイリスを抱きしめた。
「……お母様、そんなに急がれては、危ないですわ。転んだらお怪我をなさいます」
アイリスは困ったようにそう言ったが、貴婦人はそっと指先で涙をぬぐうと、アイリスの額にキスをした。
「あなたのことを心配していたのよ」
柔らかなグレーの髪を、白いリボンでまとめた貴婦人は、たとえ年齢を重ねてもどことなく愛らしい雰囲気が、アイリスによく似ていた。
「ローズマリー。そんなところで立ち話はいけない。中に入りなさい。アイリス、よく来たね。お茶を用意しているから、ゆっくりしていきなさい」
「ありがとうございます。お父様」
アイリスはすでに涙ぐんでいる母に寄り添い、父であるノーフォーク侯爵について屋敷の中に入る。
用意されていた部屋は、庭に面した一階のサロンだった。
「アイリス。マーガレットから聞いたが、ユーグの話は本当なのか。死亡したという連絡があったというが、私は宮廷でそのような話は何も聞いていないのだ。しかし、陛下が——」
そこでノーフォーク侯爵は言葉を途切らせた。
召使い達は察して、手早くお茶を用意すると、すみやかに退出していった。
明るい、南向きのサロンに座った親子三人だけが、静けさの中にお互いを見つめ合っている。
アイリスはうなずいた。
「ええ。昨日、陛下にもその件でご相談いたしました。そして、実際にユーグの生死がわからないことが判明したのです」
「なんと」
「陛下から、ロアノーク聖王国への同行を打診されて、お受けいたしました」
アイリスがきっぱりと言うと、ノーフォーク侯爵はじっと娘の顔を見つめた。
「ロアノーク聖王国では、近々、新しい聖女の就任式が予定されているな」
「はい。陛下は就任式に招かれていらっしゃるということで」
ノーフォーク侯爵はしばらくの間、何も言わなかった。
「……おまえの身に、危険はないのか? 侯爵家から護衛の者を同行させることもできる」
アイリスは頭を振った。
「いいえ。わたくしはすでに侯爵家を出た身。現在はシンプソン男爵夫人です。護衛が必要なら、わたくし自身で手配をいたします」
「アイリス。——時には、実家を少し頼ってもいいのだぞ?」
ノーフォーク侯爵はため息をついた。
落ち着いている娘の様子に、むしろ自分自身の方がいたたまれないのだ。
しかし、王子との婚約者時代には『完璧令嬢』とまで言われた娘である。
自分の感情を抑え、完璧にまで貴族の婦人として彼女が振る舞えるのはわかっている。
そんな父親の葛藤を知らずに、アイリスは淡々と言葉を続けた。
「……それより、お父様。お話があるとのことでしたが」
アイリスにそう言われて、ノーフォーク侯爵は少し困った表情をした。
「あまりよいタイミングではないのだが——しかし、おまえも思ったより落ち着いている様子だし、できれば力を貸してほしい」
「……あなた」
ローズマリーが低い声を出した。
「アイリスが大変な時に」
しかし、アイリスはやんわりと母をさえぎった。
「お母様、大丈夫です。お父様、お話を伺います」
ノーフォーク侯爵はうなずいた。
「アイリスに力を貸してほしい件がある。それは、ノーフォーク一族に依頼された仕事なのだ。そう言えば、わかるね?」
ノーフォーク一族に依頼された仕事。
アイリスはじっと父を見つめた。
一族はローデール王国を出て、ノール王国に移っている。
つまりは、ノール王家に忠誠を誓っているのだ。
ということは。
その仕事とは、ノール王国国王ジグムンドからの依頼である。
「一人、記憶を消したい女性がいる」




